第三十八話 伝える者
話の日付は『川辺の都』で反乱が起こる日に戻る。ボナパルトたちが『戴冠の丘』でダーハド王の軍勢と対峙していた頃。
『川辺の都』中心部にあるオーロー宮。クルーミルの父、グルバスが作らせた宮殿であり、内庭には噴水や彫刻が置かれ、周囲には果樹や花が植えられて、宮殿の主を楽しませる工夫が凝らされている。
早朝、鳥がさえずって朗らかな陽気が差し込む庭を歩く男がいた。二コラ・コンテ。ボナパルトが連れて来た学者の一人である。彼は足元に咲いている小さな白い花がふと気になり、立ち止まった。
「コンテ先生! 先生!」
背後で呼ぶ声がして、コンテは花に伸ばした手を止めて振り返った。コンテより頭二つは背の低い、短いくすんだ金髪を持つ少年だった。少年は子供らしい、溢れ出る元気を爆発させるようにコンテの元に走り寄って右手を掴んだ。瞬間、コンテの中へ少年の言葉が伝わる。クルーミルと同じ、精霊を介した通訳である。
「やあ。ニリーヴェンくん。今日の授業はまだ先だよ」
オーロー宮の一部は、ボナパルトが連れて来た学者たちが、この世界の人々にフランスの知識を伝える学び舎として用いられていた。彼らから授業料を取り、それを軍資金に充てるというのがボナパルトの狙いだが、授業を教える学者たちには別の目的がある。この世界の人々から情報を集め、それを研究するのだ。フランスの学士院に倣い、学び舎はグルバス学士院と名付けられている。
「今日も先生の実験室を見てみたくて! 先生は今は何を見ているんですか?」
「ああ。花を見ていたんだよ。ほら」
「これは、麦知らせの花ですね。この季節になると咲くんです。どこにでも咲いていますよ? そんなに珍しくもない。ボクの屋敷の庭にもいくらでも咲いています」
「うん。だが、私たちからしたらこの花は変なんだ。見た目はどうみてもクローバーみたいだ。でも……」
コンテはその花の茎を持って引っこ抜いてみた。この植物には根が無かった。まるで置いてあるように引っこ抜ける。
「根が無い。クローバーそっくりなのに。これはどうしたことだろうか……この世界の植物は……私たちからすればとても不思議だ。植物だけじゃない。いろんなものが、私たちには新鮮で、驚きに満ちているよ」
コンテは目を輝かせながら手にした花の匂いを嗅いだり、ぐるぐると弄んでみた。そして最後には口に含んで噛んでみた。
「まずいな」
「そりゃそうですよ。麦知らせなんですから……先生はボクたちの知らないことをいっぱい知っていて、ボクたちの知らない道具をたくさん作れる大天才なのに、相変わらず子供でもやらないことをやるんですね」
ニリーヴェン少年は苦笑いした。
「子供がやらないから大人がやるんだよ。この花は持ち帰ってもっと調べよう。君もきたまえ、私の実験室に。新しい道具が届いたんだ」
「本当ですか?見せてください! 先生の実験室には父の倉庫にも無いような、いろんな見たことがない道具があってボク大好きなんです」
コンテは花をもう一本摘むとそれをポケットに入れ、ニリーヴェンの手を引いて実験室へと歩み出した。
コンテの実験室は王宮の本館とは少し離れた倉庫のような場所で、独特の匂いがした。薬品の鼻の奥を刺すような刺激臭、画材の癖になる香りが混ざっている。
「今日は、昨日とは違う匂いがしますね。何か燃やしました?」
「ああ。街で買った香木を燃やしたんだよ。ボナパルト司令官が、テントの匂いを改善するように手紙を送って来たからね。他にも届いてるよ」
コンテはテーブルに置かれた書類の山を指差した。
「こんなにたくさん。これは全部、ボナパルト司令官が書いたものですか?」
「そうだよ。司令官は筆マメな人でね。品質の良い大砲を安く、早く大量に作れとか、鉄砲工房の生産性を高めろとか、グルバスの環境について報告書を提出しろとか……通信網を整備しろとか、道路を引けとか、教育制度をどうのこうのと……毎日のように届くんだ。」
「先生はボクたちに授業するだけでなく、そんな仕事もしてるなんて大変ですね……」
「そうでもないさ。司令官は私たちを、こんな素敵な土地に連れてきてくれたんだからね。学者仲間たちもみんな忙しいのを喜んでる。ここは私たちが足を踏み入れたことのない未知の世界、ここで見たもの、書いたものは全部、最初の大発見になるからね。凄い事なんだよ。君たちと話すのも、とても嬉しいんだ。大変だなんて、これぽっちも思っちゃいないよ。ここにいる学者たち全員、この世界を楽しんでるんだ」
がちゃがちゃと実験道具を点検しながら話すコンテに、ニリーヴェンは微笑んだ。
「そうそう。君が来たら、ぜひ試してみたい実験があったんだ」
コンテはガラス瓶を取り出した。中には黄色い煙が充満している。
「なにをするんですか?」
「精霊を、捕まえてみようと思ってね。手を触れているだけで相手の言葉が伝わるなんて私たちの世界じゃ考えられないことだ。この世界にいる、精霊とは一体何なのか。とても興味がある。ぜひとも捕まえて、調べてみたいんだよ」
ニリーヴェンはそう聞いて、噴き出すように笑った。
「精霊を捕まえる? 先生はまた変なことを思いつくね。捕まえる事なんてできないに決まってるよ。今までそういうことを考えた人はたくさんいるけど、見たことないんだもの。おとぎ話の中にはでてくるけど……」
「でもいるんだろ?」
「いるけど、見えないよ」
「私が思うに、精霊はきっと何かの自然現象だ。リンゴが木から落ちるだろう? それは精霊の力じゃない。この世界には目には見えない力がたくさんある。精霊もその一つに違いない。それが一体なんなのか、なんとしても知りたい」
「知ってどうするの?」
「知って?そうだな……私も君と同じように精霊の力を借りて、誰かと話をできるようになりたいな」
「だったら、精霊にお願いすればいいのに」
「いいや。私は知りたいんだ。ひょっとしたらこれは、神の御業なのかもしれないのだからね……もしそれを解き明かすことができたら……」
「解き明かすことができたら?」
「きっと私たちはもっと素晴らしい存在になれるはずなんだ」
ニリーヴェンはコンテの瞳の輝きを少しだけ恐れた。それは炎の灯りによく似ていた。
コンテが実験準備に取り掛かろうとした時、外で銃声が鳴り響いた。最初は何かの合図か、誤射かもしれないと思ったが、続けて二発、三発と聞こえ、人々の叫ぶ声も聞こえてきたので二人はただ事でないことを悟った。
「何事かな……」
コンテとニリーヴェンは階段を上り、二階の窓から外の様子を眺めやった。見えたのは王宮の正門に今まさに何十人もの武装した男たちが侵入しようとしている場面。宮殿の窓の随所からマスケット銃の発砲音と煙が立ち上っている。
「これは……暴動か」
「先生!」
「あー……これは困ったことになったぞ」
コンテは少し考えて、白い歯を見せて笑った。
「何を笑ってるんですか」
「いや、どうしようもない事がある時は笑ったほうが得だからね……」
コンテはニリーヴェンの手を引いて急いで階段を駆け下りて、壁に立てかけていた銃を左手に持った。
「走るぞ。本館に居るフランス兵たちと合流しなくては!」
オーロー宮は宮殿全体をぐるりと取り囲む外壁と、本館の周囲をめぐる内壁の二重構造になっており、乱入者たちは外門を破ろうと斧や槌を振るって門を乱打しては、門の上や脇の小窓からクロスボウや小銃で射撃され阻止されている。王の住む宮殿は単なる住居ではなく、最後の抵抗を試みるための要塞でもあるのだ。
「手の空いている者は正門の守りを固めろ。召使たちには窓を塞がせろ。動かせる家具は全て運ぶのだ!」
突然の襲撃に、クルーミルから留守を任されていたアビドードはうろたえる部下たちに次々に指示を飛ばして迅速に守りを整えていた。
「何事ですかなアビドード殿」
『川辺の都』の駐留部隊を預かるカファレリ将軍が外の喧噪などまるで気にしないような落ち着き払った声色で尋ねた。
「詳細は不明ですが、攻撃を受けています」
「なんと。我らに気づかせぬとは。よほど周到に、秘密裏に計画されたものなのか、あるいは、一種の突発的な、暴発ともいえる反乱か……」
「これは貴族の反乱です。背後にはおそらく、サーパマド伯がいます」
アビドードとカファレリは唐突に間に入って来た少年の言葉に言葉を失った。
「お前は誰だ? どこから入って来た」
「ああ、カファレリ将軍。この子は私の教え子で、リニーヴェンです」
少し遅れてコンテがやってきた。
「アビドード様、これを見てください」
ニリーヴェンは王宮に射こまれた矢をアビドードに差し出した。
「この矢は、先日サーパマド伯に売られた矢です。伯は父に矢を大量に注文し、父はそれに応えるために南の遠い都市から矢を輸入しました。このあたりで、あの都市の職人が作る矢を持っているのは、サーパマド伯だけです」
「サーパマド伯か。それなら合点がいく。伯は女王に味方すると称して兵を募っていた。疑われずに兵を都に集めることができたということか」
アビドードは唇を噛んだ。
「大した坊主だ。君はなぜそんな事情に通じている?」
「私はネーヴェンの息子、ニリーヴェンと言います。カファレリ将軍」
「ネーヴェン……我々に軍資金を提供しているあのネーヴェンか」
「はい」
「ふぅむ……アビドード殿、この宮殿の守備隊はいかほどか?」
「現在は五百余り。食料と水の備蓄は十日分はあります。サーパマド伯が兵を挙げたとなればそれに加わる者たちもいるでしょう。このあたりの敵は三千と見積もれます」
「我々の守備兵は全域で五千は居る。ここにも九百は詰めておるから、しばらくは守れる。急ぎ、司令官の下へ伝令を遣わし、事の次第を告げるのだ。混乱が静まり、態勢を立て直せば我々の勝ちじゃろう」
「しかし包囲されています」
カファレリ将軍に進言したのは黒い巻き毛が人に印象を与えるオーギュスト・マルモン大佐だった。
「秘密の抜け道があります。そこから外へ出られます」
アビドードが答えた。
「そのあとは? このあたりは敵か味方かわからない貴族たちの領域だ。無事に通過できる者が要る」
「それなら、ボクが」
ニリーヴェンは進み出た。
「このあたりの地形には通じていて、馬にも乗れます。子供のボクなら監視の目も緩むでしょう」
「だがな、連中が射掛けてくる矢を売ったのは誰だ? 君の父だと、君が今言ったじゃないか。敵に武器を売るようなやつが、裏切らないと言えるか? 信用できん」
マルモンは顔をしかめた。
「サーパマド伯はクルーミル女王に味方すると言って父から武器を買ったのです。父は裏切られたのです。父は女王と、王の友ボナパルト様に多額の資金を提供しています。あなたたちの味方と言っても良いでしょう。もしサーパマド伯の企てが成功し、女王が敗れるようなことがあればダーハド王は女王に加担した我々を決して許さないでしょう。それに、マルモン様が仰るように、このままでは父は反乱軍に武器を提供した裏切者という汚名を着せられる恐れがあります。ボクに救援の手紙を届けさせて、父の潔白を証明させてください」
カファレリとアビドードは少年の堂々とした物言いに顔を見合わせた。
「私はこの少年に任せてみたいと思うが」
カファレリはその印象的な鷲鼻を撫でて言う。
「わかりました。この少年を含めて、数人の使いを出しましょう。早速、手紙を準備します」
「マルモン。司令官に手紙を出す。この坊主を含めて、一ダースも伝令を出せば、一人ぐらいはたどり着くだろう!」
議論は決し、各指揮官たちは守りの強化と情報の収集に努め始めた。その中でコンテは自分の教え子の顔を今一度見直した。




