第百話 孤影の少女
会議を終えたクルーミルが侍女のスーイラと共に部屋に戻るとそこにはボナパルトとシノーの姿があった。
「ナポレオン」
「上出来だったと思うわ。ともかく諸侯には提案を呑ませた」
ボナパルトがそう評するとクルーミルは俯いて少し口角を上げて椅子に腰かけた。
「私は傲慢でした。あの子の言う通りです。私は自分の都合で彼女から家族を奪い、自分の都合で定める法を贖罪と言って押し付けました。……これは彼女らにとって利益になる、だから償いになる。……私は許してもらえる。心のどこかでそう期待していたのです。愚かでした」
クルーミルの絹糸のように美しい金髪が彼女の頭に落ちかかって影を作る。
「だとしても貴女はできる限りのことをした。後悔しても時間の針は巻き戻らない。結果的には貴女の政策で東部諸侯は力を取り戻す。たとえ彼女がどう思っていようと清算は済んだ。違う?」
「……」
「そんなこと、乗り越えなさいよ。じゃないと死者が貴女の足を捕まえて離さなくなる。下を向かずに前を向きなさい。為政者には俯くことは許されない」
「ありがとう、ナポレオン」
クルーミルは自分より背の低いナポレオンを見上げてその瞳を見た。燃え尽きた灰のように輝く青灰色の瞳を見れば、いつもひどく安心する。させられる。この人の瞳を見ていれば自分は何があっても大丈夫なのだ。そういう気持ちになってくる、とクルーミルは思った。ナポレオンの言うことは正しい。くよくよしていては何にもならない。自分のこれは、個人的な感傷として蓋をしないといけないのだろう。
「でも、私は悔いなければならないのです。そして自分を省み続けなければ。私はあなたのように聡明でも偉大ではありません。自分をそんな風には信じられないのです。この後悔を受け止めなくては」
ボナパルトはクルーミルの瞳をまっすぐに捕らえた。燃え盛る炎の瞳が揺らいでいる。ボナパルトは思う。彼女は最も困難な道を行こうとしている。指導者になるということは怪物になることだ。心を抱えたままではあまりに重すぎる。心を怪物に明け渡し、楽になれるだろうに、それを拒むという。心を抱えたままではいつか判断を誤るか壊れてしまう。
だが、その重さに耐えきるのならば、心を持った怪物になれる。人はそれをなんというのだろう?
「ナポレオン。テーケルネトに伝えてくれませんか?どうか、私の謝罪を聞いてほしいと。許してほしいとは言いません。ただ、私が心からそう思っているということを伝えてくれませんか。本来なら私が彼女のところに行って伝えるべきですが、そうすると彼女に選択肢が無くなってしまいます」
女王が出向いたとなればテーケルネトは断れない。ボナパルトは頷いた。
◆
クルーミルの部屋を出ると、ボナパルトはその足でテーケルネトの部屋を訪ねた。廊下の窓から外を見れば既に太陽は沈んでおり、暖房のない廊下は心まで凍り付かせそうなほど冷えていた。彼女の部屋の前には衛兵の姿もなく、取り次ぐ召使もいなかったのでボナパルトは扉をノックして、返答を待ってから入室した。
「ボナパルト様……」
入室したボナパルトとその影のように付いてくるシノーに目線を向けるテーケルネトの瞳は腫れていた。先ほどまで泣いていたのかもしれない。
「テーケルネト殿。先ほどは堂々とした態度だったな。向かいにいた貴族の顔を見たか?驚いていた」
「……どのような御用でしょうか」
その言葉はシノーの通訳を通してボナパルトに伝わるが、テーケルネトの口から出た声は意味は通じずとも硬い響きがあった。しかし女王に向けていたものに比べればまだ柔らかい。それはボナパルトがテーケルネトの父親を呪いから解放した事に対する恩義からだった。
「単刀直入に言えば、女王は貴殿に謝罪したいと言っている。無理にとは言わんが」
テーケルネトは大きなため息をついた。
「どういうつもりで……」
「そのままの意味だ。自らの失態で貴殿の家族が死ぬ原因を作ったことを悔いている」
「それで、私に許せと?」
テーケルネトは頭をかきむしる。
「私には分かりません。どうしたらいいか。いいえ、分かっています。受け入れるべきです。私は領主で私情を捨てなければ……分かっているんです。分かってるつもりです。でもどうしても言わずにはいられなかった。誓約の血を飲めば、この気持ちを飲み干せるのかと思いました。でも、わからない。どうすれば……私は、訳が分かりません」
テーケルネトの声は巨木が割ける時のような響きを持っていた。その矛盾を受け止めるには彼女はまだ幼過ぎた。
「東部が戦禍に見舞われたのは女王の責任だけではない。私は諸侯から手紙を押収した。それを調べた。女王とダーハド王が戦った時、諸侯のうち幾人が参戦の義務を怠ったか、幾人が密かに裏切ったか。誰が内通していたか。もしそれらの背信がなければ女王とてむざむざ負けはしなかったろう。だが彼女は言い訳しない」
ボナパルトの言葉は低く、落ち着いていた。
「そんなことは父とは関係ない。私の父は女王に忠実でした。だから……」
テーケルネトにもそのぐらいのことは分かっている。女王が全て悪いわけではない。東部諸侯も一枚岩ではなかった。全力で女王を支えていたわけではない。女王自身、偉大な父親を亡くして間もなく、血を分けた兄と殺し合いをしなければならなかった。その衝撃と心痛はどれほどのものか。分からないわけではなかった。
「私は、どうすればいいのか分かりません。心が割けて……」
「その気持ちはわかる」
「わかりっこありません!」
テーケルネトは突き飛ばすように叫んだ。
「あなたのように強い人間には決して理解できません。女王の恩寵無くして領地の安泰はないのに、女王は私の仇も同じなのです」
「いや、分かる!」
ボナパルトは一歩踏み込んだ。その声は大きく、鷲の叫びのように聞こえる。高く、遠く、呼びかける声。
「私もそうだからだ。私も、貴女と同じだからだ。私もそうだ。私の故郷は小さく美しい国、コルシカと言った。私の国は隣国に征服された。フランスという国にだ。そして私はフランスの軍人になった。自分たちを征服した国の兵士になったんだ。私は!」
テーケルネトはその言葉に磁石のように動かされた。
「やがて私は自分が愛した故郷から追放された。そして自分の国を征服した憎むべき国の中で出世した。教えてくれテーケルネト。どうすればこの傷は埋まるんだ?どうすれば、癒されるんだ?」
それは悲しみに暮れる子供の声だった。
「……探してるんだ。お前も探すことになる。答えなどない。苦しみ続けるしかないんだ。それでも、探すしかないんだ。クルーミルを許せとは言わない。復讐したいなら、それもいい。憎み続けるならそれでいい。自分のしたいようにしろ。それとも、楽になりたいか?」
ボナパルトの声は氷柱で出来た短剣のように鋭くなった。
「私が命令してやろう。そうすれば、ほら、お前はこう言える『ボナパルトに無理強いされた』なんて命令してほしい?」
通訳しているシノーは思わず言葉に詰まった。ボナパルトの言葉が自分の身体を稲妻のように切り裂くように感じられた。あるいは、ボナパルト自身の空洞から反響する音だったのかもしれない。
テーケルネトは自分の紡ぐべき言葉を見つけられなかった。ボナパルトが部屋に来た時、年長者として諭しにきたのか、女王の友として説得しにきたのか、そのどちらかだと思っていた。だが、今自分にぶつけられている言葉は等身大の、まるで自分と同じぐらいの年頃の子どもの言葉のように聞こえた。同じ目線で、同じ苦しみを知る人間の言葉だった。
「テーケルネト殿、貴女には運命を定める権利がある。生きる者だけに許された権利が。どう使うか、ご自身でよく考えると良い」
そう言ってボナパルトは踵を返す。内心、ボナパルトは穏やかではなかった。自分の内側を晒してしまった。なぜこの少女に自分を晒したのか、ボナパルトには判っていた。彼女は自分と境遇が似ていたのだ。そして、自分がかけた言葉はあの日、幼い自分にかけてやりたかった言葉だった。
◆
翌朝、テーケルネトは女王と朝食を共にすることになった。
テーブルに柔らかなパンと卵料理が出されるのを見ながら、テーケルネトは女王に声をかけた。
「女王陛下。会談の場では無礼を働きましたこと、深くお詫び申し上げます」
「貴女は当然のことを当然に主張したのです。何も謝罪には値しません。謝罪すべきは私の……」
その言葉をテーケルネトは遮った。
「女王陛下のお心遣いに応えるべき言葉を、私はまだ持っていません。ですが、探そうと思います。その時までお待ちくださいますか」
クルーミルは大きく瞳を見開いた。
「ありがとう。あなたがそれを見つけられるように努めます」
いつもお読みくださりありがとうございます。
今回でちょうど百話になりました。ここまで続けて来られたのも読んでくださる皆さまのおかげです。
今一度、深くお礼申し上げます。
今後とも皆さまのご期待に応えられるよう努力していきます。




