第六十二話 剣を握る
フランス軍動く。その知らせが東部地域の諸侯たちに周知されたのは、フランス軍が『王都』を発ってより既に数日が経過して『金具の街』にフランス軍が入城してからだった。
『草長の国』の東部地域の中でも最大の都市はちょうど、『王都』と『斧打ちの国』の中間地点に築かれた『驢馬の市』と呼ばれる都市だった。『王都』同様にサオレ河の両岸に市街が築かれ、市壁に囲われている。
『草長の国』や『斧打ちの国』といった国々が興るよりも遥かに古い時代から存在するこの都市はここに住み着いて畑を耕し始めた人々と遊牧をして暮らす人々がそれぞれの物産を交換するために市場に起源を持ち、その名残がそのまま都市の名前として残っている。
その驢馬の市の市長の館に東部諸侯の有力者三十人余りが集い、今後の方針を議論している。
「金具の街は降伏した。クルーミルの軍勢がすぐ前まで迫っている!」
「こんなに早くか。奴ら物資の補充に当面は動けぬのではなかったのか」
フランス軍は大軍であり、王都攻略という難事業を成し遂げた後はしばらく武器や兵糧を蓄えるのに時間がかかる。また征服した西部地域を安定させるためにも時間を要するであろう。寒さが過ぎ、軍隊が動きやすくなる春に進軍を始める……というのが東部諸侯の見込みであった。
事実ボナパルトも疫病の蔓延が無ければ軍をしばらく留め置き、万全の状態を整えるつもりでいた。
「思えば、奴らが動かぬという保証はどこにもなかった」
「今更そんなことを言って何になる。ただちにこちらも兵を集めなければ」
「だが農民たちには畑がある」
「なんの。人手は集まろう」
「しかし今から召集をかけて間に合うのか」
歩兵の主力を担う農民たちには畑仕事がある。そこから一部の人間を兵士として引き抜くのは可能だが、問題は農民たちに軍役の触れを出す。彼らが武器や防具を整える。そこから村の仕切り役が村人たちを連れて集結地点に連れて行く。そして集まった人々を戦闘に適するように部隊に割り振っていく……それが完了するまでは何百人、何千人と集めたところで烏合の集に過ぎず、戦える状態ではない。
「無理だ。ボナパルトは数日でここまでくる」
「仮に集まったとして、どれぐらいだ。五千か? 六千か? 相手は三万と聞くぞ!」
「同数のダーハド王でさえ、あの無敵の王でさえ敗れたのだ。我らに勝ち目はない」
「矢はどうする。この前の王都の戦いと、それ以前の戦いで殆どの戦士は矢を射尽くしている」
「騎士も足らん。勇敢な者たちの殆どは既に精霊の元へ旅立ってしまった」
東部地域はクルーミルとダーハドが激しく争った地域であり、クルーミル側についた諸侯は無論、大きな犠牲を出していた。加えて、ダーハド側に付いた貴族たちも無傷では済まなかった。
さらに生き残った諸侯も王都の戦いに参加させられ、ボナパルトの前に多大な犠牲を強いれていた。あの戦いで戦死した兵の殆どは『斧打ちの国』の兵ではなく東部地域から集められた諸侯だった。
「では降伏するか。クルーミル様は、いや女王陛下は西部の貴族たちを許したというではないか」
「馬鹿な! 貴卿はダーハド王の報復が恐ろしくないのか。クルーミルに降れば戻って来たダーハド王に報復されるぞ」
「しかしあの雷鳴の主と戦うのか……我々だけで!」
「だが……」
「ふん。貴殿は女王に降るわけにもいかぬか。なにせ以前の戦いでは真っ先にダーハド王に寝返ったのだからな。女王陛下はお許しになるまいて」
「何を! 貴殿が言えた口か。女王が国境で敗れたのは貴殿が勝手に退いたからではなかったか」
「なんだと!」
「やめぬか! 我らで争ってどうする」
諸侯らは長机を囲んでボナパルトの軍勢という嵐の前に揺れる林のごとく、ざわめき、浮足立ち、ある者は降伏を主張し、ある者は抗戦を呼びかけ、またある者はひたすら狼狽え、ある者は過去の出来事を掘り返して同輩を罵り、別の者は絶望してただ沈黙し項垂れた。
机の上座にはダーハド王の臣下たちが控えている。その中の一人が椅子に座る主に囁いた。
「グーエナス様。このような連中と議論するだけ無駄です。王からは来援が間に合わぬ時には引き上げても構わぬとのご指示がありますが……」
グーエナスと呼ばれた人物はダーハド王の臣下で征服した東部地域の諸侯のまとめ役として残された人物だった。他の諸侯よりも頭二つは高い巨体を誇り、齢は六十に達するが肉体の衰えをまるで感じさせない。顔には年相応の皺が刻まれているが褐色の眼光は鋭く、威圧感と安心感を与える。
「それはならんぞコルネス。我々が諸侯を見捨てて引き上げたとあれば、王に対する諸侯の忠誠は完全に失われる。そうなれば再征服が難しくなる。我々はここに踏みとどまり、王が諸侯を見捨てない事を示さねばならん」
「ですが、このような状態では……」
コルネスは言葉を続けようとして片腕でそれを制止された。
「各々がた、よろしいか」
騒ぎたてる諸侯の中で一人が発言した。その声は重く大鐘を突いたような威厳があり、諸侯は沈黙して発言者を見つめた。
「勿論です。盾のグーエナス伯殿……あなたの考えをぜひお聞かせいただきたい」
「すぐに動かせる兵は、私が王よりお預かりした兵が一千。これに諸侯の戦士たちが二千。合わせて三千というところ。これではボナパルトには対抗しきれぬ。とはいえ、降伏は論外だ。諸侯は偉大なる我が王に忠誠を誓った。それを違える者は我が盾が許さぬ」
グーエナスは椅子の背に立てかけた大盾を指した。歩兵向けの長方形の大盾は鉄でできており、重量があり、防御力もさることながら、振り回せばそれだけで凄まじい破壊力を有する。巨体を誇る彼だからこそ扱る武器であり、異名の由来となっている。
「と、本来であれば言うところだが。降伏を望むものはそれを許す。王は諸侯を守る務めがあるが、今はそれを果たせておらん。諸侯が降伏するのは当然のこと。一旦は降伏し、王が兵を引き連れて戻った時、クルーミルの背後を突くと誓うならいまこの時に降伏するのを王に許していただくよう私が取りなそう」
諸侯の間でひそひそと言葉が飛び交う。どちらに付くが得策か。降ったとして、クルーミルが許すか。とはいえ、戦って勝てるのか。生き残るにはクルーミルか、ダーハドか。それとも中立か。どれを選ぶのが最善の道なのか。諸侯は月明りの無い闇夜の草原に放り込まれたように途方にくれる。
「して、どのように戦われるおつもりか」
「籠城し、ダーハド王の救援を待つ。幸いにして兵糧の蓄えは十分。たとえ籠城が一年になろうとも持ちこたえることができよう」
「しかし主要な都市の城壁は二人の王の争いで破壊されおり、修復も途上。守るに相応しくありません」
「蹄鉄砦がある」
蹄鉄砦。三方をサオレ河の支流に守られた難所に築かれた砦であり『草長の国』随一の堅城として知られている。ダーハド王も攻撃を避けて、包囲するに止めるほかなかったため、無傷で残されている。
「しかし王都の城壁を破る武器が奴らにはあります。蹄鉄砦といえど果たして持ちこたえられるでしょうか?」
「王都の城壁はただ砲撃によって打ち崩されたわけではない。城壁の長さに比して守備兵が不足していた上に士気も衰えていた。守る兵がいなければいかに堅牢な壁といえど無用の長物。蹄鉄砦は広くないが、それゆえに三千の兵で守るには十分すぎる。野戦に打って出るよりは勝算がある」
「確かに……」
諸侯の間に一筋の光が差し込み、青ざめていた肌を照らして生気が蘇るようであった。
「決断していただこう。我が王とクルーミル、いずれにつくか!」
グーエナスが机を勢いよく戦うと諸侯は稲妻に打たれたように飛び上がった。
「私はグーエナス伯に付いていく! ダーハド王に忠誠を!」
「私も同様だ」
「わ、私は一旦クルーミルに降伏する。そ、そして王が戻られた時その背後を突こう」
「私は……一族と相談してから決めたい」
三十人のうち十二人が明確にダーハド王に忠誠を誓い、六人が降伏を選ぶ。残りは言を左右にして明確な表明をしなかった。
「よろしい。降伏する者、相談したいと言う者は去って、各々のしたいようにせよ。しかし戦場で相まみえれば決して容赦されぬと心せよ」
グーエナス伯は明確に支持を表明した者たちだけを残して、解散するように命じた。
「この場に残った者は真にダーハド王に忠誠篤き者たちだ。炎に投げ込まれて初めて金が金であると分かるように、信じるに値する者か否かは危機に際してこそ明らかとなる。私はこれから戦うにあたり諸侯らに全幅の信頼を置く。私が諸侯を仕切るに異論はないか」
諸侯は腰に下げている剣を抜いた。
「我らグーエナス伯の戦旗に忠誠を誓う」
「よろしい。では戦える者たちを率いて蹄鉄砦に……」
「グーエナス伯、提案をよろしいか」
挙手したのは、ダーハド王に忠誠を誓うと真っ先に宣言した若い貴族だった。名をレスナストと言い、年は十八を数え、短く切り揃えた黒髪と鳶色の瞳と草原を駆けまわって鍛えた細身だが引き締まった筋肉の持ち主である。
「認めよう」
「我が調べによれば、敵の小規模な騎兵隊が突出してきています。おそらく物見でしょう。籠城するのはよろしいが、物資や兵員を運び込むまでの時間を稼ぐため、また初戦を取って兵の士気を高めるためにもここは一度出撃し、奴らの出鼻を挫くのはいかがでしょうか。つきましては、私にそれをお任せいただきたい」
「ぜひお願いしよう」
グーエナスはそれを認めた。小競り合いで戦局は変わらないが、小さくともとにかく勝って、兵の士気を高めてやるのは悪い手ではなかった。




