第五十二話 語られる事(前編)
外はよく晴れている。空気が乾燥して高く澄んだ空の青と日差しは屋外で仕事をする人間にとって過ごしやすい日である。窓から差し込む陽光は部屋を十分に明るくし、灯りの蝋燭は全て消えている。しかし暖炉には火がはいっていて、時折パチっと音がして炎が揺らめいた。
ボナパルトはそんな部屋の中を歩き回る。クルーミルがボナパルトに与えた部屋は机や棚の類を運び込んでも十分に広い。敷かれた絨毯の踏み心地を隅々まで味わうようにうろうろとせわしなく歩き回る。陽光の陰に入ると、暖炉の控えめな光が揺らめく小さな影を作り出す。日差しの中へ出ると消え、陰に入るとまた現れる。
ボナパルトの参謀長であるベルティエにとってそれは久しぶりに見る光景だった。司令官は自室と呼べるような場所で報告を受ける時、決まって部屋をうろうろと彷徨い歩く。部下が見ている前や、野外のテントなどではしない癖である。歩き回ることで集中力を高めているのだろう。とベルティエは思っている。
「ミュラ将軍からの報告では、無事に艦隊から火薬を引き取ったとのことです。最新の報告では『川辺の都』に向かって移動中とのことです。数日の誤差があるので、おそらく今日中には到着しているかと思われますが……」
「よし……よし。道中くれぐれも警戒を怠らないように繰り返し警告を。それにしても情報の伝達が遅い! ここから『川辺の都』まで軍団ならともかく、伝令の一人や二人、その日の内に届かないなんて。馬を替えながら走らせれば難しくはないでしょうに!」
「馬を替える駅などあまり整備されていないようですからな。伝令一人、二頭の馬を替えながら乗って移動するのが精一杯です」
「ベルティエ、ユーラシアを支配したモンゴル帝国を知ってる?かの遊牧民族は駅を整備して広大な帝国に素早く皇帝の使いを走らせたわ。ここの連中もモンゴル人のように馬に乗って暮らす者が多いのに、なぜ駅が整備されていないのかしらね!」
「それを管理し、維持する強大な力を持った者がいなかったのでしょう」
「ふん……」
ボナパルトは悪態をついた。実際この「草長の国」には都市と都市を結ぶ駅伝制度があまり発達していない。一つにはベルティエが指摘したように、複数の貴族の領地や地域を貫き支配する統一権力が脆弱だったことがある。クルーミルの父である統一王グルバスが「草長の国」を統一するまでは、それぞれの部族や都市は交易や往来するネットワークを持っていたが、部族同士の対立や利害争いが強くしばし交易路は混乱していた。
グルバス王は大街道を整備したがそれはもっぱら、軍隊の移動のためであって命令の往来にはそれほど頓着していなかった。その理由は現地に存在する情報網を利用できたことと、中央から命令を頻繁に送って地方を支配する統治をしなかった、もしくはできなかったことにある。
命令書を送れば現地の人間がそれを実行するとは限らないのだ。なぜ見たことも無い、遠くの人間の命令を聞く必要があるのだろうか? 地方の諸部族は積極的にグルバスに逆らいはしなかったが、必ずしも忠実に命令に服していたわけではなかった。そのため王は自ら軍勢を率いて地方を巡回してその威光を示す必要があった。グルバス王は宮殿から指示書を書いて地方を支配する王ではなく、自ら地方を巡回する王だった。
ボナパルトはぶつぶつと不満を繰り返していたが、ベルティエは話を進めた。
「徴募兵軍団のランポン将軍とランヌ将軍からの報告も来ています。前回の会戦での徴募兵たちの働きについてですが……銃兵は一定の成果を上げたものの、槍兵については騎兵の攻撃に耐えられるものではなく、訓練と経験、何より団結精神の欠如が指摘されています。簡単に逃げ散ってしまい、再集合はほぼ不可能だったと結論付けています」
「一か月やそこらの訓練では仕方ないわね。兵の補充が不可能な以上、現地の人間をなんとしても戦力化する必要があるわ。要改善ね」
ボナパルトは右手の曲げた人差し指の第二関節を甘噛みしながら思案する。フランス兵たちはいずれ帰国する。引き留めるのは不可能だろう。自分もそれと共に帰国する予定だが、この世界の軍隊を育てておくことは、自分が帰国しない時に役に立つ。選択肢はなるべく豊富に、手広く構えておきたい。「それしか選べなかった」と「数ある選択肢の中からそれを選んだ」とでは同じ結論に達するにしても天と地の差がある。
それに、自分とフランス軍が帰国した後、この世界の人間から成るよく訓練された常備軍はクルーミルの統治の役に立つだろう。
「クルーミルのためにもね」
「何か仰いましたか?」
「なんでもない」
「最後に……内科軍医監のデジュネットからの報告です。風邪をひく兵士が増加しつつあるとのことです。現在までに発熱や下痢などを訴える者が二百人ほど。増加傾向にあるので、医薬品調達の資金、治療のための人手を回して欲しいとのことです」
「軍の病気は憂慮するべきことだわ。……銃弾に当たる兵士より赤痢で死ぬ兵士のほうが多い」
「その通りです」
「資金と、人手……この世界の薬屋や医者なりを雇い入れさせなさい。この世界の病気はこの世界の人間のほうが詳しいでしょう。あとは、そうね、病院に軍楽隊を派遣して、演奏させなさい。病は気からよ」
「手配します」
「私たちが病気を持ち込んでる可能性だってあるわ。天然痘にペストに、チフス、コレラ。この世界の人間に伝染したらどうなることやら。今更考えても仕方ないわね」
「我々は動く疫病ですか」
「そう、我々は黙示録の乗り手よ。勝利と、戦争と、飢餓と、死を従えて歩く」
ボナパルトは冗談めかして陰気な笑みを作ってベルティエの耳を引っ張った。
「できればそれ以外のものも従えたいものですな」
ボナパルトは頷いた。
部屋の扉がノックされ、ボナパルトが返事をすると義息子のウジェーヌが入室した。
「司令官閣下、そろそろお時間です」
「ああ。もうそんな時間ね。よし、すぐ行くわ」
少しして「石像の館」の正門前でボナパルトはクルーミルとその家臣の一団と合流した。王都を奪還してからというもの、クルーミルの周りに控える人間の数は増えた。顔ぶれもただの従者ではなく身分の高い貴族たちで、輝くような艶のあるマントや装飾の施された剣を腰に帯びている。
「ナポレオン!」
ボナパルトの姿を見とめるとクルーミルは子供のような屈託のない笑顔を見せた。ボナパルトもそれに応じて不器用に笑みを浮かべる。
ボナパルトがクルーミルに声をかけようとした矢先、足元から小さく黒い何かが俊敏に駆け寄ってきてボナパルトのコートの裾をよじ登って来た。
「わあっ?」
咄嗟に情けない声を上げてボナパルトは裾を振ってその招かれざる客を振り払った。弾かれたのは小さなネズミだった。クルーミルがボナパルトの手を取る。
「どうなさいました?」
「ネズミよ、ほら、あれ」
ボナパルトが指差す先のネズミはそそくさと林立する人々の足の間に逃げ込んでいった。
「まあ。ノボリネズミですね。珍しいネズミです」
クルーミルはクスクスと笑ったがボナパルトは険しい顔をした。
「普段は草原に住んでいて、寒くなると村や街に来て暖を取るネズミなんです。よじ登られるのは縁起が良いことですよ」
「ネズミに登られるののどこが縁起がいいのよ」
「ヘシュネトの花婿という伝説があって、大昔、ヘシュネトという女王がいて、あるノボリネズミが彼女によじ登って『私を婿に貰ってください。もし婿にしてくれたら、女王に勝利を約束します』と話しかけたのです」
クルーミルはニコニコと楽しそうで、まるでそこだけ陽の光がよくあたっているようだった。
「それを聞いた女王はそのネズミを婿にすることにして、結婚式を挙げるのです」
「はあ……?」
「それからしばらくして、女王の国は外国から攻め込まれてしまうのですが、ノボリネズミの婿は約束を果たすと言って、大勢のネズミの一族を連れて出陣し、敵の弓矢や剣の柄、防具の紐を全てかじって使えなくして撃退したのです。それで、ノボリネズミに登られると縁起が良いということになったのですよ」
「ああ、そう……」
「それで、女王の国は栄えて、ヘシュネト女王はネズミとの間に五人の子供を作って幸せに暮らしました……というお話なのですが」
「なんで人間とネズミの間に子供ができてるのよ」
「大昔のお話ですから……」
ボナパルトはややうんざりした顔をしたが、クルーミルが花が咲いたように朗らかに笑うので毒気を抜かれて嫌味な表情を和らげた。
控えていた四頭立ての馬車に二人とベルティエ、ニッケトが同乗する。残りの貴族や従者たちはそれぞれ別の馬車に乗りこみ、その数は十五両にも及ぶ。大通りを通って、都を出た郊外でフランス軍の一部隊を閲兵するのが目的だった。ボナパルトにとっては自軍の兵士たちの点検であり、他の貴族たちにフランス軍の強さを改めて見せつけるおく狙いもある。
馬車の中でクルーミルはボナパルトの手を取った。
「よい知らせがあります。諸侯たちから軍資金を入手する手立てが整いました」
「それはいいわね。どういう手なの?」
「諸侯にはこれまで、王の求めに応じて一定期間従軍する義務がありました。しかし、何らかの事情で従軍できないことがあります。必要な戦士を揃えられなかったとか、病気になったとか……そういう時、身代わりとなるお金を納めることで軍役を免除するという規定があります」
「それで?」
「これまでは事情がある場合に限り認められるものでしたが、これからは常に認めるようにします。従軍したくない者はお金を支払うことでこれを免除します」
「どの程度見込めるの?」
「六千人規模の資金を用立てられると見積もっています」
「ふうん……」
従軍するのは大変な手間と費用が掛かる。武器、防具、馬、それに戦士を維持するには莫大な金がかかる。その上、一族を引き連れ、農民たちを動員しなければならない。彼らの衣食住の費用が上乗せされる。戦いに勝てば戦利品が見込めるが、敗れれば家族や領民を失い、領地経営に大きな支障をきたす恐れもある。その莫大な出費を思えば、いくらかの金を納めてそれで済ませるほうが良いと考える者たちは多いだろう。
戦いに加わり、血を流す事こそ貴族の名誉と考え、また栄光を勝ち取ろうと目論む野心的な者もいるにはいるが、大部分はそうではない。大部分の貴族たちの関心事は自分の領地を守り、繁栄させることである。
これからクルーミルが始めようとしているのは他国への侵入である。自分たちの領地を守るための戦いならともかく、遠征のためにリスクを取ろうとするものはさらに少ないだろう。
一方でクルーミル側としても、統制の取りにくい貴族たちの軍勢よりも、金で雇ってしっかりと管理できる傭兵や、常雇いの兵士たちのほうが戦場で使いやすい。互いの利害が一致した政策であった。
「なかなかいい手ね」
ボナパルトが言うとクルーミルは教師に褒められた生徒のような笑顔を見せた。
「軍資金はいくらあっても足りないわ。他にはないの?」
「今のところは……国王直属の徴税官を増やして未納の税を取り立てる事を考えています。他には増税がありますが、増税は反発が大きいので。貴女には良い手がありますか?」
「そうね、都市の糞尿を集めて売りなさい」
「ええ?」
クルーミルはその提案に驚きの余り声を上げた。手を繋いでされる二人の会話は他者には聞こえないので、突然大声を上げたクルーミルにベルティエとニッケトが驚いて馬車が少し揺れた。
「ええと、どういうことですか?」
クルーミルはその燃えるように赤い瞳を大きく見開いて説明を求める。
「私のところに報告が上がって来たわ。私たちが出会った浜辺、あそこに出来た街に公共トイレを設置して、住民の糞尿を集めて利用してるって。なかなか利用価値があって儲かるらしいわよ」
「た、確かにその、下から出るものは肥料や羊毛の加工に使うそうですが……そういったものは既にそれぞれの職人組合が家々を回って集めています」
「利益が見込めるのは確かよ」
クルーミルは品の良い眉を曲げた。
「……公共トイレを設置して、各家にそこにそれを集めさせて……それをそれぞれの組合に分配する形にすれば、なんとかなるかもしれません。それぞれが家々を回って集めるのは人手と費用がかかりますから。そういう形式にすれば費用を抑えられます。その浮いた分の費用を税として集めることができるかもしれません……が」
「が?」
「民の自然に身体から出るものを集めてお金にするというのは、いかがなものでしょうか?」
「なんかそれっぽい理由をつけておけばいいじゃない。街を清潔にするとかなんとか。クソを売った金だとしても、金は臭くないわ」
「わ、わかりました。わかりましたから。そう連呼しないでください」
クルーミルは顔を赤くしていた。
そのうちに一行を乗せた馬車は都の外れにある広い平野に出た。既にフランス兵たちが集結して司令官の到着を待っている。彼らはボン師団長の旗下にある第十八半旅団の兵士たちで、その数は千人余りである。
ボナパルトが馬車から降りて姿を見せると、軍楽隊の演奏が始まり整列した兵士たちが一斉に「万歳!」の声を上げた。その声と勢いに続々と馬車を降りる諸侯は驚嘆する。なんという士気の高さと統率だろうか。
ズラリと左右に整列した兵士たちが作る人間の回廊を一行は進む。ボナパルトは兵士たち一人ひとりの顔を覗き込むようにしながら歩く。瞳に闘志はあるだろうか。表情は明るいか。服は汚れていないか。破れていないか。手入れは行き届いているのか。靴はちゃんと履いているか。磨かれているか。頭の先から爪先までじっくりと兵士たちを観察する。
観察される兵士たちは緊張しているが、同時に心地よさも感じている。司令官が自分たちを気にかけてくれているのだ。
整列した兵士たちの中ほどまで進んだとき、ボナパルトはふと足を止め、大声を張り上げた。よく通る声が兵士たちの間を吹き抜ける。
「ヴィクトール! ヴィクトール・ベルジェ! シモン・ルーセルは前に出ろ!」
しばらくして名前を呼ばれた兵士二人がボナパルトの前に出た。
「前回の戦いでお前たちの活躍を見たぞ。ヴィクトールは敵の騎兵を銃剣で倒し、シモンは負傷した味方を救い出したな。見ていたぞ」
二人の兵士は顔を見合わせた。前回の戦いと言えば、戴冠の丘を巡る戦いだった。数万の兵士たちが激突し、土埃と火薬の煙で視界も悪かった。誰が誰など見えるのだろうか?
「名誉として、私のサーベルとピストルをお前たちに与える」
ボナパルトは懐からピストルを取り出してシモンに渡し、腰に提げていたサーベルをヴィクトールに渡した。
「全兵士の模範だ! 次の広報にお前たちの名前が載るぞ」
ボナパルトはさらに声を大きくした。
「第十八半旅団の勇者たち! お前たちの働きがこの世界の運命を変えるのだ。名も無い兵士として終わるか、それとも語り継がれる勇者になれるかはお前たちの働き次第だ。今日、ヴィクトールとシモンは永遠にその名を残した。名誉こそ、永遠に生きる栄光だ。私はお前たち全員を見ているぞ!」
兵士たちの興奮と歓呼が堰を切ったようにあふれ出し、足踏みする音と叫び声が大地を揺らした。
「凄い……ナポレオン、あなたは自分の兵士を全て覚えているのですか? 騎士でもない、一歩兵を?」
驚嘆して目を丸くするクルーミルにボナパルトは不敵な笑みを返した。手品を成功させ、観客の度肝を抜いた奇術師のそれであった。




