第五十二話 語られる事(後編)
第十八歩兵半旅団の閲兵が終わった後もボナパルトの職務は続く。部隊の指揮官たちから報告を受け、日が落ちる頃にはクルーミルと共に貴族たちの催す宴に出席した。
「石像の館」にある大広間には現在、大きな舞台が設けられているが、それでも三百人以上は入るだろう。そこには日に日に数を増やす「草長の国」の貴族たちが溢れている。クルーミルは紅いドレスを纏い、ボナパルトは相も変わらずやや身体に合わないブカブカとした軍服に身を包んでいる。
顔、顔、顔、煌びやかな服。ドレスにほどこされた華麗な刺繍はそれぞれの家や一族、出身地方等を示しているのであろうがボナパルトにはどれがどれだか見分けがつかない。クルーミルの横に控えて、口角だけをあげて笑っているふりをする姿は出来の悪い従者か下僕を思わせる。
「ようこそアトルワト公、歓迎致します」
「風の精霊に祝福されしグルバスの正統なる統治者にして万民の善き保護者たる女王陛下の勝利をお祝い申し上げます。王の友にして、雷鳴の支配者ボナパルト殿にサオレの祝福されしアル・エスクワネンの民の善良にしてその秩序の擁護者であるアルトワトがご挨拶申し上げます」
そう名乗る中年の、右目が白く濁っている男がうやうやしい態度で挨拶してくるの聞いてボナパルトはクルーミルの顔を見た。それは教師に問題を投げられて回答に窮する生徒の表情に近い。
「なに、誰? なんて言った?」
「アルトワト公という方です。前回の戦いにご子息が従軍されています」
クルーミルが繋いだ手を伝ってそっと交信する。こういう時に精霊を介した交信は便利だった。
「ええ? ああ、そう……」
ボナパルトは手を差し出して握手を求めた。
「アルトワト公、ボナパルト殿は公のご子息、"無口のアロトネト"の活躍に大変感謝していると言っています。彼らの世界では挨拶として相手の手を取るのが習わしです」
クルーミルが告げると、公は納得したようにボナパルトの手を両手で握りしめた。
「それはありがたい。我が息子の名を覚えていてくださり光栄に思います。今後とも精霊の眼差しが閣下を見つめんことを……」
わけもわからず満面の笑みで手を握られるボナパルトは顔面に張り付けた笑顔の裏側で溜息をついた。このような社交の場はなんとも苦手である。こんな調子がずっと続きボナパルトは疲弊した。戦場にいるほうがまだいくらかマシなのではないか。
大広間の中央に設けられた舞台に役者たちが上がり、今日の宴の目玉である演劇が披露されようとしている。王都一の劇団が披露するその演目は「女王の勝利」 戴冠の丘の戦いをモチーフにした劇と触れ込まれている。
ボナパルトはクルーミルと共に最も見やすい位置に用意された席についてそれを観劇する。上位の貴族たちも同様に着席するが、位の低い者たちは立ったまま見物することとなる。
色とりどりの衣装に身を包んだ役者たちが舞台に上がり、騎兵用のしなやかな曲線を描くサーベルによる剣戟が始まる。鉄と鉄がぶつかり合い、火花が散るような激しい演舞が続く。最初は一対一で。続いて二人、三人と数を増やし、最終的には五十人が入れ替わり立ち代わりに火花を散らしていく。
激しい戦いの中で鮮やかな緑に染められた絹の服を纏った役者が現れる。どうやらクルーミルに扮した役者らしい。その横にいる青の服を着て、妙な形の帽子を被っているのは自分か。とボナパルトは意地の悪い笑みを浮かべた。壇上に大きな筒が運び込まれる。あれは大砲らしい。
銅鑼が打ち鳴らされるとその「大砲」から赤い花びらがばら撒かれる。発射の演出らしい。ボナパルトは机に肘をついた。
「大砲から花びらねえ」
舞台の端にいる敵役の役者が何人か倒れる。
それにしても、とボナパルトは思う。次から次に出てくるのは騎兵に扮した役者ばかりで、歩兵の姿が無い。フランス風の兵士を出せとは言わないが、騎兵だけで戦争をしているわけでもない。
「勝利の風が草原を渡る。いざ、勇者たちよ、精霊にその名を示せ」
クルーミルに扮した役者が叫ぶとそれに全ての役者と劇を眺める観客たちからも呼応の声が上がった。
クルーミルとボナパルトに扮した二人の役者が剣を抜いて舞台の中心で舞踏を披露するとダーハド王に扮した役者が舞台に上がる。
「おお、勝利の風が我が身を引き裂く。不正と恐怖は敗北し、正統と勇気が祝福される。見よ、我が栄光は太陽と共に沈む。そして新たな太陽が昇る。まさしく、女王クルーミル!」
そう締めくくられると舞台は終わり、客席からは雷鳴のような拍手が響き渡った。
「素晴らしい劇だったと思いませんか、ナポレオン?」
横で見ていたクルーミルが花が咲くような笑みを見せる。
「貴族たちに挨拶するよりは楽しかったわ。でも、実際の戦いの再現としては不正確だった」
ボナパルトは答えた。
「ナポレオン、今夜はあなたの部屋を訪ねても良いですか?」
「なに?藪から棒に用があるなら今言いなさい」
「いえ、後で話したいのです」
「……いいわ。衛兵に伝えておく」
夜も更けた頃、ようやく宴が終わり、ボナパルトは自室に戻り、さらにそこから一時間ばかり参謀長のベルティエと今後の計画について相談を重ね、ベッドにもぐりこむことができた。クルーミルから贈られた柔らかくそして暖かい毛布は、冷え込み始めたこの頃には特に心地よい。
クルーミルが訪ねてくるまでの間、ボナパルトはベッドに転がり、報告書の束に目を通し始める。
ベッドのすぐ脇、ナイトテーブルの上、燭台に灯ったろうそくの灯りが揺ぐ。部屋の空気が動いた。窓は締め切られている。部屋の扉が開いたに違いなかった。
この部屋に通じるのは一つの扉。外には見張りの歩哨二人が立っていて、誰かが入ってくるなら事前に声がかかる。それが無いということは、招かれざる客である。それも外の歩哨を、腕の立つ屈強なフランスの兵士を排除できる客人。
ボナパルトは眠りの世界に半分漕ぎ出していた意識が急速に覚醒するのを感じた。右手をテーブルに伸ばす。
「しまった」
いつも置いているピストルが無い。サーベルも同様で、式典の時に渡してしまった。
舌打ちを一つ。
ギイ、と音を立てて扉が開く。
「ナポレオン!」
一瞬部屋が輝いたかのようにボナパルトは感じた。僅かな蝋燭灯りを反射したのは見事な黄金色の髪。そしてコルシカ訛りのあるアクセント。
「何をなさってるのですか?」
窓を開け放ち、手すりに足をかけている異世界の将軍を草長の国の女王は不思議そうに見やった。ボナパルトの表情が一瞬のうちに、驚き、安堵、そして怒りに早変わりする。
「はぁアッ……このバカ! 貴女ねえ! 私が銃を持ってたらどうするつもりだったのよ! どこから入って来たの! 衛兵は!」
自分より頭一つ半も高いクルーミルに体当たりするようにボナパルトは詰め寄り、壁際に押しやった。
「何事ですか!」
ドタバタと大きな音をたてながら部屋に二人の兵士が飛び込んでくる。扉の外にいる見張りだ。職務に忠実な二人は騒ぎ声がしたのを聞き血相を変えて飛び込んだ。
直後、司令官が女王につかみかかっているという不可解な光景を目にして血相をさらに変えた。
「何でもない! 出ろ!」
何でもないわけはないのだが、司令官に忠誠を誓う哀れな二人は目を白黒させながら大人しく部屋を出るほかなかった。
「……それで、どうやって入ったの」
ボナパルトはクルーミルに頭からバケツ水を浴びせるように一通りフランス語で罵倒するとようやくその手を取った。ボナパルトの罵倒は髭の生えた歴戦の古参兵でも震え上がる迫力があるが、クルーミルはというと、いたずらに成功した子供が親に叱られても悪びれもせずに笑うように笑みを浮かべていた。
「申し訳ありません。この部屋には隠し通路があって、私の部屋と通じているのです。ここに」
クルーミルは執務室のほうへボナパルトを引っ張っていくと、机と本棚が置かれた場所の間に人ひとりが通れる狭い隙間ができているのを指差した。よく見ると、壁の木材にやや不自然なつなぎ目がある。
「隠し通路……」
意外、ではない。城や宮殿にそういったものはつきものだ。ボナパルトが知る最も壮麗なヴェルサイユにある宮殿にもそうした秘密の道がある。人目を忍んで誰かと会うために。または、いざという時逃げおおせるために。
「王の部屋はいくつかの部屋と繋がっているのです。夜更けに一人で王が他の者の部屋を訪ねるわけにはいきませんから」
「ふうん……」
確かにその通りかもしれない。それにしても、隠し通路があるなら言ってくれればよいものを。と思う。
ボナパルトは悪戯を成功させた大きな子供を見上げた。燃えるように赤い瞳。言いたい事をいくつか口の中でもごもごと噛み潰し、ボナパルトはクルーミルの手を引いて寝室へ戻った。
「で、何の用できたの?」
「先ほどの宴はあまり楽しくなさそうでしたので、ゆっくりとお話する時間をとりたいと思ったのです。夜にはお仕事も無いでしょう?」
クルーミルはそう言い終える末尾にボナパルトのベッドの上に散らばる書類を見止めた。
「お仕事をなさっていたのですか? こんな夜更けに?」
「そうよ。名簿を見ていたわ。寝る前の日課よ」
「なんの名簿ですか?」
「兵士たちの名簿。各中隊の隊長たちに、功績をたてた兵士の名前と活躍を報告させてる。今日の閲兵式で名前を呼んだ兵士たちもこうやって覚えてたのよ。兵士全員を記憶するなんて無理だけど、種と仕掛けがあれば、ああいう『手品』はできるわ」
「寝る間を惜しんで臣下の端まで注意をいきわたらせるのですね」
これがボナパルトの兵士たちの強さの秘密、その一端なのだろう。兵士たちは司令官を慕い、司令官は兵士たちを気に掛ける。だからこそ、兵士たちは平民の一兵卒でも命を投げ出して踏みとどまれるのだ。
翻って私はどうだろうか。クルーミルは自問する。臣下のことは覚える。しかし、その下で働く兵士たちは? 兵だけではない。民は? 私は自分の領地で畑を耕す人や、羊を飼う人間、陶器を作る人の名前を誰かひとりでもいえるのだろうか? 民はそんな自分を慕うのだろうか? ボナパルトと自分の間には大きな差がある。それはこういう事なのだろう。
クルーミルはがっくりと肩を落として縮こまった。ボナパルトより高いはずの背丈がまるで子猫のように小さく感じられる。
「……私はまだまだですね。もっとあなたのように働かなくては。それなのに、お喋りをしにきてしまいました」
ボナパルトは空いている左手で理容師にも長らく触れさせずにいてぼさぼさと伸びた黒髪をかきむしった。
「兵士の名前を覚えるのは将軍の仕事よ。将軍を使うのが王様の仕事。あなたは立派に仕事をしてるわ。さっきはあなたが貴族たちの相手をしてくれるおかげで助かったし。それに……あなたが来てくれるのはいい気分転換にもなるわ。私だって、仕事でできてる人間じゃない。雑談はしたいわ、だから……まあ、その、貴女が私のご機嫌を取りに来てくれるのは、結果的に私の仕事の手伝いになって、私の仕事が捗れば、あなたもやり易くて、お互いいい事がある……はずよ」
こういう時、手に触れるこの交信は困る。とボナパルトは毒づく。頭で考えて、喉を通して出る言葉がそのまま喉を通さずそのまま相手に流れて行ってしまう。焦ると言いたい事がごちゃごちゃになる。
「本当ですか?」
「そう。だから精一杯私のご機嫌をとりなさい」
ボナパルトが視線をあちこちに泳がせながらそう告げると、クルーミルの表情は明るくなった。
「ではお話を。今朝、美しい鳥を見た事から話しましょう。それから……」
二人はベッドの縁に腰かけぽつり、ぽつりと何でもない、日記にも書かないような些細な話を始めた。
こんな他愛のない話をするのは、いつ以来だろう。家族と話しただろうか。庭で見た鳥のこと、パンの焼き目が誰かの顔に似ていた事、誰かの噂話。将軍になると、ほとんどすることもなくなった些細な話。
ボナパルトは少し懐かしいような気持ちになった。クルーミルはいつも明るく、時々突拍子もなく、どこか抜けていると言っていいような明るさがある。けれど、内心は心細いのかもしれない。血を分けた兄妹と争い、肉親もなく。必ずしも忠実とは言えない臣下に囲まれた玉座に一人座るのは、どのような心地だろうか? いや、ひょっとしたら、クルーミルは自分に気を使っているのかもしれない。家族と故郷を離れて何カ月もこの世界にいる自分のほうを。無用な心配だ。私の魂は孤独に慣れている……居心地の良さと少しの胸のざわつきをボナパルトは自覚する。
「弟のルイは、優柔不断で、気弱で、軍の指揮官には……でも、人を心配できて、いつも真面目に精一杯働くから……」
ぷつり、と糸が切れたようにクルーミルには感じられた。つないだ手から、伝わる言葉はもうない。顔を見ると、ボナパルトのいつも不機嫌そうな表情はほぐれ、穏やかに規則正しい寝息を立てていた。寝ている顔はまるで子供のようだ。まじまじと見つめるのはこれが初めてかもしれない。ゆっくりと身体を横たえて、毛布をかける。戻らなければならない。朝、起こしに来たスーイラが自分の姿を見つけられなければ、きっと彼女は心臓が止まるほど驚いてしまうだろうから。それもまた面白いかもしれないけれど。クルーミルは静かにベッドから離れると、音をたてないように慎重に扉を閉めて、もと来た隠し通路から自室へと帰って行った。




