第七十四話 羊毛軍団
日が昇る。ボナパルトは無限に広がるように思える草原に陽光が差し込み、世界を青と緑に広げていくのを感じる。そして地平の先から、誇らしげに三色旗を掲げる一団が向かってくるのを見つけた。懐から取り出した懐中時計の時刻は、ボナパルトが感覚で数えていた時間とほぼ一致している。
「来たか。時間通りだ」
西から大街道を進んでくる軍勢。これこそボナパルトが待っていた援軍だった。いかに伝令を往復させようと、命令書を送り付けようと、地図に線を引こうと、結局のところ動くのは兵士たちの足であり彼らが目の間に現れるまでは確実な事など何もないのだ。ボナパルトは自分の計画が順調に進んでいることに満足すると、肺で暖めた呼吸を白い煙として吐き出した。
◆
ボナパルトは続々と集まってくる部隊を点検するために草原に兵を広げるよう命令した。長距離の行軍でくたくたになっている兵士たちは温かいスープにありつく前に、寒空の下に並ばされるとあって酸っぱいものを食べたような表情を作った後、命令に従った。
「整列! 整列!」
部隊の背骨ともいえる下士官の命令が飛び、兵士たちはパズルが決められた場所にはめ込まれるようにそれぞれの定位置について整列した。
ボナパルトから見て右側にはボン将軍率いるフランスの兵士たちが並ぶ。いつもは濃い青色の制服を着ている彼らも、上から各々厚手のコートを着こんで灰色の壁を作っていた。寝床から叩き起こされたランヌ将軍率いる小銃組もこの列に並ぶ。
左側にはランポン将軍率いる徴募兵軍団が整列した。槍は手入れされた林のごとく揃い、線を引いたように整っている。彼らは全員一様に羊の毛で出来た無地で袖の無い上着を羽織っていた。彼らのためにボナパルトが手配した制服だった。
「将軍、予定通りだな。到着した兵員は?」
「王都を出発した時には四九〇九名を数えました。到着したのは四八七七名です。後は脱落していますが、後衛の大隊が回収して二日もすれば合流するでしょう」
「よろしい」
ボナパルトは目を細めた。強行軍についてこられない兵士が出るのは避けられない。脱落者が三十二名というのは極めて良好な数字だ。
「行軍の過程も万全でした。徴募兵たちは王都で十分に訓練を積み、わが軍の第一線部隊にも劣りません」
ランポンは胸を張って報告した。そこに少し遅れて鎧の擦れる金属音を立てながら数人のグルバス貴族が姿を見せた。
「司令官閣下、紹介します。クルーミル女王より副司令官として派遣されたソチロタト公殿です」
ボナパルトは自分と同じぐらいの背丈の小柄なその男を取り調べるような目つきで見た。白髪が多く、日に焼けた顔をしている。細い目を一生懸命開いているのか、眉が上がっていた。
「王の友殿の陣営に加われることを嬉しく思います!」
耳が遠いのか調子はずれの大音量でソチロタトは叫び、ボナパルトは顔をしかめた。
「こいつは役に立ってるのか」
ボナパルトはフランス語でランポンに問いかけた。とても有能には見えない。
「兵の訓練を担当していました。……公の臣下が。公は何事も臣下に任せて我々が何か言うといつも覚えたてのフランス語で『そうです!と頷くだけなので、そうです公と呼んでます」
「……」
ボナパルトは閉口した。
「女王の部下、確かニッケト殿のいうには、ソチロタト公には特に秀でた部分はないものの、とにかく忠実である、との事でした」
ボナパルトは記憶をたどった。そういえばこの人物は『戴冠の丘』の戦いにクルーミル側で従軍していた貴族だ。それでこの職に回されてきたのか。と納得した。
「なんにせよ、実際従順なのでお飾りとしては問題ありません」
ランポンは半ばあきらめたような顔で報告した。徴募兵たちが『草長の国』の人間で構成されている以上、指揮官層にも『草長の国』の人間を配置する政治的配慮が必要だった。ソチロタト公は徴募兵たちが女王の管理下にあることを示す飾りであり、それ以上の事は期待されていない。
「ソチロタト公、貴殿の働きに期待している」
ボナパルトは完全に社交辞令として一言添えた。
「そうです!」
ソチロタト公は屈託のない笑顔を見せて調子のはずれたフランス語で応じた。
◆
ボナパルトはソチロタトへの挨拶を済ませると、整列する徴募兵たちの列に割って入って行った。一人ひとりを爪先から頭の先まで確認する。武具は揃っているか、靴はちゃんと履いているか。表情は明るいか……
「お前」
ボナパルトは不意に兵士の一人に呼びかけた。
「隣のヤツの名前を知っているか」
その言葉に徴募兵は目を丸くしたが少しして答えた。
「隣にいるのはリューです。一緒に入隊しました」
「後ろにいる奴は。ヤツの出身地を知っているか?」
「後ろはモートです。『川辺の都』から来たと言ってました。家は網づくりをやってたとか……」
ボナパルトは何人かに似たような質問をかけてその答えに満足した。
「徴募兵たちは部隊の仲間の事を知っているな」
人間を一カ所に集めただけでは集団とは言えない。彼らが互いの事を知り、互いの背中を預けるに足る信頼関係を築いてこそ初めて、集団は一つの生命体のように振る舞えるのだ。ちょうど、糸がそれ自体では簡単にほどけて、しっかりと編み込まれて初めて強固な布になるのと同様に。
ボナパルトは兵の状態に満足した。彼らは数カ月、何十週間と同じ鍋で飯を食い、訓練を積み、互いに知り合った。その成果は王都からここに来るまでに脱落者がほとんどいなかった事に裏付けられている。軍の行軍速度とは、兵の質と比例するのだ。徴募兵軍団はようやく使い物になるだろう。
「良い兵隊に仕上げたな、ランポン将軍。ご苦労だった」
「後は実戦で証明するのみです」
「兵の質は上がったかもしれないが……この制服はなんとかならなかったのか? 染色さえされてない羊毛の上着、これじゃ兵士というよりまるで羊の群れだ」
銃兵組を指揮するランヌ将軍がぼやいた。
「軍資金が無かったんだ。染めてたら金がかかる」
「軍服は兵士の死装束だ。もっとこう、立派じゃないと士気も上がらんだろう」
羊の群れか。ボナパルトは口の中で唱え、整列する徴募兵たちの前に進み出ると鷲の叫びのようによく通る声を張り上げた。
「栄光ある兵隊よ!諸君はその制服に相応しい、雄々しき羊である。優れた羊飼いに率いられた羊の群れは狼をも打ち倒す! その羊の毛を纏うことで諸君らはこの世で最も勇敢で有益な存在に生まれ変わったのだ。諸君らは恐れ知らずの勇者たちであり、富と栄光をもたらす戦いは目前である。諸君らはそれを掴む勇気がない、とは言うまいな?」
徴募兵たちはその言葉に弾かれたように叫ぶ。
「戦いだ! 戦いだ!」
彼らは沸騰する湯のごとく地を揺らした。彼らには十分な給与があり、負傷しても年金と生活が保障されている。さらに勝利すれば昇進し、出世する機会すらあるのだ。実利と名誉の両方が若い兵士たちの心をくすぐる。死の危険も飛び越えられるようなギラついた欲望が彼らを満たしていく。
ボナパルトはそのことをよく心得ていた。『草長の国』の平民たちに愛国心や、女王への献身を説いたところで大して響きはしないだろう。彼らにはもっと本能的な、黄金と栄光を見せたほうが良かった。
「私はあえて諸君らの制服を染めなかった。なぜか?諸君らの制服は、敵の返り血で染められることこそふさわしいからである!」
兵士たちはその言葉を聞くと、途端に自分たちの羊色の粗末な制服が誇らしいように思え、さらに興奮して叫んだ。
「勝利! 勝利!」
ボナパルトが二角帽子を高々と掲げると熱気は頂点に達した。
「あいつの手にかかれば粗末な制服が栄光で光輝くんだな」
ランヌは感慨深そうにつぶやいた。




