05.引くわけにはいかないわ
ルティーは、ルーシエから手渡された通達を見て愕然とした。
そこに書かれていたのは、医療班への配属である。高位医療班でないことに愕然としたのではない。この一年、アリシアの付き人として働き、敏腕ルーシエから付き人のなんたるかを一から叩き込まれてきたルティーにとって、理解し難い決定であった。
ルティーは当然のように誰かの付き人となるものと思っていた。その誰かというのは、アリシアの娘アンナに他ならない。そこで罪が償えると思っていたというのに、この紙にはアンナからの誘いがなかったことを示していた。
己の実力が足りないことは百も承知だ。敬愛する筆頭大将アリシアを守れなかったのだから。
でも、それでも。だからこそ。
ルティーはその紙をグッと握り、キッと睨むように顔を上げる。
「申し訳ございません、私、失礼してもよろしいでしょうか」
重い沈黙を機に、ルティーは声を上げた。そこにいたアリシア直属の部下四人は、ルティーの顔を見るため視線を下げている。
「ルティー……お前はなんて書かれてたんだ?」
「医療班への配属、それだけです。すみません、急ぎますので失礼します」
フラッシュの問いにそれだけを答えて、ルティーは部屋を出た。
いつもなら、ルーシエに知恵を借りるなり頼るなりしていたことだろう。しかしルティーは、なんとなくルーシエは辞めるのではないかと思った。
なにかにつけて彼は『アリシア様のため』と言っていた。その崇高具合はルティーの比ではない。そのアリシアがいなくなった今、きっと彼はここで働く意味はないと考えるだろう。
(もうこれからはルーシエさんを頼れない。私が自分で、なんとかしなくちゃ……!)
なんとか自分をアンナの付き人にしてもらわなければいけないのだから。
(直接アンナ様に言ってもだめだわ……誘いがないということは、必要とされていないってこと。誰かを介して説得してもらうしかない!)
勢いよく部屋を飛び出したルティーは、ふと立ち止まって思い出す。
交渉で必要なのはあらゆるコネの施行、誠実さのアピール、駆け引き中には余裕と笑顔と少しの脅し。そして最後は泣き落とし。
ルーシエに教わった、交渉術である。スケジュール変更など簡単なものであれば、大抵はこれで落ちるとのことだった。が、今回はスケジュールの調整などではないのだ。ルティーは気を引き締めて歩き始め、ひとつの扉の前にきた。
コンコンコンコン
ノックは四度、規則正しく控えめに。
「どうぞ」
入室を促す声を受け、ルティーは扉を開けた。その執務室に座っているのは、先ほど通達の紙を持ってきたトラヴァスだ。
部屋に入ったルティーは、丁寧に頭を下げる。
「ルティー? どうした」
顔を上げると、そこにはいつもの無表情の彼の顔があった。
「少々トラヴァス様にお話があって参りました」
「話?」
そう言うとトラヴァスは立ち上がり、ソファーに腰を下ろすように指示された。ルティーは素直に従い、目の前に座る彼と対峙する。
今から心理バトルだ。智に長けるトラヴァスを選んだのは、こちら側に引き込めさえすれば、必ずアンナの付き人にさせてくれる知恵を持っているはず。引き込めるかどうかは、ルティーの演技にかかっている。かなりの強敵だが、負けるわけにいかない。
ルティーはすっと息を吸い込み。
そして、フッと微笑んだ。
「トラヴァス様、将に昇進おめでとうございます。さすがはトラヴァス様、こんなに早く……」
「言いたいことがあるのだろう。おべっかを使う必要はない。要件は」
出だしから躓かされてしまった。先に相手を褒めるなどして気分をよくしておくという鉄則は使えそうない。では誠実に、真剣に、アピールしていこう。
ルティーは手元の紙をトラヴァスに見せた。
「こちらの通達書はご覧になりましたか?」
「ああ、全部見た。書類の確認をしたのは私だからな」
「私はこの通達には従えません」
ルティーの言葉に、一拍おいてトラヴァスが声を発する。
「ルティーの配属先は、医療班だったな。なにが気に入らない?」
「気に入らないわけではありません。もっと私に合う職種があるだけです」
ルティーはにっこりと笑顔を作った。いつもより、少し大人びた表情で。
「高位医療班か?」
「違います」
「悪いが、それ以外に転属は認められない」
スパッと言い放ったトラヴァスの目は冷酷だ。こんなことで狼狽えてはいけない。想定の範囲内だ。ルティーは余裕を見せながらゆっくりと語りかける。
「私は、アンナ様の付き人になります」
「……辞めたいわけではないんだな?」
「はい、もちろん」
トラヴァスは相変わらず無表情を押し通しているが、今の発言から察するに、辞められては困るに違いない。水の魔法士は希少なのだ。つけ入る隙はそこにある。
トラヴァスは平静を保っているが、子ども相手と思って迂闊な発言をしてしまった自分を、大いに責めているはずだ。
「アンナの付き人になるのは不可能だ。諦めてほしい」
「どうしてですか?」
「アンナが望んでいない」
「トラヴァス様ならどうにかできるのではありませんか?」
ルティーが核心を突くように言うと、トラヴァスは一瞬だけくしゃりと顔を歪めた。
「……どういう意味だ?」
「深い意味はありません。ただ敬称もつけずに名を呼ぶ仲だというなら、トラヴァス様からおっしゃって頂ければと思いまして」
そういうとトラヴァスはハッとし、少し難しい顔に変わった。トラヴァスはアンナのことをずっとアンナ様と呼ばずに話してきている。プライベートならともかく、今は勤務中だ。子ども相手と気を緩めていたのか、それとも将になったことで、アンナと同レベルになったと無意識に思っていたのか。しかしアンナは筆頭大将という地位に昇りつめているのだ。彼はまた『アンナ様』と敬称を付けて呼ばなければいけない立場にある。
「……脅すつもりか」
「え? なんの話ですか?」
先ほどルーシエに通達を渡しにきた時も、彼は一度だけ「アンナ」と言っている。こちらには証人がいるのだ。優秀で通ってきたトラヴァスが、将に昇進した途端に株を落とすようなことはしたくないだろう。彼はカールとは違って、そういう厳格なところが慕われているのだから。
「…………」
無言でルティーをじっと見るトラヴァスに、『どうしたの?』という感じで小首を傾げて口角を上げた。我ながら名演技だと思う。脅しは全面に出してはいけない。特に察しがよいトラヴァスにはこれくらいで十分のはずだ。
しばらくして、トラヴァスがのっそりと口を開く。
「……恐らく、アンナはルティーを付き人にはしないだろう。ルティーの年齢で働かせることに抵抗があるからな」
「でも、トラヴァス様なら説得できる術をお持ちですよね?」
断定的にそう言い放ち、無邪気に笑ってみせる。トラヴァスはひとつ息をハァっと吐くと、「まぁな」と答えた。
「ありがとうございます、トラヴァス様!」
すかさずに礼を言い、大袈裟に飛び上がって喜んで見せた。トラヴァスは苦い顔をして、ルティーに冷たい目を流してくる。
「まだ説得するとは言っていない」
「え、そ、そんな……」
今度は一転、落ち込みを見せ、目の端に涙を溜めた。最後の締め、泣き落としだ。これでトラヴァスを落としてみせる。
「私、アンナ様の付き人になれると……」
「ルティーの気持ちはわからなくはない。前筆頭大将……アリシア様への悔悟の念があるからだろう」
「そ、それは……っ」
ハッと気付くと演技は崩れ、グッと拳を握り締めてしまっていた。そんなルティーにトラヴァスは畳み掛けるように続けてくる。
「そんな気持ちで付き人になるのはどうかと思う。きっとアンナの側にいることで、余計に罪の意識を高めてしまうだろう。ルティーの将来を考えれば、医療班で実績を積んだ方がいい。それが幸せとなれる道だ」
トラヴァスの説得モードに、ルティーは唇を噛み締めた。
(だめだ、手強い……。どうあってもこの人は、私をアンナ様の付き人にしてくれないつもりだわ。悔しい……っ)
ルティーはすべての策略を捨て、土下座せんばかりの勢いで、頭を下げる。もうこれしか方法がなかった。
「……お願いします……私、どうしてもアンナ様のおそばにいたいんです!」
「やめた方がいい」
一刀両断され、それでもルティーはキッと顔を上げる。
「では私は辞めます!」
「辞めるならそうすればいい。もうアンナに会うことはなくなるがな」
「っな」
最終手段を出したというのに、こちらが辞めないということをみすかされていて、ルティーは狼狽えた。相変わらずトラヴァスは冷酷さを湛えていて、夏だというのに周りの空気が少し冷えたようにさえ感じる。
「じゃ、じゃあ、トラヴァス様が不敬発言をなさったことを……」
「公表するなら別にいい。それで去っていく部下がいたなら、私はそれだけの男だったということだ」
「……っく……」
もうこの人になにを言っても説得できる気がしない。
アンナの付き人になりたかった。アリシアのことがあるからというだけじゃない。艶やかなマーメイドドレスを着て華やかに踊るアンナの姿は、今も鮮明にルティーの頭に残っている。
ルティーはあの時、アリシアだけでなくアンナにも強く憧れた。
この地には少ない、黒い目と髪をした独特の雰囲気を持つ女性。アリシアのような華やかさはないけれど、そこには凛としながらも個を主張する、百合の花のような色気があった。
あの時、ルーシエがなぜルティーを宴に連れ出し、そしてアンナたちを参加者として誘ったのか、今ならわかる。
ルーシエは確か、こんな風に言っていた。メインはアリシアだが、将来的な意味を含めてアンナたちを出席させる、と。その時のルティーは、彼がなにを言っているのか理解できず、不思議に思ったものだ。
彼の意図はこう。ルーシエにとっての一番はアリシアであるが、その娘のアンナもまた気にかけていた。しかしアリシアにのみ心血を注いでいる彼には、アンナをおざなりにしてしまうのは必然だっただろう。
だからルーシエはルティーを手元に置き、教育した。いずれルティーがアンナの付き人になり、そちらで手腕を発揮することを見越して。
つまり彼は、自分がアンナを守れない分、ルティーに守らせようとしていたのだ。だから宴に出席させ、アンナを見せて憧れさせた。
ルーシエにまんまと乗せられた形ではあるが、不思議と不快感はない。むしろ、アンナを守れる立場にあると見抜いてくれたであろう観察眼に、感謝したいほどだ。その役目を託してくれて、誇りすら感じる。
(私はアンナ様を守る立場の人間なのよ。こんなところで引くわけにはいかないわ!)
ルティーは冷血無表情男にキッと目を向けた。




