鋼拳のお話(4)
片谷木 遼道が目を覚ましたのは、決着からほんの僅か、さして時間も経たぬ頃であった。
元より頑丈な男である。殴られての怪我はいずれも軽く、顔面を両足で酷く打たれたものでさえ、首に痛みを残さない。まるで微睡から覚めるかの如く、片谷木はすうと体を起こした。
「やあ、おはよう」
「左馬か……」
片谷木はまず、周囲を見渡した。
何も変わらぬ己の道場である。床板を一部踏み抜き、壁は広くへこませたものの、他に何が変わる訳でも無い。血やら汗やらの臭いが柱にまで染みついた道場である。
自分が何をしていたか、思い出そうとする。一人の少女――村雨と、手合せをしていたのだと思い出す。
既に道場を去ったか、村雨の姿は何処にも見えなかった。だが、姿は鮮明に、瞼の裏に描ける。
技術は未だに不足だが、良く動く少女だったと、手合せの流れを思い返す。良く避け、良く打ち返してきた。だから、自分自身も強く打ち返した――上手く受けねば肋も胸骨も微塵になるような拳をさえ振るった。
戦うのは、楽しいものだ。
自分が放った打撃の一つ、受けに用いた技の一つ、頭の中で振り返って片谷木は楽しんだ。
あの時こうしていればと、悔いる事は無い。だが、次にどうしようという案は幾らでも湧いて出る。全く戦いとは飽きぬ娯楽である――と、そうまで思索が辿り着いて、
「私は、負けたのか」
「……ああ、気に入らないが」
両腕が首に巻きつく感触、血が上らなくなって意識が遠のく、あの感覚をも思い出す。視界がすうと狭くなって、頭が一度重くなり、それから心地良さが肺を満たす。真っ当に生きていては、そう幾度も味わう事の無いものだ。
罅の入った腕で絞める――昂揚に身を浸している内は良いが、正気に返ってからが辛かろう。片谷木はどうしてかそんな、他人の事ばかり考えていた。
「片谷木、お前に失望した」
毒気を含んでそう言うのは、顔に影の差した松風 左馬であった。
「負けたからか」
「手を抜いたからだ。女子供が相手と、手を抜くような男では無いと思っていた。だから五年前、お前は私の両腕を砕いてまで勝ちを奪ったのだろう?」
左馬は、床にあぐらを掻いたまま、顔に浴びるように酒を煽っていた。酷く不機嫌なのが、声の棘から伺えた。
自分はこの男に勝ったと、左馬は村雨に言った。その言葉に偽りは無いが――それより数年も昔、松風 左馬は、片谷木 遼道に敗れている。
村雨と全く同じ流れだ――攻め込み、仕留めるに足る一撃を打ち込んだと確信した瞬間、〝日の本最強の正拳〟を打ち返された。両腕を交差して防ぎ――そして、両腕とも砕かれ、肋に罅を入れられ崩れ落ちた。
左馬が勝利したのは、それから四年も後――つまりは、つい一年程前の事である。
その時は、一度目に比べ、いずれも死に近づいた争いであった。
片谷木はその時、左腕の腱を切り、また右膝を逆方向に曲げられた。両目を酷く腫らし、喉を傷め、腹には酷く痣を作り、二日は寝床から起き上がれぬ程であった。
左馬は危うく左目を失う所であったし、圧し折られた肋が内側から筋肉に刺さり、危うく外側へ突き抜けかけた。鎖骨、胸骨、大腿、肩、罅は無数に入り、これで勝ったと言おうと、当人達以外の誰も信じぬ有様であった。
互いに、恨みなど無い。どちらが強いかと知りたいという理由さえあれば、殺し合えるのが武術家である。
だから左馬は、片谷木に失望したと言ったのだ。
「お前なら、村雨の目を潰せた筈だ。首をひねるなり、喉を握りつぶすなり、手は有った筈だ!」
首に腕を回されてから、片谷木が落ちるまで、暫しの猶予が有った。打撃に比べて練度の低い絞め技――加えて、片谷木の首は柱の如く太い。絞められながらでも背後に手を伸ばし、村雨の頭を掴み、目を指で抉る事は出来たのだ。
「違いない」
「なら――」
肯定する片谷木に、左馬は怒りを露わにする。掴みかからんばかりの左馬を、制止したのは片谷木の右手であった。
「仮定の話ならば、同じ事だ」
「何が」
「あの時、あの少女――」
「村雨、だ」
「――村雨は、私の首を食い千切る事も出来た」
「………………」
争いには、程度が有る。
例えば左馬と片谷木が行ったのは、〝仮に己が死すとも悔いぬ〟程度のものである。だから二人とも、一つ間違えば相手の命を奪う技までを用いて、互いを存分に壊した。
翻って村雨との手合せでは――〝殺さないように〟と左馬は言った。だが、対峙した二人は決して、そう捉えていなかった。少なくとも片谷木は、村雨の顔つきから、手脚の運びから、その意思を汲み取っていた。
即ち〝重大な欠損を与えぬ〟事――片谷木は、そう、戦いの規則を受け取ったのだ。
事実、村雨は鋭い打を繰り返したものの、それが耳や鼻、或いは股間など、後遺症の残る部位への打撃は行っていない。目への蹴りは放ったが、指で的確に潰すような物では無かった以上、命中したとて、目の周りを腫らすに留まっただろう。
そして、村雨が片谷木の拳を躱し、背後を取られた時でさえ――村雨が用いたのは、命を取らねば武の道も断たぬ、平和的な技であった。
「首の血管でも、延髄でも。耳も、肩の肉でも、あの時、村雨には食い千切る手が有った。……亜人だろう?」
左馬は言葉で答えず、一度、首を縦に振るだけである。
「良く抑えたものだ。〝ああ〟なったのであれば、衝動は抑えがたいだろうに。獣性を解く悦を知って、己を理性の枷に繋ぐとは」
「……私に言わせれば、まだ未熟だ。獣を捨てきれず、人にも成りきれずの半端者だよ」
「そう言うな、認めてやれ」
片谷木は、岩のような顔を少し緩めて笑った。負けをすがすがしいと受け取れる男であった。
手を伸ばし、左馬が煽る酒をぶんどり、自分もまた、顔に浴びるような飲み方の真似をする。
「美味い酒だ。左馬、何処で買ってきた?」
「……勝てば、もっと美味い」
「伏せるのか、けちな奴」
分厚い体にたんと酒を溜めこんで、片谷木は満ち足りた顔で笑う。
左馬はそれを、胡坐を組んだまま、膝の上に肘をおいて頬杖をつき、仏頂面のままで見ていた。
好みの酒の味さえ変わる、夕過ぎであった。
魔術というものは、兎角、便利であるが、複雑である。
例えば、怪我を治す――治癒魔術が有るとする。
これは、例えば負傷箇所の時間を巻き戻して〝無かった事〟にしたり、逆に負傷箇所の時間を早めて〝自然治癒〟させたり、新しい部品を外側から付け足して〝再構築〟したりするのである。
一つ目のやり方が、一番安全だ。
二つ目のやり方は怪我の前より負傷箇所は頑丈になりやすいが、寿命が縮む。
三つ目のやり方であると、体は順当に発達するし、寿命が縮むような事も無いのだが、腕の悪い者にやらせると、暫くは腕がろくに動かせなくなったり、歩くのに難儀したりする。付け足した部品が、体に馴染むまでに時間が掛かるのだ。
「いっ――痛い痛いいたたたたっ痛ぁっ!?」
ちなみにこの夜、村雨が受けていたのは、三つ目のやり方の治療であった。
〝看板通り〟から少し離れた所に、外傷専門の医者が住んでいる。
医者とは言うが、刃物や針で切ったり縫ったりは、あまりしない。先に述べた、治癒魔術を主とする医者である。常に酒に酔ったような顔色をしている、白尽くめの女であった。
「はぁい、痛かったらもっと大声で伝えてくださいねー。痛覚は健康の印ですよー」
「痛い痛いすっごく痛いいた、痛いってばー!」
何故、村雨が叫び続けているのかというと、この女医者、村雨の罅が入った左腕を、万力込めてギリギリと握りしめているのである。
手合わせの最中ならば、昂揚で痛みも紛れるだろうが、これは痛い。体の内側から、火で肉を炙られるようなものだ。
無論、こんな事をすれば、動けぬ患者でさえ大暴れをし始める所であるが、そうはさせぬと診察台には、鋼の手枷足枷が備わっている。患者を大の字に拘束して、治療を進める為のものである。
「うーん、左腕に罅が入ってますねぇ。右腕は腱だけで……こっちは明日には治るでしょう、若い子だし。胸も腹も軽傷……治しがいの無い子でつまらないですねぇ」
「ひー、ひー……お、面白がらなくていいから、まともに……」
あれだけの手合わせの後で、また叫ぶ羽目になったのだから、村雨は息も絶え絶えである。胸を上下させて呼吸を繰り返し、自分がどうしてこんな事になっているのかを振り返った。
手合わせの終了後、片谷木の首から腕をほどいて直ぐ、村雨はぱたんとひっくり返った。意識はあったが、思うように体が動かないのである。
胸への打撃も受けている。万が一の事があれば――珍しく左馬が、そんな他人を気遣うような事を言って、村雨をおぶって運んだのだ。
小綺麗な門をくぐって、家屋に運び込まれたまでは覚えている。医者に顔を覗き込まれながら、診察台に乗せられたまでは覚えている。そこからは、ぐっすりであった。
そして目を覚ませばこの有様なのだから、村雨にはたまったものではなかった。
「あの女、毎日毎日患者を増やしてくれて……」
「そ、それはごめんなさい……私も含めて」
「まー、おかげで繁盛してるからいいんですけどぉ。野太い悲鳴ばっかりもう聞き飽きたのー、目端を変えたいのー」
女医者は、やけに踵の高い靴で、かたかたと貧乏ゆすりをしているようである。
左馬とは顔見知りのようで、治療の話もとんとんと進んだが――村雨はこのあたりで、自分がこういう目に遭っているのも、左馬のせいだろうと悟っていた。理不尽それすなわち師が故と、村雨は三ヶ月でしかと学んでいたのである。
「……あのー、悲鳴があがらない方法は無いんでしょうか……?」
「無いですねぇ。私の場合、直接触れないと、効き目が出ないもので――」
がっしり。
今度は腹部、両手刀を打ち下ろされた箇所を、女医者の両手が、指が食い込むまで掴む。
ぎゃあと叫ぶ村雨は、怪我人とは思えぬ賑やかさで、達者であった。
それを、隣室で聞いていた者が有る。壁に背を預け、やさぐれて座していたのは、松風 左馬であった。
「……勝ったのか、あいつが」
左馬は、虚空に拳を走らせ、ひゅおうと風音を立てていた。
幾度もの戦いを経て、ついに三年前、漸く仕上がった拳である。仕上がってから、殴り合いで負けたことは一度も無い。
五歳で武の道を志し、其処へ届くまで、十五年の歳月を費やした。今、左馬は二十三歳――武人としては、異例の若さである。
だが――村雨は、まだ十四歳であった。
「……ちくしょう」
五年前、左馬は片谷木に負けた。それから、左馬は強くなったが、片谷木も当然強くなっているのである。
十八の自分より、今の村雨は強いのだと――十年以上を武に費やした自分より、たったみ月ばかり技を習った村雨は強いのだと思えば、左馬の腹の内には、吐き気にも似ているが、もう少しどろどろと喉に引っかかる、言い様の無い感情が湧き上がった。
「ちくしょう……っ」
それは、激しい怒りと――それさえも凌駕する嫉妬であった。
左馬は才に溢れた女であるが――そう、女なのだ。
背の伸びは、十四でほぼ止まった。骨も決して、太くは生まれつかなかった。引き絞られ、硬く筋肉を纏った体は美しいが、然し同じ年齢の男と並べば、明らかに見劣りする体躯である。
だから、一度は片谷木に負けた。技量では補えぬ、圧倒的な力の差を思い知らされたのである。
持たない物を欲しがるのは、無意味な事だと知っているが、それでも。
世の男達のような、大きな体が有れば――
片谷木のような、分厚い骨と肉が有れば――
或いは雪月 桜のように、道理も何も覆す、怪物的な力が有れば――
幾度夢見たか分からぬ程の、それは脳の根の方に噛み付いて離れない、『もしも』という妄執である。
自分は強くなった。ならば、もしも強く生まれついていたら――?
「……見苦しいな、私は」
灯りの無い部屋で、左馬は膝を抱えて、そのまま右手の方に横倒しになった。障子の隙間からは、膨らみ始めた月が見えている――雨は止んだらしい。
ざあと振り、直ぐに止むにわか雨――〝むらさめ〟であったのだなと、ぼんやりする目で見ながら、左馬は思った。
大陸の生まれだろうに、日の本風の名だ。漢字は、宛字なのだろう。突然に現れた、にわか雨の如き少女であった。
あれは――生まれついて、持っている側の生き物だ。
強い脚と、鋭い牙と、敏い鼻を持っている。日夜を問わず目が利き、指は自重を支えて余りある頑強さで、夜を徹して馳せる持久力を持っている。
何より、殺意と理性を持っている。
人が人として育たねば、理性は育まれない。だが、理性を磨く過程で、生まれ持っての殺意は、必ず弱められる。
究極の所での戦いに、勝敗を分ける明確な要素を挙げるなら、殺意もその内であろうと、左馬は信じていた。
虫を踏み潰すとか、犬猫を川へ投げるような、子供の気まぐれでは無い。同じ人間を、自己の欲求の為に殺しても良いという、我欲に支えられた殺意。村雨はそれを持っていて、尚且つ理性で枷を掛けようとする生き物であった。
人でも獣でもなく、だが反面、人も獣も同胞である。同胞を殺すなど、実は生まれ落ちて育つ過程で、幾度も済ませていたのだろう――狩りという形で。
強く生まれ、環境に育まれた、生粋の殺人者――
「……羨ましいよ、ちくしょう」
――どれ一つとして左馬が得られなかった物を、村雨は――亜人は持ち合わせている。
だから左馬は、亜人が嫌いだった。半獣と蔑み、叩き伏せ、自らの優位を示して尚も、本当は自らこそが劣る生き物だと知らされるからだ。
「負けたくない……っ!」
絞り出した声は、強く勇ましく在らんとする女には似合わぬもの――子供のような、涙声であった。
膝を抱えた胎児の格好で、床に頬を預け、暫し左馬は啜り泣いた。
しと、しと、と落ちる涙の音に、もう少し重い音が混ざったのは、闇がより色濃くなって、月も雲の中に隠れた頃であった。
初めは、廊下を人が通った音かと、左馬は思った。醜態を見られたくないと立ち上がって、そこで気付いた事がある。
どうにも、音が遠すぎた。既に何処かへ消えた音では有ったが――西から東へ、真っ直ぐに歩いていく音に聞こえた。
音にも、多種の情報が有る。左馬の耳はその内、戦闘に関してだけを拾い集める。
例えば音の速さ――ゆったりと歩いて通ったような消え方をした。夜歩きは、この〝看板通り〟近隣であれば、安全とは言い難い。
地面を擦るような足音に聞こえた。摺足が染みついているのだろうが、一定の間隔で届いた音は、その者の修練の成果を示している。即ち、歩と歩の間隔が骨髄に染み渡っている者の音である。
その中に、かちん、という硬質な音が割り込んだのを、左馬は聞いた。音も無く跳ね、素足のままで路上に出た。
――鍔鳴りか。
足音の主は、刀を収めたらしい。つまり、〝それまでは刀を抜いていた〟という事だ。
突然に、風が吹いた。東へ向かって吹く風、足音を追い掛ける風である。左馬には、慣れた臭いが届けられた。
左馬は風上、西を見た。
何か、黒いものの中から白いものが飛び出している。
〝それ〟は、どう間違えようとも、僅かに永らえる事も出来ぬ身であろうと見えた。
「……なんだ、これは」
〝それ〟は、良く壊された人体であった。
裸形の女が、どす黒い血に塗れている。胸が斬り開けられ、肋骨が、その湾曲した形状を留めたまま、逆向きに体から突き出している。
肋骨の先には、様々な臓腑が吊るされていた。心臓、肺、胃、腸、肝臓、腎臓――恐怖が焼きついた顔の、開いた口に詰められているのは、屍の女自身の子宮であった。
左馬は、足音が過ぎた方角を睨み、拳を握りしめた。
遠くに影一つが見えた。顔までは定かに見えぬが、その衣装の奇妙は、左馬の――人間の目にも、はっきりと映った。
夜の闇から抜け出したように、〝そいつ〟は黒かった。
肩衣に袴と、しかと正装に威儀を正して闇を縫う、衣はいずれも漆黒。
血を吸うたとて、色の変わらぬ黒である。たんと血を浴びたにも関わらず、細目の月光では輝かぬ墨の色でもある。
だが、〝そいつ〟の黒の最たる物は、その黒髪であった。
西風に揺らされる黒髪は、目方で三尺もあろうか。人の血を浴びて、艶めいた黒髪である。指を通せば一度も掛からず、根本から毛先まで触れられそうな髪であった。
そして――左馬は、見えぬ筈のものを、見た。
角を曲がって小路に消える〝そいつ〟の、冷たく凍り付いた微笑を――
〝そいつ〟は恐ろしく、美しい女であった。




