第八十七話 戦争の馬車
白馬丘の会戦から一夜明けて、ボナパルトは敗走した敵の追跡にデュマ将軍指揮の三千の騎兵を送り出し、クレベール将軍に全軍を蹄鉄砦に移動させるよう指示した。一方で自分は司令部の要員と共に馬車に乗り込み、全軍に先駆けて蹄鉄砦へと移動する。
六頭立ての赤い馬車が舗装されていない、人馬の往来で踏み固められただけの道に轍をつけながら駆け抜ける。その周囲をベシエール将軍指揮下の五百騎余りの騎兵が固め警戒した。
馬車の中にはボナパルトは無論、その右隣には常にその影のように付き従うベルティエ参謀長、左にはクルーミルから派遣された過労で青ざめた表情をしている通訳の三人が乗り込む。とりわけ通訳は昨夜から捕虜にした貴族の尋問とその通訳をさせられており、馬車に乗り込むなり眠りの世界へ脱出している。馬車は轍の後にはまり込むたびに上下左右に音を立てて揺れるのだが、そんな事は疲労と寝不足ですっかり意味をなさなかった。彼はボナパルトが王都から連れ出した通訳のうちまだ過労で倒れていない最後の一人である。向かい側に義息子にして副官のウジェーヌが神妙な面持ちで座る。
ボナパルトはベルティエが夜を徹してまとめ上げた戦闘報告の書類に目を通している。紙束がめくられる音、時折漏れる囁き声、それ以外は奇妙な緊張と馬車が揺れる音とが車内にあるのみでウジェーヌは巨大な剣の真下に立たされているような気分になって唾を飲んだ。そのわずかな音さえ、池に投じられた小石が波紋をたたせるように大きく感じられる。
「敵の宿営地も制圧しました。敵の絨毯から通信文まで押さえてあります。暗号表と思われるものも捕獲しています。ノルケト殿に託して王都で内容を分析させるよう手配しました。負傷兵はラレ軍医の野戦病院に収容し、驢馬の市の病院に運び込む手筈になっています」
「よろしい」
ボナパルトはベルティエの報告に頷く。敵軍を文字通り壊滅させれば得られるものは莫大にある。中でも、敵の司令官が抱え込んでいた通信文の類を押収できた価値は大きい。単純に敵軍の計画が明らかになるだけではない。内通や裏切り、寝返りが当然の世界にあって、誰が誰とどのようなやりとりをしていたか、その証拠を握るのは非常に価値がある。クルーミルの諸侯相手の外交にも重要な意味合いを持つだろう。
ふと馬車が速度を緩め、やがて停車する。少しの間を置いて従卒が扉を開けた。
「司令官閣下、剣のサオレ殿が合流されました」
「来たか。よし、馬車に入れろ」
ボナパルトはそっけなく応じると、向かい側で頭を垂れている通訳の肩を揺さぶった。
「起きろ、仕事の時間だ」
通訳は急速に眠りの楽園から追放された。
◆
「王の友にして雷鳴の主、勝利者であるボナパルト殿に剣のサオレが拝謁致します」
馬車の扉の前で恭しく跪くサオレを見てボナパルトは眉をひそめて早く乗るように合図した。
「挨拶はいい、早く乗れ。聞く事がある」
サオレはボナパルトの向かい側、ウジェーヌの横に着座した。片腕の剣士について、ウジェーヌは友好的な感情を持っていない。冗談めかしていたとはいえ、初対面ではボナパルトを暗殺する素振りを見せたからだ。陣営を変えて寝返るというのも不信を誘う。なにか妙な真似をすれば即座に喉元に刃を立てられるようウジェーヌは腰にさげたサーベルの柄に指をかけている。
青ざめた表情の通訳の手を取って、ボナパルトが言葉を発する前にサオレがまず言葉を始めた。
「閣下の馬車は遠方からもよく見え、覇者の風格を漂わせております。ご存じでしょうか。諸侯の間では閣下の赤い馬車をこう呼ぶのです。戦争の馬車と。戦いの精霊が乗る血を流して走る馬が引く戦車にちなんだ呼び名です。閣下の常勝の名はかくのごとし、です」
サオレは短く束ねた黒髪を揺らしながら笑う。ボナパルトはその評判を表面上は無視して話を進める。
「サオレ殿、今回はよくやってくれた。敵をかく乱したほかに、もう一つ仕事をしてくれたようだな。クレベール将軍から報告が入っている。彼の前面に展開した草長の騎兵たちの抵抗が微弱だったことについて、貴殿が何かしたのではないかな?」
「ああ、ご明察の通りです。諸侯に閣下の軍勢に手向かいせぬよう助言致しました。もし閣下に味方すれば彼らは女王と戦ったことについて赦免されると閣下の名で約束しました。かくして草長の諸侯はヴィオス公を見捨て、閣下の勝利に貢献したのです」
世辞を無視されてサオレは特に気にする様子もなく返答する。前半部分については事実を語るが、後半部分について嘘をついた。寝返れば赦免されるなどという約束をしてはいない。あくまで過去の例を挙げて慈悲があるとにおわせただけだ。
「そんな許可は出していない」
ボナパルトは青灰色の瞳を細めてサオレを射抜く。サオレには一瞬、狭い馬車がさらに縮んで圧迫してくるような感覚がした。
「ですが、閣下の役には立ちました。クレベール閣下の前面には六千の兵が立ち塞がっておりました。彼らが決死の抵抗を見せたなら、勝てぬとは申しませんが閣下の勝利は色あせた事でしょう。また、諸侯にはダーハド王の軍勢に背いたという事実も残ります」
「ふん」
ボナパルトはサオレから顔を背けた。サオレの言うことは事実であり、また東部諸侯への赦免もそれほど難しい話でもない。サオレの言うように、諸侯にダーハド王を裏切らせた、という事実もまた無視できない政治的効果を持つ。これから『斧打ちの国』に侵攻するならば、東部地域は後方地域となる。かの地域の支持を得ておく価値は大きい。サオレのやったことは完全にボナパルトの利害に合致している。が、それが自身の指示や承認なくして行われたというのがサオレの功績をボナパルトが素直に賞賛できない故だった。
そんな事は許可していない。と否定することもできる。が、諸侯からすれば「ボナパルトが約束を反故にした」というように映るだろう。サオレの独断で行動が制約される事にボナパルトは爪を噛む。
「……よかろう。寝返った諸侯については女王に赦免をとりなす。それでよいな」
「閣下の御厚恩に感謝申し上げます」
ボナパルトはサオレの顔を見る。口角をあげて影の無い笑顔を作ってみせる男にボナパルトは舌打ちして釘を刺す。
「だが一度きりにしておけ。次はないぞ」
「よく心得ております」
それとは別に、と区切ってからサオレは話を続けた。ふと視線を通訳のほうへ向けると青ざめた表情はいよいよもって血色を失い、首が左右に座らぬという風になっている。
「手短に。今後、蹄鉄砦を落とすと思われますが、そのことについて開城交渉を行うというのはいかがでしょうか」
「続けろ」
「彼らが頼みの綱とする援軍は既に撃滅されました。奪った軍旗を砦の前に山と積めば嫌でも現実を理解するでしょう。彼らに名誉ある降伏を勧めるのです。援軍が来ない以上、降伏してもなんら不思議はありません。武装解除と本国への帰還、このあたりでグーエナス殿も納得されるでしょう。閣下は兵を損なうことなく穀物と砦を手にすることができます」
サオレは先のボナパルトの態度と反応を見てさらなる提案を加えた。蹄鉄砦の開城についてである。これが通れば白馬丘で寝返った諸侯同様、砦に残る諸侯をも助け出すことができる。ボナパルトの寛大な政策を見るに、この提案も通るだろう、とサオレは身を乗り出す。
「悪くない話だ。だがダメだな。蹄鉄砦は陥落させる」
ボナパルトはいっそ高慢と言ってよい態度でサオレに応えた。その言葉の冷たさが通訳の手を介してサオレの心臓を凍らせるような響きがある。通訳は己が単なる通訳であることを心から感謝した。もしその言葉の感覚を受け取る立場にあれば心臓が凍てついて砕け散ったに違いない。
「何故ですか」
サオレは大きく揺れる馬車の中で身体の均衡を保ちながら平静を装う。
「攻撃前であれば、開城を勧めただろう。だが我々は一度攻撃に失敗している。ここで交渉すればどうなる?『フランス軍は力づくで砦を落とせなかった。ゆえに開城を交渉するのだ、大砲は防ぎうるのだ』とみられかねない。我々はここから先、いくつの城を落とすか分からん。『フランス軍に狙われたが最後、城壁は必ず破られる』と諸侯に理解させておきたい。そのためなら、たとえ砦攻めでさらに死体が積みあがっても、穀物を全て焼き払われても採算が合う」
「しかし、砦には子供老人、武器を持たぬ者が大勢逃れておりましょう。彼らを戦禍に巻き込むおつもりか?」
「私とてむやみな殺戮を好むところではない。が、必要なら女子供が巻き込まれる事もいとわん。城内にサオレ殿の身内でもいるのか?」
「身内といえば、城内の全ての人間が我が身内です。身の上話になりますが私は幼い頃に両親を疫病で失いました。私を育ててくれたのは両親の兄弟や、そのいとこ、一族の者たちです。その縁者を辿ればこの国全ての貴族が私の育ての親、兄弟です。私はそう理解しています。ゆえに私は同じ草長の人間が傷つくのを最小に抑えたく思うのです。閣下はこれまで諸侯に慈悲を示されてこられました。私はそれが閣下の最大の武器だと信じておりますが……」
「立派な事だな。だが勘違いするな。私は寛容だ。それは私の利益に適う範囲においての話だ。今回、私は砦に慈悲をかけるより無慈悲に接することのほうが利益が大きいと判断した。ゆえにそうするのだし、そうしてきたのだ」
「ですが閣下……」
「私にとって寛容は手段の一つに過ぎん。私が慈悲をかけるのは、それが私に都合がよい時だ。勝者が敗者にかける慈悲というのは、常にそのようなものだろうし、私にとっては砦の人間よりも我が兵士たちの命のほうが遥かに重要で貴重な価値を持つ」
ボナパルトは天秤を傾ける。これから先、あといくつの砦や城を落とすか分からない。城攻めは莫大な火薬を食う。そんな余力はどこにもない上、城攻めとなれば野戦よりも接近戦の場面が増えて死傷者が出る。『フランス軍が行くところ、城は必ず落ちる、籠城は無意味だ』その評判が、その先入観が、今後フランス兵たちの命を救う事になるのだ。フランス軍を救うためなら、たとえここで一万人を殺す事になっても構わない。ボナパルトの天秤は常に軍に傾く。
「確かに閣下の仰る通りです。砦内の者たちの運命は私の手を離れ、戦いと死を司る精霊の手に委ねられたようです」
サオレは唇を噛んだ。ボナパルトはおとぎ話に出てくるような善良で心優しい君主ではない。天秤を持つ冷徹な軍司令官なのだ。それは承知していたはずであり、開城交渉もそれによって得られる兵と火薬の温存という利益で十分傾けられると踏んでいた。しかし、ボナパルトの秤には別の重りが既に載せられているのだ。こうなれば、もはや己に出来る事はないのだろう。
「サオレ殿、貴殿には別にやってもらう事がある」
「……なんなりと」
「白馬丘で寝返った諸侯と連絡をつけて、彼らがクルーミルに帰順するよう交渉を纏めてもらいたい。無用な血を流さなくて済むようにな」
「承知しました」
「では行け。今すぐに」
ボナパルトは御者席に声をかけて馬車を止めさせた。氷が鉄板の上を滑るようにゆっくりと時間をかけて馬車と護衛の一隊が停止する。
「では、救える者たちを救ってまいります」
サオレは翼が生えたように馬車から降りると、自らの馬に跨って駆け出して行った。
「私もそうしよう」
ボナパルトは遠ざかるサオレの背中を見た。




