第五十三話 我が名において
「こいつぁすげえや」
「川辺の都」を発った二百両を超える荷馬車の大群を護衛していたミュラは王都を視界に収めるなり感嘆の声を漏らした。
王都の城壁を取り囲むように天幕が並んでいる。包囲していた時もフランス兵が連ねる天幕があったが、それとは比較にならない。色鮮やかに染められた赤や青、黄、紫の布に贅を尽くした刺繍が施されているそれは富と権威を誇示する。
「草長の国」の大半を占める広大な草原地帯を羊や馬といった家畜と共に渡り歩く遊牧民。その長たちの天幕である。サオレ河の西側、すなわち「草長の国」の半数の長が王都に結集しているのだった。これまでクルーミルの味方をしていた者は勿論、王都を奪還した今、それまで日和見を決め込んでいた者たちも残らずはせ参じ、王都の郊外に陣を張っているのだ。その数は数千に達する。
「みんな、こいつが死ぬのを見に来たワケか」
ミュラは街道を進む馬車の一つに目線を向けた。鉄格子で出来た、外から中身がわかる作りの檻。中に手枷をされて入れられているのは「川辺の都」でクルーミルに叛旗をひるがえしたサーパマド伯本人だった。火薬と共に厳重な護衛をつけて連行されてきたのだ。
「道中の何事もなく良かったな」
途中で護衛に合流したボナパルトの護衛隊長、ベシエールが言う。
「俺の勇名が広まっていたおかげに違いないな」
ミュラはいたって真面目な顔で言う。
「それにしても、この臭いはなんだ? 王都を出た時は気づかなかったがここは酷い臭いがするぞ」
「数キロ先の戴冠の丘には数千の死体が埋葬の途中、都市の人口はフランス兵で急増。包囲時に垂れ流されたクソと小便が郊外に散らばってるからな。その臭いだろう」
「こんな肥溜めみてえな場所に居たのに気づかなかったとはな」
「包囲戦でこの場にずっといたからな……いつの間にか鼻が慣れちまったんだろう」
「ああ、嫌だね。都の連中は何も言わないのか?」
「みんな慣れてるのさ。慣れるんだ。何事もな」
◆
ボナパルトとクルーミルは王宮である「石像の館」の大広間に通じる控えの間に居た。大広間には既に各地から集まった諸侯が勢ぞろいしている。その中には、「川辺の都」をはじめ、「草長の国」の西部に当たる地域に隠然たる影響力を持つテルマルタル伯もいる。
「諸侯の前で、叛逆したサーパマド伯に追放刑を言い渡します。事前に諸侯には話を通しており、私の決定に異議を唱える者はいないでしょう」
クルーミルは緊張した面持ちでボナパルトの手を握して言う。それはボナパルトに説明するというよりも、自分に言い聞かせるためのように感じられる。
「あなたなら上手くやれるわ」
そう言われてクルーミルは緊張した顔を少しほころばせた。
「追放刑っていうのは、どういう刑なの」
「最も重い刑でこの世界からの追放を意味します。両足と両腕を砕き、草原に投げ捨てられるものです」
「裏切者には相応しい末路ね。それが『追放』って意味?」
「……いいえ。この世界の人間は死後、魂となって精霊たちに迎えられてその一部となり、子孫を守護する存在になります。ですが、この刑に処された人間は精霊にはなれず、悪霊にその魂を呑まれることになります。魂を追放するのがこの刑です」
クルーミルの表情はいつになく強張っていた。戦場に出た時にも見せないような硬い顔を。
「人の命を奪うのは」
クルーミルは握っている右手に力を込めた。
「命を奪うのは覚悟していました。私は女王です。けれど、魂を奪うのは……恐ろしいものです」
ボナパルトはこの世界の死に対する哲学を見る。
「私は兵士たちに約束した。サーパマド伯には裏切りの報いを受けさせると。これは私の兵士たちの弔いよ。貴女が震えようが、恐れようが関係ない。貴女には女王として叛逆者を処罰する以上に同盟者である私に対してその責務がある」
ボナパルトは言葉を選んだ。
クルーミルにはその真意がわかる。ボナパルトは躊躇う自分に逃げ道を与えているのだ。「追放刑は自分の本意ではない。ボナパルトがそうしろと命じているのだ」と言う責任の逃げ道を。ボナパルトはいつもそう言う。
かつて、オーロー宮で諸侯の前でボナパルトは約束した。「私が保証する。女王は今後、すべての戦いに勝つ!」と。この人は常に責任を負うのだ。本来なら、女王である自分が背負わなくてはならない責任まで。
「私の名において、必ず」
クルーミルは息をのみ、握っていた手を放した。ボナパルトはクルーミルの燃えるように赤い瞳に光が灯っているのを見、両手を後ろに組むと大広間へ一足先に向かった。諸侯の列、クルーミルの臣下の横に並ぶことになる。
◆
諸侯の集まる儀式が始まる。大扉が開かれ、赤い衣をまとったクルーミルが左右に並ぶ諸侯たちの間を通って、広間の奥に設えられた玉座の前へ進み出た。臣下の最前列には椅子が一つ置かれている。テルマルタル伯の椅子である。伯は着席せず、杖と左右の若い貴族たちに支えられて起立していた。
「テルマルタル伯。着席を許します」
クルーミルが宣言すると、伯は一礼して椅子に腰かける。「川辺の都」のオーロー宮では自ら立っていたテルマルタル伯が椅子に座るのにクルーミルの許可を得た。
クルーミルは幾人かの有力な諸侯に事前にサーパマド伯から没収する権利と領地を材料に交渉をしていたが、この一つで王都が陥落する前と後とで、女王と自分たちのパワーバランスが変化したことを、女王と直接交渉しなかった諸侯も感じ取った。もはや、女王は侮れない。
「サーパマドをここへ!」
クルーミルの側近、ニッケトが言うと、兵士たちに連れられて手枷をされたサーパマド伯が現れた。
「この者、サーパマドが臣従の誓いを破り、王と精霊の名を汚した事実は万民の知るところである。知らぬ者はあるか」
ニッケトの声に応じる者はいない。
「王の慈悲により、サーパマドには口を開く権利を与える。言葉を一つ遺すことを許す」
それは伝統的な慣例だった。王への叛逆という大罪は全ての権利を剥奪される。叛逆した瞬間からサーパマドは貴族としてはおろか、人間としての権利を喪失していた。貴族は自分の死に際して財産や権利の相続先を遺言によって残すが、その権利さえも例外ではない。
王の慈悲として最期に一言だけ貴族として公的な発言を許されるのだ。
サーパマドは右足で強く床を蹴り上げた。
「王を僭称するクルーミルに災いあれ! かの者の出自を問えばその母は卑しい血筋であり、その成すところを見れば、戦に敗れ、臣下を死なせ、領地を荒廃させ、挙句の果ては異国の兵馬を引き連れ、我らが権利を犯すこと甚だし。かの者、王に相応しからざるや! 王位を騙る者に災いあれ! 精霊を信じぬ異国の者に災いあれ!」
サーパマドは許された言葉を使ってクルーミルの生まれと行いを罵った。
「貴様!」
ニッケトが進み出て剣に手をかける。クルーミルの忠臣にとって看過しえぬ言葉だった。ボナパルトも一歩進み出るために右足に力を入れた。
「ニッケト! 待ちなさい」
クルーミルがそれを制止して、深く息を吸って諸侯に向き直った。
「サーパマドに言葉を与えます。私の父は紛れもなく、そなたたちの偉大なる王グルバスです。我が父がこの地に統一をもたらさなければ、この世界は未だに隔たれ、互いに狭い領地、僅かな富を巡って争いを繰り返す時代から抜け出すことはなかったでしょう。王の威光の下、諸侯は弓を置き、都市は道路で結ばれ、平和と秩序が築かれ、繁栄が訪れました。王の平和の中で家畜の増えなかった者、財産が増えなかった者、民が増えなかった者が諸侯の中にありましょうか。これが王が民を統治する根拠です。私の母は「草長の国」の下級貴族の一族。糸を紡ぎ、畑を耕し、羊の世話をしていました。この事を卑しいと言うのであれば、お尋ねしましょう。あなたたちの中で、紡いだ糸で出来た服、畑を耕して得た麦、搾った羊の乳を持たずに生きている者がいましょうか。我が母の営みは正しく、善き民の振る舞いでした。私は王の父と平民とほとんど変わらぬ暮らしをする下級貴族の母の血を引いています。王無くして民に栄えなく、民なくして王は無力です。私の血肉はそのことを表しています」
クルーミルは確かな口調で言葉をつづけた。
「私は戦に敗れました。多くの領地と民を失いました。そのことを認めます。ですが私は過去ではなく現在に生きています。私は多くの敗北から学び取りました。そして勝利を収めました。浜辺にてツォーダフ公を破り、「川辺の都」にてドルダフトン公と騎士たちを打ち負かし、今、「王都」に我が旗を掲げています。我が旗は精霊の風と共に前進し、未だに失われたサオレ河東の土地も取り戻すでしょう。そして大いなる山脈を越えて「斧打ちの国」に達するのです」
諸侯は沈黙している。物音は一つもなく、クルーミルの通る声だけが場を支配していた。
「異国の兵馬を容れたと、サーパマドは言います。その通りです。王の責務は諸侯が言うように、国を守る事にあります。ゆえに私はボナパルトとその兵馬を厚遇しました。これは全て、王国の安全と繁栄の為を思っての事です。国を守る義務が諸侯の個々人の利益に優先されるべきことは明白です。ボナパルトとその兵士が我が国のために血を流していることを諸侯はご存じのはずです。ボナパルトは傷を負いました。また、彼らは民を傷つけた者を自らの手で罰しました。諸侯が雇い入れる異国の傭兵たちの中に同じことができる者がどれほどいるでしょうか?彼らの忠誠と献身に異議を唱えるものあれば、我が剣の前で名乗りを上げることを許します」
クルーミルは諸侯の一人ひとりを射抜くように眼差しを向ける。赤い大きな瞳に見入られる者は自らが炎の中に投げ込まれたように全身が熱くなるのを感じた。
「言葉は終わりです。サーパマドを理の外へ。世界の外へ!」
クルーミルがわずかに右手を挙げると、白地の服を血で汚した四人の男たちが一頭のロバと共に入って来た。顔を布で覆い隠している彼らは、代々この刑罰を執行する一族の者たちだった。手にする棍棒が振るわれ、その場でサーパマドの肘と膝を打った。
皮膚が裂け、骨が砕ける異様な音が響く。サーパマドは奥歯を噛みしめて声を押し殺した。それは貴族の最期の矜持だった。
横たわるサーパマドがロバの背に乗せられる。この後は外に待機している二百余りのこの執行人の一族たちに護衛されて荒野へと連れ出される。そこでロバは殺され、サーパマドは置き去りとなって儀式は終わる。
ボナパルトはクルーミルを見た。言葉と力。それはまさに王の姿だった。




