表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界大陸軍戦記-鷲と女王-  作者: 長靴熊毛帽子
第六章『草長の国』戦争~東部戦役~
94/115

第九十話 死せる勇者たちの戦い(前編)

 黒インクで満たした夜空の白い満月と煌めく星たちが消える。蹄鉄砦は巨大な松明のごとく輝き、目を覆うほどに明るい緋色に灼熱された砲弾がそこかしこに降り注ぐ。最初の一発目は流星を思わせ、城壁に立っていた男は思わず飛来するそれに手を伸ばした。


 数百度に熱された鉄の塊はけたたましく地面に打ち付けられると途端に周囲を劫火で満たしていく。乾燥した木屋根、通路を塞ぐように置かれた樽、馬房の寝藁。そして不幸な人間。およそ燃えるものなら何もかもが燃え立って叫ぶ。


「砲撃だ! フランス軍の焼き弾だ!」


 見張りが金切り声を挙げて叫び、警戒を促す鐘を乱打して誰彼もを眠りの淵から呼び戻す。


 火は本能的に人間の恐怖を呼ぶ。あたりに叫び声がまき散らされ、パニックに陥った兵士たちが通路を走り回る。それを見ていた子供は飛んでくる砲弾よりも大人たちの様子に泣き声をあげ、それがまた別の誰かのさかむけた神経を啄む。


「狼狽えるな。焼き弾とてどれほどの事か。事前に編成した消火隊は作業に取り掛かれ。指揮官は部下を掌握せよ。みだりに叫ぶ者、持ち場を離れる者は斬れ! コルネス! 武器を持てぬ者を地下倉庫へやれ」


 就寝中だったグーエナスは警鐘の最初の打撃で目を覚ますと、即座に指示を飛ばした。堂々たる体躯の城守は麻の寝間着の上から戦闘用の厚手のマントを羽織った姿で兵士たちの前に姿を見せた。それだけで兵士たちの間は親を見つけた子供のように落ち着きを取り戻し、己の役割を思い返した。ある者は水桶に走り、ある者は土で満たした袋を焼き弾の上へ被せていく。


「閣下! 城壁の監視が四方に松明の群れを確認しています。総攻撃が始まったのでは。守備兵を配置につけますか」


 不安げに問いかける腹心のコルネスの報告にグーエナスは反射的に喉まで出かかった言葉を飲み込んで別の言葉を吐いた。


「……いや。ボナパルトの兵はまだ総攻撃には十分ではないはず。これはこちらの疲労を誘う脅しだ」


 グーエナスは舌を噛む。出来ることなら決戦前に兵を休ませておきたい。とはいえ、消火作業を怠るわけにもいかない。石造の砦といえど、石のつなぎ目などは木材だ。火が回れば砦そのものが焼け落ちて崩落する危険すらある。全ての兵を繰り出して火を消し止めなければ!


「内壁と地下倉庫周辺の消火が最優先だ。城壁の見張りは最小限で良い。総出で消火に当たらせろ。焼けた砲弾を石畳の上へ転がし出せ」


 グーエナスが指示を飛ばすと、顔中を煤塗れにした若い騎士が転がり込んできた。


「閣下! 炎が馬房に回りました馬を逃がさなくては!」


 その言葉にグーエナスは全身を刺し貫かれるような感触に奥歯を噛みしめて感情を殺した。


「場所がない。馬は楽にしてやれ。生きたまま焼かれるよりはよかろう……」


「悪霊のしもべ共め!呪われてしまえ!」


 不気味な風切り音と共に赤く輝く流星が降り注ぐ空を仰いで若い騎士は絶叫する。それは言葉を取り乱すことを許されないグーエナスの感情を代弁するようだった。


 地下倉庫へ逃げる途上の子供は、自らに死と破壊をもたらすために降り注ぐ火球の意味を解さず、ただその尾を引く赤と石壁にぶつかって飛び散る火花の閃光がもたらす輝きに見惚れた。


 ◆


 城壁、正門から五百メートルも無い距離でボナパルトは望遠鏡を覗き込んでいた。屈折する光が距離を縮め、輝く赤黒い背景を背に城壁の間を影絵のように人々が往来しているのが見える。


「……城壁の兵が少ない」


 ボナパルトのつぶやきは背後に控える幕僚たちにとって予想外のものだったので幾人かは不審そうに首をかしげて、自分たちの小さな指揮官の顔を覗き込もうとした。誰もが人と家屋を食い散らかしながら踊り狂う火炎の得も知れぬ魔性を帯びた破壊の光景に心を奪われている。


 ボナパルト一人が、人を狂気に酔わす魔術的な煌めきを無視して炎の中で義務を果たさんとする者たちの振る舞いを静かに覗き込んでいた。


「ウジェーヌ、どう見える」


 横に控える義理の息子の、炎に照らされて赤らんだ顔を見ながらボナパルトは問いかける。


「え、ええ……っと。凄く、壮絶です。こんな炎は見たことが無い。あの炎の下にいる人たちに敬意を払います」


「そんな事は聞いてない」


 ボナパルトは小さく舌打ちした。義理の息子は忠誠心も勇気も申し分ないが、指揮官として必要な目をもう少し養う必要がある。


「目を見開いてよく見ろ。城壁の上にいる兵士が少ない。敵はこちらの夜襲は無いと踏んでいる。火勢は風に煽られて西がよく燃えている。火災は起きているが、これだけ焼き弾を打ち込んでいるのに強まっていない。火災を制圧しつつあるんだ。音はどうだ?先ほどまでは無秩序な叫び声や悲鳴が聞こえたが、今はそうじゃない。敵は事態を掌握しつつある。救援部隊が壊滅したにも関わらず、だ。敵は未だに秩序と規律を保っている。これは容易ならん」


 義父の言葉にウジェーヌは目を輝かせた。この人は燃え盛る影絵を読み解いている。


「では、総攻撃を控えさせますか?」


「いや、予定通りだ。レイニエ師団は夜明けと共に押し出せ。砲兵と工兵、それと陽動部隊は今夜は一睡も無いと思え。攻撃部隊には精のつく食事を出してやれよ。温かい肉のスープとパンだ」


 ボナパルトは指示を出すと幕僚たちに移動の合図を出した。点検するべき箇所は多い。蹄鉄砦は三方が川とはいえ、渡れない事はない。ボナパルトが留守にしている間に工兵隊によって架橋工事が施され、三方からの侵入路が確保されている。無論、主攻は地続きの正門だが、敵の兵力を僅かでも分散させるために僅かな部隊を動かして攻撃の構えを取らせている。彼らも視察して回らねばならない。


 幕僚の一人が馬を引いてきたのを見てボナパルトは首を竦めた。


「馬はいい。歩く。兵を見て回る」


 フランス兵たちは風よけの塹壕や、砦に近づくための壕の中に肩を寄せ合って潜んでいた。寒さをしのぐための焚火には薪は無く、陽動のための松明明かりと工兵隊が砲弾を熱する炉、砲撃の閃光、そして燃え盛る砦だけが世界を薄暗い夕焼けのように染めていた。


 兵士たちの幾人かはこの幻想的ともいえる炎を見物するために顔を上げているが、大部分は銃を握りしめたまま肩を落として眠り込んでいる。


 勇者たちだ。とボナパルトは思う。彼らは砲火の下で眠りにつくことができる。今夜見る月が生涯最期に見る月になるかもしれないというのに、彼らは眠りにつく。彼らは明日、あの炎の中、煤と灰に塗れた石くれを奪うために飛び出していくのだ。違う。私が()()()()()()


「閣下、司令官閣下」


 暗闇の中から一人の兵士がボナパルトを呼び止めた。


「なんだ兵隊」


 ボナパルトの前まで来たその兵士は口からアルコールの臭気を吐き出しながらおぼつかない足取りで敬礼する。髪は耳を覆い隠すように伸び、手入れされてない髭が貧弱な獅子のたてがみのように伸びている。


 何日も風呂に入っていない身体から発する体臭に横にいたウジェーヌは思わず目と鼻を覆ったが、ボナパルトは眉毛一本動かさない。


「司令官閣下、伍長と賭けをしたんです。司令官は明日、俺たちだけで攻撃させるのか、それとも他の師団が合流するのを待ってから攻撃するのか……」


「それで」


「俺は俺たちだけで攻撃するほうに賭けたんです。明日の飲み代を。でも伍長は俺たちだけじゃ数が足らないって言うんです。どうなんですか。俺たちだけでやるんですか?」


「明日は伍長のおごりだな、兵隊」


「は、ははは。フランス万歳。他の師団の連中に手柄は譲りません。見ていてください閣下、あの砦の一番高い塔で、あの、まだ残ってる塔のてっぺんで弁当を広げてやります」


「名前を聞いておこう」


「は? ああ、ルイです。ルイ・オリヴァン」


「よし。ルイか。明日武勲をたてた兵士の名簿にお前の名前を探すぞ」


「任せてください」


 酔っ払いのルイはそう言うと陽気に調子の外れた笑い声をあげて「おごりだ、おごりだ」と繰り返しながら仲間たちが団子になって眠っている穴に飛び込んだ。


「プロヴァンス人の顔だったな、ウジェーヌ。見たか?」


「え?……あ、あの」


 ボナパルトは両手を後ろに組むと闇夜の中を歩み出していた。


「私は何人(なんにん)が死ぬかは決められる。だが、何人(なんぴと)死ぬかは決められない」


だから、顔を見てやらねばならんのだ。とボナパルトは口の中で呟いた。


 ◆


 日が昇る。地平線から目を刺すような明るさが現れた時、グーエナスは一瞬、時間が跳躍したように思えた。夜空を焦がす輝きを見てから、夜明けまでの時間が飛び去ったように。


「コルネス、コルネス!」


 腹心の名を呼び、三度目の呼びかけで返事を得た。


「グーエナス様、敵襲です! 敵が城壁に殺到してきますッ! 敵は既に堀を越え、城壁に取りついています!」


 その声は鳥の叫びに似て、耳を刺した。


「戦闘配置!持ち場につけ!」


 グーエナスは全身を震わせて発した。


 まさか。このタイミングでか?攻撃してくるのは分かっていた。だが、早すぎる。しかし、コルネスが言うのだから間違いないのだろう。ボナパルトの行動は全て読めている。しかし、打つ手がない。グーエナスは拳を壁に打ち付けた。


「私の鎧と盾を持て! 外壁は捨て、武器を持てる者は内壁に集え!」


 ◆


 フランス軍は太鼓の音もラッパのけたたましい音もなく、夜明け直前には共に塹壕から這い出して密かに戦列を整え終え、夜明けと共に突入を開始した。鋭く磨き上げられた銃剣が陽光に反射して、不気味に沈黙する兵士たちに変わって雄弁にその殺意と戦意の高さを物語る。


 レイニエ師団約三千人のうち、二千人が五百人ずつの集団に分けられている。それぞれを指揮するのはボナパルトの幕僚たちでサヴァリー、スルコウスキー、ラップ、ジュノーと言った面々が先頭に立つ。彼らは自らが指揮する師団こそ無いが、全員が歴戦の古強者であり一個師団を率いて戦うだけの力量と手腕を兼ね備えた将軍たちである。


 中でもジャン=アンドシュ・ジュノー将軍はボナパルトの古い友人の一人であり、(テンペスト)の異名で知られる勇将だった。黒い髭と異名に相応しく逆巻くような赤みを帯びたくせ毛を逆立て、精鋭歩兵である擲弾兵の先頭に立って砲撃で裂けた城壁に突進する。


 将軍たちに率いられたフランス兵たちはそれぞれが胸と腕に革や薄い金属でできた武具を身に着けている。それは先の攻城戦で受けた損失の教訓だった。敵が槍や剣で武装するならば、こういった防具は役に立つ。フランス軍は敵から奪い取った防具で身を固め、銃を乱射しながら瞬く間に動揺する敵を蹴散らしながら城壁を奪い取ってのけた。


「城壁を奪ったぞ」


 難なく城壁を奪いとって歓びの声を上げる兵士をジュノーはしかりつける。


「まだだ、壁はもう一枚ある! 俺たちはあの塔を奪うんだ」


 ジュノーが指差したのは城門の前にそびえ立つ物見塔だった。フランス軍の砲撃を受けてなお崩落せずに立っている、砦で最も高い塔。草長の騎士たちはこの塔をホルスロンの鼻と呼んでいる。


 最初に突入したジュノーの隊は奇襲の勢いに任せて塔への通路を塞ぐ敵を獅子が兎にとびかかるように蹴散らして回る。荷車で築かれた壁には手榴弾が押し込まれ爆破される。フランス軍は立ちはだかる者すべてに銃剣を突き立て、銃を発砲する。それは勇敢から狂気へと片足を突っ込むような勢いだった。


 しかし、グーエナスも手をこまねいてはいない。消火活動で疲労困憊している兵士たちを一杯の麦酒で奮い立たせると大盾を構えて濁流のごとく乱入してくるフランス兵の戦列に挑みかかる。


 突出したジュノー隊と後続のスルコウスキー隊との間に三百人の騎士たちが割り込んで分断を図る。銃とクロスボウが至近距離で発射され、そのまま兵士たちは短剣の間合いで刺し、殴り、殺し合いを始める。互いの発する言葉を解することは無かったが、殺し合う者たちの間には相互に理解する感情があった。


 互いの首に掴みかかる距離での殺し合いは、しかしグーエナスの部下たちに一日の長があった。彼らは近接武器を巧みに扱い、砦の地の利を生かしてフランス軍を血の沼に沈めていく。


 ◆


「司令官閣下、ジュノー将軍が塔を占拠しましたが、スルコウスキー隊が押し戻され、孤立しています。スルコウスキー将軍は負傷しました」


「ラップ将軍とサヴァリー将軍の部隊も押し戻されつつあります」


 部下から上がってくる報告にボナパルトは寝不足で充血した目を向ける。


「攻撃を続行しろ。クレベール師団の先頭が地平線にもう見え始めている。敵にこちらの援軍を悟らせるな。戦い続けろ」


 蹄鉄砦は炎と血で赤く染まっている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
ナポレオン側は一つ間違えると精兵の消耗がロシア遠征以上の影響力の消失、勢力としての存亡の危機に直結するだけあって一つ一つの戦役の重圧が半端なく感じます‼️
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ