第七十話 理を背にして
剣のサオレを受け入れたボナパルトは師団長たちを呼び集めてその日の晩に会議を開いた。地図を広げた狭いテーブルをボナパルトと参謀長のベルティエ、師団長のドゼー、レイニエ、クレベールが囲む。その外側には剣のサオレと、それを監視するようにボナパルトの副官ウジェーヌと護衛隊長のベシエールが控えている。
絨毯だけが不釣り合いに豪奢な司令官の天幕は集まった男たちの熱気で満ち、外の寒風と比べて暑いほどだった。
「前面に蹄鉄砦の三千。後方地帯では小貴族共がうごめいて連絡を脅かす。国境からは敵の援軍一万五千ときた。……棺桶に片足突っ込んでるな」
頭に巻いた包帯から血を滲ませたクレベール将軍が地図を凝視しながら言う。
「対してわが軍のうち直ちに動かせるのは九千人ほどです。王都を出発した時、わが軍はドゼー、クレベール師団がそれぞれ四千人、レイニエ師団が三千人で合わせて一万を超えていましたがドゼー師団は『驢馬の市』に二千人の守備隊を残した他、占領した地域に小部隊を残したので、手元の兵力は減っています」
ベルティエが神経質そうに爪を噛みながら手元の書類を手繰る。
「デュマの騎兵三千と徴募兵一千人も合計しろ」
ボナパルトがそれに付け加えた。
「それでも動かせる戦力は敵を下回りますね……総司令官はどう考えますか。三方向から囲まれていますが」
元々青白い顔をしているドゼーがその顔をさらに青くしているようにボナパルトには見えた。
「なにを狼狽えることがある。敵が向こうから来てくれた。これはまたとない好機だ!」
将軍たちが怖気づくのはまずい。蹄鉄砦の攻撃失敗で弱気になっている。ここはあえて、陽気に振る舞わねばならぬだろう。そう考えてボナパルトは自分より背丈の高い諸将を下から突き上げるように見回すと、尊大といっていい口調で応じた。
「わが軍は敵に包囲されるにあらず。敵を分断しているのだ。いかに敵の総兵力が多くとも、決戦場に集結できなければ意味がなく、各個撃破の良い的に過ぎない。分断している敵を順番に一つずつ破って行けば良い」
「理屈はそうですが、それは至難の業です。一歩間違えれば敵中で包囲殲滅される。現実、そうなりつつある」
「三つの敵のうち、蹄鉄砦は堅牢であることが分かった。強襲を繰り返しても徒に損害が増えるだけだ。まずこれは包囲したまま置いておく」
クレベールが唇を噛んだ。
「後方でうごめく小規模な敵は、迅速に倒せる相手でもない。しかし無視もできない。敵の増援軍も同様だ。この二つを同時に抑え込む必要がある」
三人の師団長は頷いた。
「そこで第一に、ドゼー師団を後方に送る」
「ちょ、ちょっと待て。今、敵の増援を叩くと言ったのに、ドゼーを後方に送るのか? こっちは全軍合わせても一万に届かないのに、さらにそこから戦力を裂くのか?」
クレベールが吠え掛かるライオンのように口を挟んだ。
「そうだ。後方でうごめく敵を抑え込む。放っておけば敵は活発化し、仲間を増やして大変な事になるだろうからな。火事は小火のうちに消すのが一番だ。特にこういう反乱はな」
「しかし……決戦前に戦力を分割するのは正気の沙汰ではないぞ」
「ドゼーが抜ける穴は王都からボン師団と徴募兵軍団を合流させることで補う。合計七千人の戦力だ。それでわが軍はドゼー師団を後方に送り、レイニエ師団を蹄鉄砦の包囲に残したとしても一万二千になる。さらにデュマ将軍三千の騎兵が合流すれば一万五千。敵とほぼ互角に渡り合うことが可能だ」
クレベールは口を開けたまま沈黙するが入れ替わるようにドゼーが口を挟む。
「それは良いですが、私の師団も合流すれば敵を数で上回れます。まず敵の援軍を撃破する。その後で後方の掃討に取り掛かるというのではだめですか」
「その手は考えた。できる事ならそうしたいが、後方の敵はわが軍に降伏した諸侯を対象とした攻撃を行っている。もしこれを放置したら一旦は我々に味方している諸侯も『フランス軍に我々を守る力無し』と見做して敵方に流れる可能性がある。特に、敵の大規模な援軍が近づいていることだしな。もし敵の増援と戦闘中に後方で大規模な蜂起が起きれば手が付けられなくなる。我々は補給線を絶たれ、戦場で孤立する。軍事的にも、政治的にも今すぐ手を打つしかない」
ドゼーは僅かな微笑を浮かべて引き下がった。
「司令官のお考えは分かりました。しかし、なぜドゼー師団なのですか? 後方の敵に対処するなら、後方にいるボン将軍の部隊を充てるのが距離的にも妥当だと思いますが」
次に異論を挟んだのはレイニエ将軍だった。
「『驢馬の市』にいるべリアール将軍の部隊をはじめ後方の各拠点に置いてきたのはドゼー師団の一部だ。既に現地に配している部隊に引き続きやらせるのが良い。それに、現地の人間との友好関係を保つことにかけて、ドゼー将軍は適性がある。……と、本人は言っている。そうだな、ドゼー」
ボナパルトは燃え尽きた灰のような色の目を細めてドゼーを見据えた。
「はい。閣下」
「ドゼー、後方の安全確保に当たって、私は貴官に全権をゆだねる。安全を確保するために必要と思う全てを行え。必要と判断したことをだ。責任は私が取る」
「承知しました。必ず任務を果たして御覧にいれます」
ドゼーは微笑みを崩さず応じた。
後方の戦いは過酷なものだ。とボナパルトは知っている。時に非情に、時に温和に非常に繊細な統治を求められる。ドゼーならそれをやれるだろう。東部地域をめぐる戦いの始まり『金具の街』で自分を正義の側に置きたいと語っていた、この男なら。そうボナパルトは考えた。そして同時にこうも考える。結局のところ、自分に出来る事と言えば軍隊を差し向ける事だけではないか。根本的な解決にはやはり、別の力が要るのだ。と。
◆
「第二に、敵の援軍を撃破する作戦についてだ。クレベール師団、ボン師団、ランポンの徴募兵軍団、デュマの騎兵隊、この四つの部隊のうち、クレベール師団を分離し、敵の側面に回り込ませる。挟み撃ちだ」
ボナパルトが地図を指すと、顔を紅潮させたクレベールがさらに顔を赤くした。
「司令官は気が狂ったのか! ただでさえドゼー師団を分散させる上に、俺の師団まで分散するとは」
「戦いの原則に背いているのは承知の上だ。しかし、私が欲しいのは単なる勝利ではない。完全な勝利が必要なのだ。そのためならリスクを取る必要がある。気が狂っているだと。そうとも、敵もそう思うだろうな。『敵将は用兵を知らぬか錯乱したか』と敵に侮られるのは好都合だ。黙って従え。それが嫌ならここから出ていけ」
ボナパルトは氷のように冷たいまなざしをクレベールに浴びせかけた。
「敵は国境から一直線に大街道沿いに移動し、驢馬の市を経て蹄鉄砦へ向かうだろう」
ボナパルトは地図の一点を指差す。
「剣のサオレの話によれば、敵の行軍速度は通常よりも速い。おそらく食料を積んだ補給部隊を減らしての行軍だろう。蹄鉄砦に十分な蓄えがあるのを見越しての事だ。敵は遠回りしたり、立ち止まったりする余裕を捨てて急行してきている……が、まずは驢馬の市を占領して大軍を休養させる拠点を得たいはずだ」
「なるほど」
「私がボンとランポンの部隊七千人を引き連れて敵の前に布陣する。敵は一万五千。勝利疑いなしと見て攻撃してくるだろう。敵部隊が交戦状態に入ったその時、側面からクレベール師団が攻撃を仕掛け、敵を挟み撃ちにして打ち破る。これがおおまかな作戦だ」
「ボンの兵士はともかく、ランポンの兵士はグルバス人の徴募兵連中です。連中は戴冠の丘で敗走しました。信用できますか」
「私が支えてみせるとも」
「……だが、問題はまだある。どうやって回り込む? この見晴らしのいい草原地帯で回り込もうとする軍隊など、敵にすぐ見つかる。敵がそれに備えたら挟み撃ちの意味がないぞ」
「それにはこの世界ならではの解決策がある。クレベールの師団を敵の目から消してしまう魔法がな」
「魔法……?」
司令官はこの世界のおかしな術師たちの虜にでもなってしまったのか、と怪訝そうな顔をするクレベールを前にボナパルトは口角を不気味に上げて、自信にあふれた顔を作ってみせた。笑顔と呼ぶには邪悪な類だったが、師団長たちはその表情に奇妙な安心感を抱くのだった。
「剣のサオレ殿に一つ働いてもらうことにする」




