01.嘘だ……
「……アンナ……」
この世で最も愛する人が、己の愛する娘の名を口にし。
しかしその言葉は最後まで発することなく、飲み込むように口は噤まれ。
そして彼女は……ジャンの愛する人は……アリシアは。
瞳の光がなくなると同時に、そっと瞼を落とした。
「アリ……シア……」
ジャンの震える声が、彼女に届くことはもうない。アリシアは、たった今、命を落としたのだから。
「アリシア……ッ 嘘だ……」
ジャンの手の中の血量は、留まるところを知らずに流れ落ちている。彼女の背中から滴り落ちるそれは、ジャンの手には収まらず、地面に悲しい血溜まりをこしらえていた。
ぬるりとした感触。
ジャンの周りに充満する鉄の匂い。
愛する者の硬く閉ざされた瞳。
「アリシアーーーーッ!!!!」
ジャンは強くアリシアを抱きしめた。
まだ温かい、彼女の血液と身体を。
少しでも長くこの地に繋ぎ止めようと。
「筆頭、筆頭ーーーーッツ!! くっそぉぉおおおおお!!」
フラッシュが喚きながら、敵大将と相対している。
が、ジャンの耳には通り抜けていくだけだった。フラッシュがここを離れろと言った言葉も。誰か呼んでこいと叫んだ言葉も。
フラッシュが苦戦を強いられている姿が目に入っても、ジャンはアリシアを抱き締めたまま、動くことはなかった。フラッシュを助けなければと頭ではわかっていても、全身の力が抜けたようになり、事態をただただ見守ることしかできない。夢を見ているかのような、白い霞がかかる。
「遅くなった!!」
そう言って奥から現れたのは、マックスだった。彼はアリシアとジャンの惨状を見るなり顔を歪ませ、しかし剣を構えるとすぐさまフラッシュの援護に入る。
ジャンはマックスの参戦を確認すると、再びアリシアに顔を落とした。アリシアの顔はもう真っ白で、血の気がまったくない。
(アリシアが…………死んだ………)
心臓の鼓動が聞こえるはずもなく。
彼女の胸元からふわりと本が浮き上がった。
救済の書。
大切な者が危機に瀕した時、その居場所知らせてくれるという異能の書。
彼女はこれでジャンの危機を知って、駆けつけてくれたのだ。
「ごめん……アリシア……ごめん……っ」
ジャンは、何度も何度もそう言い続けた。
謝っても、どうしようもないということがわかっていながら。
それでもなお、ジャンは謝り続ける。
愛する者の許しを得るためではない。
己の不甲斐なさを、戒めるために。
「……ごめん……」
そう呟きアリシアを抱きしめるジャンに、二つの影が落とされた。
そっと見上げると、そこには肩で息をするフラッシュとマックスの姿。敵の大将は、二人の後ろで倒れている。
「っく、筆頭……ッ」
「……ジャン……」
二人の顔は、逆光で見えなかった。
しかしその顔は見えずとも、声の悲愴さでどんな表情をしているのかはわかる。
「マックス……フラッシュ……」
そして、『ルーシエ』と心で付け加える。
己のせいで、彼らの敬愛する上司を死なせてしまったという事実。
ジャンは岩のように重い自責の念を背負い、頭を垂れた。
「筆頭……」
マックスは膝を着き、胸元からパサリと落ちた本を拾い上げる。
アリシアが確実に息を引き取った証拠を手に取ると、マックスの涙の堤防は決壊し、雪崩れさせた。
「筆頭……筆頭……!」
「……マックス」
ジャンは己の手を、マックスに向けた。彼はその意図を読み取り、とめどなく流れる涙を拭いながら本をジャンに渡してくれる。
救済の書は、ほんのりと温かみを帯びていた。
アリシアの意思が、そこにあるようにさえ感じる。
ありがとう、ジャン。
さようなら……。
「アリシア……」
アリシアのその声は、幻だったのか。ジャンは、強く救済の書を握りしめる。
日の光がアリシアを照らし、ジャンは彼女がふと軽くなるのを感じた。
ハッとし、ジャンは再度アリシアを見つめる。
今、目の前にあるのは、まさしく亡骸。
魂が抜け出た、アリシアの形骸。
(冷たい)
無機質となってしまった彼女の身体は、救済の書との温度差を顕著にさせる。
そして理解した。もうアリシアは戻らないという、その事実を。
「く……あ……ああぁああっ!!」
ジャンは声を上げ、その死を悼んだ。
誰よりも大切な人を。
己のせいで死なせてしまったその苦しみを。
次から次へと溢れ出る涙は、我先にとアリシアの身体に降り注ぐ。
彼女の肢体が、涙で洗われるのではないかと思わせるほどに。
ジャンはその瞳から、熱いものを流れ続けさせた。
「アリシア、アリシア、アリシアーーーッ」
叫ぶ声は虚しく、空に溶け込むばかりで。
アリシアの直属の部下三名は、しばらくの間その場から動けず、各々涙を流し続けた。




