第六十四話 手紙
「……様。クルーミル様」
侍女の呼ぶ声がして、クルーミルは目を覚ます。ボナパルトが『驢馬の市』に入った翌日、『王都』から南に十キロほど離れた町の屋敷にクルーミルはいた。その町は『王の町』という名がついており、その名の通り、クルーミルの私領の一つだった。
「おはよう。スーイラ」
「クルーミル様、また手紙を読みながら寝ていたのですか? ベッドに入らず、毛布もかけずに机に伏して眠られては、冷えてしまって、お体に障ります!」
「そうね。ごめんなさい」
「……クルーミル様!」
「なに?」
「お顔に墨がついています!」
「まあ。机に伏してた時に顔についたのね」
「じっとしてください。すぐ綺麗に」
眠りから覚めたばかりでふにゃふにゃとした笑みを見せるクルーミルの顔を、侍女のスーイラがお湯で濡らした布で拭いていく。
「ナポレオンのように仕事をしようと思ったのだけれど、なかなか上手くいかないわね。眠ってしまうわ」
「あの方を真似する必要はございません」
ごしごしと墨を落としながらスーイラは語尾を強めた。
「クルーミル様の第一の御役目は、ご健康である事です。それ以外の事など、家臣に任せて問題ございません」
「そうね。……蝋燭が切れているから、新しいのを置いてちょうだい。まだ返信していない文が何通もあって、今夜も書かなければ」
「クルーミル様!」
スーイラの抗議の言葉は部屋の扉が叩かれる音で途切れた。
「女王陛下。ニッケトでございます。身支度の時間に申し訳ございません。ボナパルト殿から手紙が」
「入りなさい」
スーイラが扉を開けると、アビドードの甥、ニッケトが二人の従者を従えて入室した。従者たちは紙束を抱えている。
クルーミルは手紙を受け取ると早速広げた。
◆
『精霊に愛されし誉れ高き統一王の正統なる娘にして、大河サオレの貴き守護者、草原の主、全草長の民の長。全自由商人の歩む道の擁護者。秤を定めし者。馬の精霊の乗り手、偉大なるを意味する人……いと高き玉座に座る方に、臣ボナパルトが謹んで……』
手紙の頭についている文章を読んでクルーミルは頭がくらりとするのを感じた。これはボナパルトが書いたものではない。ボナパルトの言葉をグルバス語に翻訳した者したが勝手に付け足したのであろう。長々と続く、儀礼に則ってはいるが、内容の無い文言を飛ばしてクルーミルは先を読む。
『麦週の第四日。わが軍はダーハド派の諸侯一千と交戦し、これを撃破した。奪った軍旗は二本。使者に持たせて送る。軍の新聞には六百人を倒したと記載させるが、事実、敵に与えた損害は百余り。こちらの損害は十名が死亡。六名が負傷。『驢馬の市』は開城した。都市は今のところ平静。都市の市長をはじめ、参事会の要職者は全て『蹄鉄砦』に逃れたとの事。現在は残余の者たちに都市運営委員会を組織させ都市の秩序を回復している。べリアール将軍の兵二千と砲六門を守備に残す。『驢馬の市』の要職にあった者たちの屋敷から可能な限りの書簡を押収した。翻訳して情報を送られたい』
「屋敷から書簡……?」
クルーミルはニッケトの背後に控える二人の従者が持つ紙の束を見た。
「はい。ボナパルト殿が送ってきたものです。現在フランスの学者たちと共に翻訳作業を進め、ベルティエ閣下の元に送る手筈を整えています。……我々もこれをやるべきでした!押収した書簡を調べれば、諸侯たちの意図が掴めます」
「人の手紙を読むというのは、あまり褒められた事ではありませんね」
「ですが有益です。ボナパルト殿との情報を共有するためにも、押収した諸侯の手紙を調べて、情報を整理する機関を組織するのはいかがでしょうか?」
ニッケトは口調こそ平坦なものだったが、その瞳は熱病に浮かされたように輝いていた。屋敷に押し入って書簡を没収するのは帰順した諸侯への配慮からそれほど行えなかった。押収するのも公的な証書や誓約文といったものに限られている。ところがボナパルトは、私的な日常の手紙まで没収して送ってきたのだ。その量は膨大なものになる。
「……表立ってはできません。諸侯は間違いなく嫌がります」
「では、秘密裏に。書官たちの中から特別に信用のおける者たちの人選を進めます」
「……いいでしょう」
クルーミルはその形の良い唇を曲げて首を振って、手紙の続きを読むことにした。
『私はクレベール、ドゼー、レイニエの三将軍の三個師団、一万二千を従えて『蹄鉄砦』に向けて進軍中。『斧打ちの国』の国境方面に沿ってデュマ将軍指揮する騎兵三千を配置して敵の増援に備えている。必要があれば王都に駐屯しているボン師団と訓練中の徴募兵軍団も移動させる。占領地の住民は我々を歓迎していない。現地調達に困難あり。十分な補給物資を送られたし』
「ボナパルトへの物資はどうなっていますか?」
クルーミルは手紙から顔を上げて、再びニッケトを見た。
「ネーヴェン商会ら、商人たちと話はついています。順次、契約した商人たちが送り届ける手筈です。……しかし、やはりボナパルトの軍勢は巨大過ぎます。東部地域に向かった兵力だけでも二万に迫り、背後にはさらに一万人。これだけの人間を食わせるのには巨額の金がかかる上に、さらに彼らが使用する武器に使う火薬は高価です。金庫が空になるのは時間の問題です」
「王室の財産を処分してでも資金を用立てるように。離宮、狩猟場、牧草地……とにかくお金になるものはなんでもです。商人たちからの借り入れはどうですか?」
「それについては交渉が上手く運びました。商人たちは関税の削減と、大街道の保護を支持して王室への低金利での貸し付けに賛同しました」
「それは良いです」
街道に出没する盗賊は常に商人の悩みの種である。襲われれば無傷では済まず、護衛の傭兵を雇うと高額な金がかかる。そうした賊を取り締まるのはそれぞれの土地の諸侯であるが、その諸侯も安全保障税を関税とは別取りしようとしたり、悪辣なものになると強盗と組んで商人から金を巻き上げようとする者までいる。
ボナパルトは以前、腕木信号をやりとりするための施設を建設することをクルーミルに求めていた。クルーミルはこれに守備兵をつけて街道を守らせることを考えていた。大街道の傍に、一定間隔ごとに守備兵の拠点が設けられることになる。それだけで強盗への抑止となるし、いざというときは素早く駆けつけることができる。
「しかし、この街道保護を口実に徴税ができるものを、本当に無税にして良いのですか?せめて、維持費だけでも負担させるべきでしょう」
「商いが盛んになれば、それだけ税収も増えます。未来への投資と考えるべきでしょう」
「財政は火の車なのですが……」
「たとえ街道保護税を取ったところで、赤字はどうにもなりません。ならいっそ、取らないほうが良いです」
クルーミルはいたずらっぽく笑ってニッケトを閉口させた。
表を読み終えたクルーミルは手紙の裏を見る。普通、裏面にまで書かないものだがボナパルトからの手紙には裏まで書き込みがされていた。
『以前の手紙にも書いた事であるが、重ねて女王が『金具の街』のテーケルネト市長を手厚く遇することを進言する。彼女の一族は女王のために戦い、戦死したものである。私には彼女に対し与えられるものが無い。私が持つのは剣と炎のみである。私の体調は良好である。御身の健康を願う。ボナパルト』
クルーミルはボナパルトの言葉を受け止める。自分が弱かったために、東部地域は戦禍に見舞われた。非協力的であるのも無理からぬ話だった。彼らに対して責任を取る必要がある。"私が持つのは剣と炎のみである。"という一文に、クルーミルはボナパルトの横顔を見た。決して口には出さないだろうが、ボナパルトが時折みせる、突き放したような態度。それはボナパルト自身にさえ向けられているのだろう。
そんな事はありません、とクルーミルは小さく呟いた。
「なにか仰いましたか?」
「なにも。手紙はこれで全部ですか?」
「それが、もう一通あります。さきの手紙とほぼ同時に届きました」
「見せて」
ニッケトが差し出したもう一通の手紙は極めて簡潔だった。
『至急、新しい翻訳者を送られたし』
クルーミルはくすりと笑った。
「ボナパルトが新しい翻訳者を求めています……随行させた六名のうち、四名が過労、一名が心労、最後の一人も限界が近いようです。……そういえば、後ろのあなたが随員の一人でしたね」
クルーミルはニッケトの背後に立つ従者に声をかけた。
「はい。ボナパルト様の意志は濁流のごときもので、理解するだけで極度に疲労します。その上、その言葉を書き取るとなると……」
「そうでしょうか……」
「女王陛下は、精霊に特別愛されておられます」
「……代わりの者を立てなければなりませんね」
「ですが、精霊に愛されなおかつ秘密を漏らさぬ信用のおける者というのはそうおりません」
「クルーミル様」
スーイラが思い切ったように口を開いた。女王と側近の会話に口を挟むのは非礼にあたる。
「なに?」
スーイラは自分の主が非礼をとがめなかったことに感謝した。
「ありがとうございます。私の従姉が精霊の術に長けております。足が悪いので宮廷に出仕できずに屋敷で書物を読んでいるのですが、もしお役に立てれば……」
「あなたの一族なら信用できます。早速、任命すると伝えて」
スーイラは陽に照らされてほころぶ花のように微笑んだ。
「ありがとうございます。従姉に代わってお礼申し上げます」
「さて……朝の会食がありますね。町長たちを待たせてはいけません」
クルーミルは椅子から立ち上がって、身体を大きく伸ばした。ボナパルトがいなかった頃よりも、はるかに増えた仕事が待ち構えている。しかしそれを苦だとは思わなかった。
2024.9.21
「ダマス将軍の兵二千と砲六門を守備に残す」を
「べリアール将軍の兵二千と砲六門を守備に残す」と変更しました。




