第五十九話 「これより馬上の人、百度千度の抱擁を」
夜も更けた頃、長く続いた宴も終わり、ボナパルトはようやく自室に戻ることができた。凍てつくような廊下を過ぎて部屋の中に入れば、召使が事前に火を入れた暖炉の乾いた暖かい空気が出迎える。上着をその場に脱ぎ捨てて、ボナパルトは足をもつれさせて壁に手を突いた。どうやら飲み過ぎたらしい。ここの貴族共と来たら、挨拶のたびに酒を飲ませるのだから。今回の宴はとにかく大勢の貴族が集まり、挨拶に来る者もこれまで以上に多かった。影響力が強まっている証拠だろう。
テーブルに用意されている水差しを手にして一息に飲む。醒めるように冷たい感触が食道を通って心地よく感じられた。
フランス製の椅子に腰かけ、暖炉の火に足をあてる。先日ようやくフランスから持ち込んだ家具や装飾品の類が到着した。軍需物資の輸送を最優先にしたので、ボナパルトをはじめとした士官の私物の類は後回しになった。豪華な椅子や机は、無ければないで別に不自由はしない。椅子は座れればそれでよいし、机に精巧な彫刻が掘りこまれている必要などどこにもないのだから。とボナパルトは思う。
置時計がカチカチと音を立てる。薪がパチ、と爆ぜる。吹いた風が窓を揺らす。ボナパルトはそれらの音を聞きながら参謀長のベルティエから提出されたばかりの報告書に目を通す。宴の間も軍は休みなく動き続け、司令官に報告すべき事は多岐にわたる。各部隊の最新の所在地、物資の消費具合、兵馬の損失……たとえ肉体がアルコールと社交で疲労しようと、隅々まで点検しておかなければならない。
壁が鳴った。木板が軋み、金属がこすれる音がする。部屋の空気の流れが変わって蝋燭が揺れる。
「ナポレオン」
グルバス訛りの発音で名が呼ばれてボナパルトは報告書から顔を上げた。部屋の隅に、見慣れた人物が立っている。
「早かったわね」
隠し通路を通ってクルーミルが訪ねて来たのだ。最初は驚いたが何度も会えばそう目新しさは無い。
「隣に座っても?」
「いいわ」
ボナパルトは尊大に答えた。クルーミルは部屋を見回すと、手頃な椅子を見つけてそれをボナパルトの椅子の右横に置いた。
女王が自分で椅子を動かすなど、アビドードやニッケトが見たら眉をひそめるに違いない。とクルーミルは想像してくすりと笑った。クルーミルは優美な手をボナパルトの右手に重ねる。
「珍しい椅子ですね。机も。部屋の内装が前に来た時と違っています」
「フランス本国から持ち込んだものよ」
ボナパルトは右手をクルーミルに預けて、空いた手で書類を持つ。両目は報告書の文字を追いかけている。存在を気にも留めていないような態度は女王相手でなくても、無礼に当たるに違いない。しかしクルーミルはそれを許容した。
「今日揃ったのは、王都西部の有力諸侯たちです。招待した者は全て参列していました。彼らの協力は取り付けています。春には五千ないし六千の騎兵が私の軍に合流するでしょう。問題は東部です。招待状を送った諸侯の大半が参加しませんでした。書簡を送って臣従を求めていますが、返答は芳しくありません」
「先発しているデュマ将軍の騎兵隊からの報告では今のところ敵対的な反応はないわ。どっちつかずの態度をとってるって事かしらね」
「東部地域はダーハド王との戦いで最も多く犠牲を出した地域です。私が指導者として力不足だったために、彼らはダーハド王の軍勢に蹂躙されました。彼らはダーハド王を恐れ、私の力量を疑っています。無理のないことです……東の地は私の過ちと罪で埋まっています」
「悔いても嘆いても過去は変わらないわ」
クルーミルは祭りに参加した諸侯から集めた情報や成果をボナパルトに伝える。クルーミルが初めて隠し通路を使ってボナパルトに会いに来て以来、数日に一度はこうして夜中に会って情報を交換していた。
王都に入る以前なら、クルーミルもボナパルトも会おうと思えばいつでも会うことができた。しかし王都に入ってからは、他の諸侯との関係も考慮しなければならない。ボナパルトとだけ頻繁に面会していては、ボナパルトだけを特別贔屓にしている印象を諸侯に与え、余計な不和や嫉妬の対象となりかねなかった。ただでさえ、ボナパルトは"よそ者"なのだ。
◆
一通りの情報交換を終えたところでクルーミルが話題を転じた。
「ところでナポレオン」
クルーミルが手に力を込める。
「なに?」
「先ほど、槍のサオレにお話したことは本当ですか?」
「ああ、私が結婚してるって話? 気になるの?」
「とても気になります」
「なぜ?」
「なぜって、いけませんか? 私は興味があります。こういうお話をできる相手は他にいませんし」
「そういう貴女はどうなの? 結婚相手は?」
ボナパルトはクルーミルのほうを向き、そして話をごまかそうとした。
「まだその予定はありません。候補者は何人かいますが。慎重に選ばなくはなりませんし」
女王と結婚すれば王家の一員となりその政治的影響力は計り知れない。多くの貴族たちが自ら、もしくは息子や孫を女王の夫にしようと画策している。それはクルーミルの政治的カードになり得た。
「それで、貴女のほうは?」
クルーミルの燃えるような赤い瞳に射抜かれて、ボナパルトは目を逸らそうとしたが、不思議と身体が言うことを聞かずまっすぐ目を見てしまった。話題を逸らすのには失敗したようだ。
クルーミルがこういう風に興味を示した時、引き下がる事はなかった。ボナパルトの家族について聞いてきた時もそうだった。自分の知らぬことがあるのが許せない性分なのか、あるいは女王といえども、色恋に関心を示す年頃か。いずれにしろ話すまでは放してくれまいとボナパルトは観念した。話したところで
不都合にはなるまい。
◆
ボナパルトは遠くフランスに残した妻に思いをはせた。
「ほら、そこの壁に掛かってる絵の女性よ」
ボナパルトの指差す先には一枚の肖像画が掛かっていた。クルーミルが以前訪ねた時にはなかった絵だ。油絵で描かれたその女性は少し赤みのある茶色の、優美に波打つ髪と髪色と同じ色をした大きな瞳、小さく結んだ口元が印象的な女性だった。自分とは対照的な外見だ。とクルーミルは感じた。
「綺麗な女性ですね」
「でも、あそこにあるのはただの絵よ。硬くて、油の臭いしかしないただの絵」
ボナパルトは目を細めた。
「マリー・ジョゼフ・ローズ・タシェ。それが彼女の名前。皆はローズと呼んだわ。私だけが彼女をジョゼフィーヌと呼んだ……そう、彼女からはいつもバラの匂いがした。とても甘い、穏やかな、いい匂いがしたわ。彼女と出会ったのは、私がパリにいた頃。ちょうど、反乱を起こした民衆を大砲で打ちのめした後だった……」
ボナパルトから伝わる言葉がクルーミルには、いつになく穏やかに感じられた。質の良い毛皮を撫でるような感触でボナパルトは話を続ける。
「私はパリの司令官として、民衆から武器を取り上げた。銃も、槍もサーベルも全部。そこに、あの子、ウジェーヌが来たわ」
「あなたの副官のウジェーヌさんですか?」
「そうよ。あの子はジョゼフィーヌと彼女の前の夫の子。私の義理だけど、本当の息子も同じよ」
「ではあなたとジョゼフィーヌさんの間に子は?」
「いるわけないじゃない。私も彼女も女なのよ?」
「それはそうですが……」
「ともかく、ウジェーヌがたった一人で、私が没収したサーベルを取り返しに来たの。父親の形見だからって……ジョゼフィーヌの夫はフランスの将軍だった。けれど、革命の混乱で処刑されてしまっていたの。あの子は一人で亡くなった父親の形見を取り戻しに来た。勇敢だったわ。きっと私がウジェーヌの立場でもそうしたでしょうね。だから私はサーベルを返してあげた」
暖炉の火に反射するボナパルトの瞳は燃やし尽くした灰の色をして輝いていた。
「その翌日、私はウジェーヌの母、つまりジョゼフィーヌの屋敷に呼ばれて、彼女と会った。パリの一等地に屋敷があったわ。召使も居て、綺麗な食器と豪華な家具が沢山のお屋敷。彼女はそんな豪華な品物の中に囲まれても、埋もれる女性じゃなかった。それらを従えて、君臨していたわ」
「どう思われたのですか?」
「彼女は上流階級の言葉で喋った。柔らかくて、複雑で、遠回し。でも、少しも嫌味に思わなかったわ。なんて言えばいいのかしら。彼女はとにかく、柔らかくて、明るかった。一緒にいて苦しくない人だった」
「……」
「とても裕福で財産があって、それに彼女はフランスの上流階級の華だったわ。いつも大勢の友人たちに囲まれていて……それに、たどれば彼女の血は国王の血筋につながる。本物の貴婦人ね。私の真逆だった。私に無いものが彼女には全て備わっていた」
でも。とボナパルトは一旦区切った。
「でも彼女はただの貴婦人だったわけじゃない。マルティニークって島に育って、一人、結婚するためにフランス本国にやってきた。革命の騒ぎで夫を亡くした後、子供二人を抱えて強かに生き延びた。彼女には決して折れない不屈の才覚があったのよ」
「それで?」
「で、私は結婚を申し込んだわ」
「ええ?」
話が急展開を見せてクルーミルは目を大きく開けた。この人はいつも意外な、意表を突く、唐突な行動をする人物だが、まさか結婚もそうだったとは。
「財産があって、血筋が良くて、おまけに一緒にいて楽しい。都合がいいじゃない? ちょうどその頃私は結婚相手を探していたの。出世していたから。フランスでは結婚して一人前よ。要するに、財産と彼女の家柄が目当てだったの。わかるでしょ」
クルーミルは頷いた。
「それで、なんと?」
「彼女、笑ったわ。部屋が明るくなるぐらい大きな声で笑ったわ。『変な事を仰るのですね。将軍。今日あったばかりなのに』って。つられて私も笑ったの」
「それは……そうでしょう」
「今にして思えば、あの時、彼女は社交界の華で権力者の愛人。私は出世したばかりの田舎の貧乏将軍。おまけにチビで目つきが悪い。受け入れられるはずないわ」
「ですが、結婚されたのでしょう?」
「そ。ひとしきり笑った後、彼女言ったわ『結婚したら、あなたは私に何をくださるのですか?』って。だから私は答えたの。『私にあるのは外套とサーベルだけです』って」
「返答は?」
「彼女はそれを聞いて少し考えて、言ったわ。『いいですよ。お嬢さん』って」
「お嬢さん? 貴女が女性であることは……」
「勿論秘密よ。でも彼女には判ったみたい。確かに私の背丈恰好は女だと見破られてもおかしくない。でも、軍人は男しかなれない。言い換えれば軍人は男。誰もがそう思い込んでいるから、今まで誰にもバレずにいた。でも、彼女は見抜いた。偏見を持たずに見れば、私が女なんてことは一瞬で分かるものかもしれないわ。だから、彼女に『お嬢さん』と言われた時、私は全身から血の気がひいたわ。暴露されたら軍に居場所はない。私は咄嗟にサーベルに手をかけたの」
「……」
これがボナパルトの思考だ。とクルーミルは思う。寸前に結婚を申し込んだ相手にサーベルを抜く。そういう選択肢が即座に選べる人。
「彼女、眉一つ動かさずに言うわ。『大丈夫ですよ。結婚したらあなたの破滅は私の破滅なのですから。誰にも言いません。どうぞサーベルを納めてください』って。彼女は私の弱みを見抜いた。それで、私の懐に飛び込んできた。私、生まれて初めて負けたわ……」
そう述懐するボナパルトは左手を唇に当て、上がる口角を隠していた。
「それで、結婚式を挙げたの。家族にも知らせず、参加したのはほんの数人。そこで私、知ったの。彼女、本当はお金持ちでもなんでもなかったの。お屋敷も、家具も、召使も全部借り物。それどころか莫大な借金を抱えてたの。まんまとしてやられたわ! 彼女の財産を貰うつもりが、逆に負債を支払ってあげる羽目になったの。全く気が付かなかったわ。借金とりに追い掛け回されてる人が、あんなに優美に上品に振る舞えるなんてちっとも思わなかったの!」
ボナパルトは手品を見た子供が興奮したように笑って、床を蹴った。
「怒らなかったのですか? 話が違うと」
「なんで? 私が勝手に思い込んだだけよ。彼女が裕福だって。彼女を利用したつもりが、利用されたの。結婚したその日の夜に『ではお支払いをお願いします。旦那様』って、借用書の束を渡されたわ。でももう離婚できないわ。彼女は私の秘密を知ってるんだから。でも、だから逆に安心できた。私が破滅したら、彼女は借金を返せない。だから彼女は私の秘密を絶対喋らない。って。本当にずるくて賢い女!」
ボナパルトはくすくすと笑い続けた。アルコールが入っていたせいかもしれない。
「で、結婚して数日後。私はイタリア方面軍の司令官として戦場に行くことになったわ。彼女を置いてね。私、手紙をたくさん書いたの。外目には、出会ったその日に結婚した新婚夫婦だから。すごく手紙を書いたわ。誰が見ても愛し合ってる夫婦を演じるために、沢山手紙を書いて送ったの」
「どんなことを書いたのですか?」
「恥ずかしくて言えないわ。貴女が読んだらきっとひっくり返るわよ。とっても熱心に手紙を書いた。でも、彼女、全然返事を書かないの。書いたとしても『お元気ですか』ぐらい。ちっとも夫婦を演じてくれないんだもの! そのうち私のほうがムキになって、『薄情な人だ。貴女の愛なしでこの世界に何が残るのか?』なんて書いたわ」
「本気で?」
「半分本気よ。ああ、どうかしら。あの人の事を考えると、まるで催眠術に掛けられたみたいになったの。不思議ね。世界がぐるぐると回るのよ。熱くなって、燃えるように。回って……ねえジョゼフィーヌ!」
ボナパルトはクルーミルの腕にしがみついた。クルーミルに濃いアルコールの匂いがまとわりつく。クルーミルはふらつくナポレオンの背に手を回して肩にその品の良い顎を乗せた。
「私はクルーミルです。ナポレオン」
「ああ、そうね。クルーミル。そう。そうだわ……」
「随分酔われていますね」
「そうね……クルーミル」
「……ナポレオン。私にも手紙を書いてくださいますか?」
「勿論書くわ。毎日状況を……報告を……」
ボナパルトの頭はクルーミルの首にしおれた花のように寄りかかった。
「ナポレオン?」
クルーミルに伝わる意思はそこでぷつりと途切れた。代わって、規則正しい呼吸の音がクルーミルの鼓膜を打つ。
「おやすみなさい。ナポレオン」
クルーミルはそっとボナパルトの身体を抱き上げた。目を覚ましている時には何倍も大きく感じられるのに、今はただ小鹿のように軽く小さく感じられる。寝室のベッドの上に横たえて、しっかりと毛布を掛けやる。
クルーミルは自分の部屋に戻る前にもう一度ジョゼフィーヌの肖像画を見た。ボナパルトがあんな風に感情を燃やしていたのは初めて見た。彼女が、ジョゼフィーヌがボナパルトをそうさせた。
「羨ましい人ですね、貴女は……」
隠し扉の金具がギィ、と音を立てた。
◆
翌日、ボナパルトは王都を発ち、再び馬上の人となった。
この章はこれで終わりです。
次回からは戦闘が増えていくと思います。
2024.7.15
訂正:「次回からは」、ではなく「次章からは」です。申し訳ありません




