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異世界大陸軍戦記-鷲と女王-  作者: 長靴熊毛帽子
第五章『草長の国』戦争~玉座と天幕~
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第五十九話 見えざる手、見える手(後編)

 「よろしい。これから私が患者たちを見舞おう。それではっきりする。もし精霊が軍を呪っているなら、その呪いは必ず軍の指導者である私を呪うだろう。私が病にかからなければ、ただの病気だ!」


 ボナパルトはそう宣言した。


「危険です閣下。致死率の極めて高い疫病には違いありません」


「総司令官が倒れればそれこそ全軍が崩壊するぞ」


 デジュネットとクレベールが言う。


「他に打つ手はない」


 ボナパルトは意を決している。自ら患者たちを見舞うことで「精霊の呪い」という風聞を打ち消しておく必要があった。これ以上情報を秘匿することはできない。フランス軍の口は塞げても、目の前にいるケジー老とやらから噂は広まるだろう。軍が呪われているなどと言われるわけにはいかないのだ。同盟者であるクルーミルの正統性にも傷がつく。この世界の信仰と権力の結びつきがどれほど深いかは不明だが、霊的な権威に支えられない支配者というのは、そう多くないだろう。そうなる前に先手を打つ。


 兵士たちの士気にも関わる。他の軍隊はいざ知らず、フランス軍では指揮官が率先して勇気の模範を示さなければならない。それは銃弾の飛び交う最前線でも、後方でも同じことだ。


「ナポレオン」


「止めても無駄よ」


「私も行きます」


 ボナパルトは繋がれた左手から左腕、肩、そして首に視線を伝わせてクルーミルの顔を見た。


「ダメよ。感染の危険がある」


「私が行けないのなら、あなたが行くことも許しません」


「あなたが倒れたらどうするのよ」


「同じことを言い返します。あなたと私は運命を共にしています」


「あなたが行く必要はない」


「あります。これが精霊の呪いならその矛先は私にも向いているはず。そうでないことを証明しなければなりません。あなたと同じように」


「……」


「それに、病に倒れているのは私のために戦ってくれた者たちです。私は先ほど傷を負った者たちに報いました。病に倒れている者たちにもそうするべきでしょう」


「兵士たちはあなたのために戦っているわけではないわ」


「知っています。ですが、結果的に私のために血を流した者たちです」


「しかし」


「これが精霊の怒りでない、ただのこの世界の病なら私にとってそれほど危険ではありません」


「……」


「決まりです」


 クルーミルは美しい金の髪をなびかせて振り返った。


「私はこれからボナパルトと共に患者たちを見舞います」


「女王陛下!」


 女王の側近であるニッケトは抗議の声を上げたがアビドードは僅かに頷くのみだった。


「それと、王宮の宮廷医たちをここへ。薬草庫も開けます。あとは……王宮中の毛布を提供しましょう」


「承知いたしました」


「伯父上」


「姫様……いや、女王陛下は決められた。これは覆せん……」


 アビドードは良く知っている。自分の主は極めて頑固なのだ。


「……クレベール、ドゼー師団は出動を早めよ。準備不足でも構わない。とにかく都を離れよ。レイニエ師団も後続させる」


 クルーミルに押し切られたボナパルトは矢継ぎ早に指示を飛ばした。


「私の身に何かあれば指揮権はクレベール将軍に委ねる。いいな」


「大部分の部隊を王都から離すのですか」


 ベルティエが筆記しながら問う。


「そう。一か所にとどまっていれば全軍が感染するかもしれない。リスクを分散する。思えば軍を一か所に集中させ過ぎていた」


「はっ」


「却って病気をまき散らすことになりませんか。人々に感染が広がったら?」


「そうならないことを祈るしかない。ドゼー」


 祈る、というのはボナパルトの好むところではなかったが他に手はなかった。


 ◆


 閉め切られていた扉が開けられる。途端に一匹のノボリネズミが走り出してくる。ボナパルトは強烈な臭気に胃液が逆流するのを堪えた。傷を負った兵士たちからは血と壊疽の独特の腐った肉の匂いがする。しかし病人から違う臭いがする。汗と汚物、吐瀉物の酸っぱい臭いが部屋に満ちていた。


 隔離病棟には四十ほどの寝床が用意されているが到底十分ではなかった。床に転がされた者が何人もいる。


 開け放たれた扉から差し込む光に目を細めた軍医の一人が駆け寄って来た。


「司令官閣下? どうしてここへ」


「患者を見舞いに来た。治療しているのは?」


「私とそこの、ジャン・ミヨー医師の二人です。あとはグルバス人の治療師が四人……」


「たった六人か?」


「他は……他の患者の治療に当たっています」


「全ての軍医をここへ回せ。病気を恐れて拒否する軍医は銃殺する」


 足を踏み入れたのはボナパルトとクルーミル、それにベルティエとケジー老とデジュネット、アビドードの六人。


 ボナパルトは患者の一人に近づいてその手を取った。患者の手は熱く震えていて、爪は血の気が引いて白くなっていた。


「しっかりしろ。大丈夫だ。すぐ良くなる」


「司令官……?」


 嘔吐を繰り返して傷ついた喉からかすれる声が漏れた。


「そうだ。こんな所に押し込めてすまない。すぐに改善するよう手配した。綺麗なシーツに換えてやろう。その汚れたシャツも着替えさせよう。薬もある。大丈夫だ。良くなる」


 ボナパルトは持ってきたタオルで兵士の額の汗をぬぐってやった。


「ありがとうございます」


 その隣の床に寝かされている兵士にボナパルトは跪いて話しかけた。


「聞こえるか?」


 次の兵士は身体を動かすこともできないほど衰弱しているようで土気色の顔から浮かび上がるような目だけを動かして自分の司令官を見つめ口を動かした。しかし音にはならなかった。


 ボナパルトの横からクルーミルがそっと進み出てその手を取る。クルーミルを通じて、兵士の言葉がボナパルトに響いた。


「司令官閣下。司令官閣下」


「聞こえるか。しっかりしろ。きっと良くなる。我が軍医たちは最高の技量の持ち主だ。お前はよく頑張っている勇者だ。よくなったら昇進させてやろう。勲章もだ」


 兵士は涙を流した。


「昇進は要りません。勲章も要りません。家に帰りたい。うちに帰してください。うちに帰りたい。司令官閣下、お願いです。家に帰りたい船に乗せてください。ここは嫌だ……家族に会わせてください。名誉も富も要りません。帰りたい……帰りたい!」


「わかった。帰してやる。必ずお前を家に帰してやる。だから生きろ。分かったな」


「帰りたい、帰りたい……」


 伝わる兵士の声は次第に小さくなっていって、やがて消えた。


 ボナパルトはゆっくり立ち上がると向かいのベッドにいた兵士が叫んだ。


「お前のせいだ!」


 それは刃物のように鋭い声だった。


「ボナパルト! 悪魔め、お前のせいで俺たちはこんな地獄にいるんだ!」


 ボナパルトはその兵士に向き直って答えた。


「それだけ大声が出せれば助かるぞ。好きなだけ罵れ! 正直なお前を伍長にしてやるぞ!」


 クルーミルはその様を見つめる。ナポレオンの眼差しは子供を愛しむ母のように優しく、父のように頼もしく見えた。


 ボナパルトは病棟の中を進んでいき、吐瀉物に塗れた兵士のシャツを脱がせ、デジュネットが持ってきた新しいシャツに着替えさせる。兵士の身体には黒い出来物があって腫れていた。



「あそこまでするものか?」


 背後に控えるアビドードが臭気に鼻を覆いながらベルティエに言う。


「司令官閣下は必要なことをされる方だ」


 ボナパルトが兵士たちの汚れたシャツを取り換えているのを見てクルーミルが手伝おうと手を伸ばすのをボナパルトが制する。


「あなたはここまでやらなくていいわ」


「ですが……あなたはなぜここまでするのですか?」


 声をかけて手を握るだけでも十分に意味がある。政治的な効果を狙っての事ならここに入って患者に触れたというだけで十分だ。人として、苦しむ患者を見過ごせないのは分かる。しかしボナパルトの行いはそれ以上の何かを秘めているようにクルーミルには思えた。


「彼らは私だから」


 ボナパルトから感じる言葉はいつも以上に柔らかな、そして哀しい響きを帯びていた。


 自分にとって兵士とは戦いの駒。必要とあれば戦場で彼らを百人でも千人でも死なせて悔いることも省みることもしない。


 クルーミルや貴族たち、他の将軍も兵士を愛しむことも、憐れむこともするだろう。人間として、自分に仕える家臣として、部下として。


 だが自分にとって兵とは自分そのものだ。彼らがいなければ自分は存在できない。兵士とは部下でも家臣でもない。クルーミルはたとえ全ての兵士を失い、全ての家臣を失っても王だ。力はなくとも、王は王だ。しかし自分はそうではない。指揮する兵がいなくなった時、ナポレオン・ボナパルトは何者でもないのだ。兵士は文字通り自分の手足、血肉。そのように使()()し、扱う。兵士の身体を拭くのは自分の身体を拭くのと同じだ。兵士を死なせるのも……


「司令官……?」


「司令官閣下だ」


 病棟の疲れ切った兵士たちがようやく自分たちの司令官が来ていることに気づいた。


 軍隊に死と負傷と病気はつきものだ。華々しい戦死は人々の記憶に残る。英雄的な死は詩になり、絵になり、物語にしてもらえる。負傷は名誉だ。しかし病気は違う。病人に名誉はない。光が当たることもない。会戦が起これば兵士は死ぬ。戦死者何名という記録になる。しかし病死はその中に、ただの数字にすら入れてもらえないのだ。そんな中に司令官が現れた。


 自分たちは見捨てられていないのだ。立てるものは立ち上がる。そうでない者は仲間に支えられながら起き上がった。「将軍万歳!」が小さな声で唱和される。やがてそれは大きくなりうねりのようになった。


 ケジー老は目を見開いた。明らかに息絶えそうな病人が立ち上がって声を大にしている。この人物が現れただけで、呪いを受けた者たちがまるで回復していく。これは精霊の術なのか。この者は精霊に愛されているというのか?


「ケジー老、あの者をどう思われますか」


 アビドードの問いかけにケジー老は瑞々しい若者のような声で答えた。


「分かりませぬ。ですが精霊はあの人物を祝福するでしょう……我々は力の限り彼らを救いたいと存じます」


 精霊は救いを求め祈る者を助けたりはしない。彼らが助けたいと思う振る舞いをする者を助けるのだ。


 兵士のシャツを脱がせたボナパルトは、垢と病気で土色になった肌に小さな、刺した穴のような傷を見つけた。


「この傷は?」


「……小さいですが、ネズミの噛み痕のように見えます」


 ラレの言葉でボナパルトの脳裏にあったいくつかの物事が電流のように結びついた。


 冬になると都市に入ってくるというノボリネズミ。この病室に入った時にも飛び出してきたあの小さなネズミ。古の伝承にあるという、「武具を全て噛みきった」ネズミの伝説。ネズミが武具を噛みきる事は往々にしてある。しかし、それだけで軍隊が動けなくなるということは決してない。だが、疫病ならどうだろう? 古来、病気によって死ぬ兵士は戦いで死ぬ兵士よりはるかに多い。ネズミが異国の兵士を噛み、病気になったのだとしたら。それによって異国の軍勢が壊滅したというのなら、理解できる話だ。そのことが伝説として形を変えて残ったのだとしたら?


「ラレ。兵士たちにネズミに噛まれないように注意するよう徹底しろ」


 ボナパルトは指示を出した。たとえ的外れだったとしてもかまわなかった。

2024.9.16 お話を少し加筆しました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 人心掌握力の高さを感じる。とはいえリスクであることに違いは無い…どうなるか
[良い点]  第59話の前編後編、拝読いたしました。  今話は軍隊と疫病をテーマにしたお話しですか。  戦記物にリアリティを与えようとする作品は兵站など戦術・戦略面にこだわりがちなものが多いですが、…
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