第百一話 言葉と剣
クルーミルが諸侯らと誓約を交わした一週間の後、東部地域は、急速に平定されつつある。
「パルトムがいなくなりました」
「そうか。これで五人目だな」
『草長の国』と『斧打ちの国』を隔てる大山脈にほど近い人の手が入らぬ林の中に六人ばかりの男と数頭の馬が身をひそめる。追手に気取られぬように火を起すこともままならず赤くかじかんだ指を擦り合わせ、水浴びも殆どできずに皮脂と垢で汚れて黒ずんでいる顔にぽっかりと目玉だけが白く浮き上がっている男たち。彼らがそれなりに名のある騎士の若様方であったことなど、その無精ひげからは想像もできないだろう。月明りを頼りに枯れ枝を踏みしめながら歩く彼らは亡霊にしか見えない。
彼らこそ東部戦役の始まりと共に華々しくボナパルトに戦いを挑んだ若い騎士、レスナストとその腹心とも呼べる友たちの一行だった。
「……」
レスナストは仲間の顔を見て、自嘲気味にため息をついた。吐く息が白い塊になって吐き出され消える。ものの見事に打ち負かされてしまった。いや、勝負にすらならなかったという認識が不意にこみあげてきて、乾いた笑いになっていく。
◆
レスナストが東部地域を巡る戦いで思い描いていた戦略はこうだった。侵攻してくるフランス軍をグーエナス伯の軍勢が蹄鉄砦に釘付けにする一方、自身が率いる遊撃部隊がフランス軍の補給部隊を攻撃、さらに二の足を踏んでいる諸侯へ働きかけて各地で小規模な戦闘を引き起こし続ける。そうしてフランス軍が弱体化したところへ、ヴィオス公率いる『斧打ちの国』からの主力部隊が現れ、四方から攻撃されるフランス軍は打ち負かされる。限られた兵力で大軍を相手にする上で唯一と言ってよい策だった。
そして実際にある程度の効果を挙げたはずだった。焼き討ちにした馬車の数は百台を下らず、殺傷したフランス兵も数十人はあるだろう。そして彼らに協力していた商人や村人はその数倍は討ち取った。
フランス軍の一部隊を主戦場から引きはがすことにも成功した。正面切っての会戦にこそならないが、それに勝る兵力をボナパルトの手元から奪い去っていたのだ。
ところがどうだろう?ヴィオス公の軍勢は僅か一度の会戦で完膚なきまでに打ち砕かれ、返す一撃で蹄鉄砦は落城した。ヴィオス公もグーエナス伯も戦死して全ての計画がご破算になっている。
そもそも真正面から戦えないのだから、フランス軍の大部分が心置きなく街道や村の守りを固めると手も足も出せない。襲撃しようにも商人たちの馬車には百騎以上の護衛が付くようになり、襲撃のたびに戻らぬ騎士が増えた。
諸侯の態度も一変した。蹄鉄砦やヴィオス公の軍勢がいる間はどっちつかずの態度で食料や武器、寝床を提供してくれていた日和見を決め込む諸侯たちは彼らが敗退したとみるやレスナストを盗賊や山賊の類と同一視して攻撃してくるようになった。
都市や村もレスナストに対して好戦的になった。女王への反抗、ダーハド王への忠誠といった言葉は彼らになんの感銘も与えず、商人の馬車や村への焼き討ちといった行為が彼らの我々への敵愾心を強め、フランス寄りにしてしまった。
フランス軍は我々への攻撃を強化し、拠点を一つ一つ潰していった。蹄鉄砦のような堅牢な砦さえも落としてのけるフランス軍は、地元貴族の木造の見張り台のような砦を積み木の城を崩すようにいともたやすく落として回る。
軍事的な締め付けが強化される一方で、クルーミル女王の政策が致命的な一撃となった。諸侯に対する赦免!寛容を示された諸侯はもはや女王に敵対する理由も必要も失ってしまった。白馬丘でフランス軍と剣を交えたはずのフーゲン伯や、蹄鉄砦に籠城した者たちにすら帰順が許されるとあっては、遊撃部隊はまるで糸玉がほどけるように瓦解していってしまった。
どこまでも広がる無限の草原は逃れるには容易い。だが、草原は無慈悲だ。一人や二人ならともかく、数十人や数百人を草原は養ってくれない。身体を隠すことはできても、食い物が尽きる。限られた水場には監視が立つ。敵の補給線を破壊するはずが、逆に補給を絶たれてしまったのだ。我々に物資を提供してくれるであろう地元の協力者はもはや存在しない。
レスナストがボナパルトと「戦わない」戦い方を用いるなら、ボナパルトもまたレスナストを直接叩く必要のない戦略を取ったのだった。それはボナパルトの軍事力であり、クルーミルの政治力の勝利に他ならない。レスナストは己の敗北を認める他になかった。ボナパルトの戦場での卓越した采配。クルーミルの政治感覚の巧みを。自分は対決してもらうことすらできなかった!
◆
「山脈を越えれば『斧打ちの国』だ。ダーハド王は我々を温かく迎え入れてくれるだろう」
乾きに苦しみ虚ろな目をしている馬を引きながらレスナストは陽ざしのように明るい声を上げた。確かに『草長の国』を巡る戦いは決着しようとしている。だが、これで全てが終わったわけではない。戦いには次がある。山脈を越えた後の戦い。『斧打ちの国』での戦いが待っている。フランス軍の補給線はさらに伸び切り、現地の抵抗も『草長の国』の比ではない。自分の戦略は必ず生き返る。自分が重用される時は必ず来るのだ。レスナストは希望を捨ててはいなかった。
「……レスナスト」
「どうした」
くたびれた顔の若い騎士の一人がレスナストを呼び止めた。その男はレスナストと同郷であり、一人前になる前には同じ羊の群れの守をしたこともあった。仲間からの渾名はケルク。優秀な牧羊犬を指すグルバス語だ。
「この冬に山脈越えは無理だ。峠にはみんな見張りがある。道を外れれば遭難する」
レスナストはケルクの目をじっと見た。淀んだ池の不気味な虹色の膜のようなものが見える。
「何が言いたい」
「女王に降伏しよう。皆許されたのだ、俺たちだって許される」
「おい、ケルク。今更何を言ってる。俺たちは栄光を掴むんだ。もう少しの辛抱じゃないか。女王に下って、下級貴族のそのまた下っ端に甘んじる気か?栄光か、破滅か。昔から言うだろう。最後まで鞍に乗っていたものが勝者だと、あと少しの辛抱じゃないか」
レスナストは口角を上げて笑顔を作ってみせた。
「もううんざりだ!」
その言葉は合戦前に放たれる鏑矢のような鋭い響きを立てる。ケルクの後ろに続いている男たちが一斉に短剣を抜く音が鳴り響く。
「俺たちは戦いたいわけじゃない。生き残りたいんだ。レスナスト、なあ。分かるだろう?」
「お前に従ってきたが、もううんざりだ。村を襲って馬車を焼いて回る事のどこに栄光があるんだ。何が名誉だ。クソ、俺たちは強盗だ!」
四人の騎士が輪を描くようにレスナストを取り囲む。
「……」
レスナストは胃から酸いものがこみあげてくる感覚に捕らわれた。
「そうか。俺に従っていたのは、こんな奴らだったか」
これではボナパルトに勝てるはずもない。レスナストは腰にさげていた剣を投げ捨てた。そこにあったのはもはや怒りでも憎悪でもなかった。ただひたすらに徒労感と虚無がレスナストの両肩に罪人に課せられる鉄鎖のようにのしかかっていた。
「よし。お前たちの好きにしろ」
相手が抵抗しないと分かると、ケルクは安堵の溜息をついて短剣を鞘に納め、縄を手にした。
東部を巡る戦いは戦場以外の場所で決着しようとしている。




