02.ずっと、おそばに……いようと……
「アリシア様!! いけません!! アリシア様ーーーーーーッ!」
そう叫んだというのに、アリシアはルティーの言葉など聞かずに走り去ってしまった。
ルティーはその後ろ姿を見送るしかなかった。あの怪我で走ることができるアリシアに愕然としながら、ルティーの身は総毛立つ。
悪い予感しかしない。万全の状態ならばこんな心配などしなかっただろう。
しかし医療班に配属されているルティーは、彼女が今どんな状態なのか理解している。本来なら動けるはずがないのだ。 なのに、顔を歪ませながら必死で出ていった、その意味。
「アリシア様……ああっ、どうして、私は……っ」
魔法力を切らしている自分を呪った。なぜ残しておくことをしなかったのかと。
しかしその理由は明白だった。ルティーはアリシアが怪我をするなど、欠片ほども考えていなかったのだ。あの最強の筆頭大将が、一般兵士相手に傷つくわけがないと。
「言い訳、だわ……」
ルティーは唇をグッと噛んだ。筆頭大将の付き人という立場でありながら、アリシアを最優先にしなかったことに罪責があるのだ。ルティーの言い訳など、通用しない。付き人という立場をわきまえていないから、アリシアの怪我を治せなかったのだから。
しかし、こんなことを考えていても後の祭りである。ルティーは待つしかなかった。アリシアが『終わったわよ!』と元気に戻ってきてくれることを。
「アリシア様……っ」
ルティーは己の仕事をこなしながら、祈るようにして吉報を待った。あのアリシアが死ぬわけがない。そう願いつつも、不安で心が押しつぶされそうになる。
(どうか、どうか……アリシア様、ご無事で!!)
そう強く祈った瞬間、救護テントの外がざわついた。ハッと顔を上げ、テントの外に飛び出る。そこには。
「アリシア……様……?」
ルティーはよろよろと歩みを進めた。そこにはジャンに抱きかかえられたアリシアが、手をだらんと地に向けて垂らしている。
「アリ、シア、様……」
ガクガクと手も足も震え始めた。目の前が真っ白になり、今にも倒れそうだ。
ルティーはなんとかアリシアの側まで来るとそっと手を伸ばし、アリシアの頬に触れた。
「死……ん……」
触れた瞬間、そんな声が勝手に漏れた。開けたままの口からは、か細い空気の移動がなされるだけで、言葉が出てこない。
確認する必要もなかった。そこにあるのは、ただの骸。その唇から明るい笑い声が、聞けるはずもない。
ルティーの目の前は真っ白になり、ガクンと膝を落とした。と同時に、その眼から、泉のように涙が溢れ落ちる。
ジャンはそっとその場にアリシアを横たえた。再び、物言わぬアリシアがルティーの目の前に現れる。
「アリシア様……ああ……うううう……」
自分が魔法力を温存しなかったせいでこうなったのは明白だ。あの時、アリシアの体を回復できていたならば、こんな結果にならかったに違いない。
故に、ルティーは自分を責めた。呪うように責めた。すべての禍が、自分に降り注げばいいと呪った。
大切な人を。大好きな人を。憧れの人を。
殺してしまった。
自身が手を下したわけではない。
しかしそれと同意義のことを、ルティーはしてしまったのだと感じた。
生きられるはずの命を奪ったのは、自分自身だと。
「アリシア様……申し訳……ありません……っ」
目の前に横たわる冷たい骸は、もうなにも答えてはくれなかった。
ルティーは最初、アリシアのことが苦手だった。声は大きく、身振り手振りも大きく、たくさんの屈強な男たちを従えている、豪快で男らしい女性。
ルティーにはアリシアが、巨大な熊のように見えていた。水の書を習得したせいで、とんでもない人のところへ来てしまった、と。
アリシアのイメージが変わったのは、彼女が真っ赤なドレスを着て、華麗に踊っている姿を見てからだった。ジャンに身を任せ、時折顔を赤らめている姿は、乙女だと思った。美しく、気高く、それでいて乙女なアリシアを、ルティーは単純にかわいいと感じた。
しかしまだこの時には、付き人となる気持ちはなかった。アリシアという人柄を、彼女の部下やアンナやグレイといった人物から聞くことで、徐々に傾いていったのだ。
決め手は、グレイが死んだ直後のことだった。
あの日、ルティーは言いつけ通りに王宮に赴いたが、アリシアは遠征でおらず、どうしようかとウロウロとしていた。するとトラヴァスがそんな自分に気付いて、アンナのところへ連れていってくれたのだ。アンナと打ち解けていることを、彼は理解していたのだろう。
そして、そのアンナの執務室で。
倒れるような物音がしたと思うと、アンナがなにかを察知したのか、盾を持って部屋を弾けるように飛び出したのだ。
続いてトラヴァスがそれを追いかけ、ルティーもなにがなんだかわからずも、二人を追いかける。
やっと追いついたルティーは、扉前で立ち尽くしているトラヴァスの後ろから、その部屋を覗き見た。
地獄だった。
そこはストレイア王シウリス・バルフォアの執務室で、その部屋の主が何度も剣を振り下ろしている。しかしその剣はアンナの持つ盾に塞がれ、何度もガキンガキンと音を立てて消えた。
アンナの足元には、血みどろのグレイがピクリとも動かずに横たわっている。
怒り狂うシウリスと、泣き叫ぶアンナと、微動だにしないグレイ。
ルティーは戦慄した。なぜこんな事態が起こっているのか、ルティーには理解できない。ただ唯一言えることは、この国の王は異常だということだ。瞠目し、眉を吊り上げて剣を振るうさまは、ルティーに衝撃と恐怖を与えた。
その後は気を失ったようで、どう行動したのか覚えていない。気付いた時にはその光景はすでになく、目に入ってきたのは難しい顔をしたトラヴァスの姿だった。
その彼に、グレイがシウリスに殺されたという事実を再確認した時、ルティーは唐突に思ったのだ。
アリシアを、シウリスから守らなければいけない、と。
なぜ、グレイが殺されたのかは、わからない。けれどアリシアは、彼の死に対して黙ってはいないだろう。よしんば今回の事件で何事も起こらなかったとしても、筆頭大将という人間はなにかとシウリスとの接触が多いはずだ。
アリシアを、死なせたくない。
あの気高く美しく男らしく、でも心は乙女な彼女を。
あんな狂気の人間に、殺されることがあってはならない。
ルティーは、アリシアの付き人になった。シウリスに、彼女を殺されるのを防ぐために。
だから、今回のことはまるで想定外だったのである。アリシアが、ただの一般兵になど殺されるわけがないと。アリシアを超越する人物など、シウリスしかいないのだから、と。
「アリシア様……アリシア様ぁ……」
相変わらずの美しい顔立ちは、無言を貫き通している。
どれだけ後悔してもしきれない。もうアリシアは、目を覚ますことはないのだ。
経験を積ませてほしいと懇願すると、一緒に行きましょうと言って戦争に連れてきてくれたアリシア。なにを経験だなどと、格好つけた理由を口にしたのだろう。アリシアの身を癒す以外に、同行の理由などなかったはずなのに。
今まで以上の凄惨な光景を見ることになるかもしれない、と言われてなんと答えたか。覚悟しています、と答えたのだ。
一体なんの覚悟をしていたというか。アリシアがこんな姿になることも、覚悟しなければいけなかったというのに。そしてそれを回避する為に、尽力しなければいけなかったというのに。
(すべての責任は、私にある……)
ルティーは冷たい屍に触れる。
アリシアの手は大きく、ルティーの小さな手では包み込むのは不可能だった。
「ずっと、おそばに……いようと……」
決めていましたのに……と言葉を詰まらせ、ルティーは遺体に寄りかかった。
「……ごめん……」
先ほどまでアリシアを抱きかかえていた男は、その一言だけを告げると、どこかへ去っていった。
ルティーはそっと顔を上げ、ジャンの後ろ姿を見送る。彼はアリシアと、恋人同士だったのだ。彼との結婚の際に着るドレスを、ルティーは選ぶはずだった。
「ジャンさん……ごめん、なさい……!」
謝っても償いきれないほどの、大きな罪を犯してしまった。
自分には、覚悟が足りなかったのだ。すべてを犠牲にしてでも、大切な人を救うという覚悟が。助けると決めた人を必ず救うという、水の魔法士としての矜持が。
どうすれば許されるだろうか。この罪を、どうすれば贖うことができるのか。
答えが出ぬまま、ルティーはアリシアの側で、いつまでも泣いていた。




