64.あなたが生まれた時も
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ジョルジュの家に入ると、赤ん坊の泣き声がよく聞こえた。
そしてその赤ん坊をあやす声もまた、廊下に響いてくる。
「アベルちゃ~ん! よちよちよち、おばあちゃんですよ~」
「この目と髪は、俺に似たんだなぁ。アベル、次はおじいちゃんのところにおいで!」
そんな声が部屋の奥で聞こえた瞬間、ジャンの足が止まった。後ろから見る彼の姿は、強く拳を握り締めたまま固まってしまっている。
アリシアは、その握られた左側の拳を、そっと包んだ。
ジャンには記憶がないのだ。両親に優しくされた、記憶が。
今、彼らが孫に対して愛情を注いでいるのを感じて、ジャンはなにを思ったであろうか。
「あなたも……」
「……え?」
一瞬緩まれた拳を開かせながら、アリシアは言った。
「あなたが生まれた時も、きっとご両親はあんな風だったんだわ」
「……」
ジャンは無言だった。しかし、そっと彼の背中を押し出すと、なんの抵抗もなく歩を進めてくれた。
そしてとうとうジョルジュを先頭にして、その部屋へと入っていく。
「父さん、母さん」
「ずるいわ、次は私に抱っこさせて!」
「お前はさっき抱っこしたばかりだろう! おじいちゃんの方がいいよなぁ、アベル!」
ジョルジュが話しかけても気にも止めず、ジャンの両親は孫の取り合いをしていた。
部屋の中にはもう一人若い女性がいて、ジョルジュの奥さんであることが伺える。彼女だけはこちらに気付き、驚いたように目を丸めた後に会釈をしてくれた。
「あばばばばー! ほら、笑った!」
「アベルちゃん、おばあちゃんもいますよー」
「父さん、母さん! 来てるよ、兄貴が!」
ジョルジュが声を張り上げ、二人の動きが止まる。そしてスローモーションのようにゆっくりと、こちらに振り返った。
「ジャ……ン……?」
父親がそう声に出すと、高く抱き上げていたアベルをゆっくりと胸の位置まで下ろした。そのアベルをジョルジュの妻が横からそっと抱き上げる。
ジャンを見ると、難しい顔をしたまま、自身の両親を見据えていた。
「ジャン……ジャン……!」
母親は口元を押さえ、その場に立ち尽くしている。その目には、涙が浮かんでいるようだった。
「兄貴」
ジョルジュに促され、ジャンは一歩前に踏み出した。そして両親から数歩離れたところで立ち止まり、なにも言わずに二人をジッと見つめている。
両親の方も、ジャンに近付きたい気持ちはあれども、どうしていいのかわからないのだろう。二人ともジャンを抱きしめたそうにしているものの、どこか遠慮している節がある。
「ジャン……その……、大きく、なったな……」
父親の口から出てきたのは、そんな言葉だった。最後に会ったのが、オルト軍学校時代だというのだから、そんな感想を抱いても仕方ないのかもしれない。
「とっくに子どもじゃないから」
「そ、そうだな。すまん……」
ジャンのつっけんどんな言い方に、父親が頭を下げたその瞬間。隣にいた母親が、いきなり大声を上げて泣き始めた。
ジョルジュが慌てて彼女に近付き、その肩に手を置いている。
「母さん、ジャンだよ。ずっと会いたがってたジャンが、来てくれたんだ」
「うう、うううう~……っ、ごめんなさい……ごめんなさい、ジャン──」
母親は大粒の涙を溢れさせ、その場に崩れてしまった。当のジャンはどうしていいかわからないようで、ジッとその光景を見つめている。
ジャンの中にはわだかまりがある。すぐに彼女を許せというのも、無理な話だろう。アリシアはそんなジャンにそっと近寄った。
「ジャン」
「……アリシア」
ジャンはどこか気まずそうにアリシアの名を呼んだ。取り乱している母親とは違い、父親の方はアリシアの存在に今気付いて、驚きの顔を見せていた。
「紹介、してくれるかしら?」
「……誰を」
「そうね、まずは私を皆さんに」
その言葉を聞いた父親は、慌てて母親を立たせた。そして「アリシア様だ」と耳打ちし、泣いていた母親はヒュッと息を飲んで言葉をなくした。
そうして静かになったところで、ジャンが言葉を発する。
「こちら……軍のトップ、アリシア筆頭大将」
「初めまして、アリシアと申します。ここへはプライベートで来ていますので、そう固くならないで下さい」
本来ならば固くなるのはこっちだというのに、ジャンの両親の方が恐縮しまっている。そんな二人を見て、アリシアは言った。
「ジャン、ご家族を紹介してくれると嬉しいわ」
しかしそう頼まれたジャンは、ジョルジュの方に視線を投げてしまった。その意味を理解したであろうジョルジュが、皆の紹介をしてくれる。
「アリシア様、僕がここの家長のジョルジュです。そこにいるのが妻のソフィ、それに息子のアベル」
ソフィに目を向けると、彼女はアベルを抱いたまま淑やかにお辞儀してくれていて、アリシアもまた頭を下げた。
「そして……僕らの父親であるジェラルド」
「お初にお目にかかります、アリシア様」
「最後に、僕らの母親……イヴリーンです」
イヴリーンは細かに震え、声にならない声を上げている。
彼女は、アリシアが想像する以上に若かった。おそらく、若くしてジャンを生んだのであろう。ジャンよりも、イヴリーンとの方が年が近そうである。
「イヴリーン、ちゃんと挨拶しなさい」
「いいえ、お気になさらず。段階も踏まず、急に訪ねて来たのはこちらですので」
ずっと会っていなかった息子と軍のトップがいきなり現れては、驚くのも当然だろう。そんな空気を察したジョルジュが、柔らかな口調で椅子を勧めてくれた。
「ともかく、お座り下さい。少しすれば、母も落ち着くと思いますので……」
一同は席に着き、ジョルジュがアベルを抱き上げる。そしてソフィが紅茶を淹れてくれた。会話のないままそれぞれ紅茶に手を伸ばす。ミルクが入っていないためか、ジャンはそれに口をつけることはしなかった。
たまにアベルがあばあば言うだけで、場の雰囲気は奇妙さに支配されている。誰しもがなにを言っていいのかわからないのだ。アリシアもまた、なにをどう切り出そうかときっかけを探していると。
「アリシア様、本日はどのような御用件でこちらにいらしたのでしょうか」
最年長のジェラルドが先に口を開いた。アリシアに聞いたのは、ジャンよりもアリシアの方が聞きやすかったからだろう。彼の問いに、アリシアは真摯に答える。
「私はジャンのご家族に挨拶をしたくて、無理を言って連れてきてもらいました」
「アリシア様がジャンの直属の上司であることは、ジョルジュから聞いております。いち部下であるジャンのためにわざわざご足労頂き、恐悦至極に存じます」
ジャラルドがそう答えながら深々と頭を下げるので、アリシアはどうしようかと困惑の表情をジャンに向ける。自分で言ってもいいのだが、こういうことはきちんとジャンから話すべきではないだろうか。
しかしジャンを見ても、彼はどこか明後日の方を向いたまま、話に加わろうとしてくれない。
「顔を上げて下さい。今日は上司と部下という関係で、ここに来たんじゃないんです」
そう言うとジェラルドは顔を上げ、小首を傾げた。
「ええと……では、どういう……?」
「その問いに答える前に、教えてください。ご両親はジャンのことを、どう思っているのかを」
明後日の方向を向いていたジャンの視線が、アリシアへと戻った。少し、眉間に皺を寄せながら。そして再び視線をそらし、右下方へと泳いでいる。
ジャンの胸中を考えると居た堪れなかったが、これを聞かずに前進できるとは思えない。直球を投げられたジェラルドとイヴリーンも、一瞬にして顔が強張った。
「あなた方がジャンを捨てたというのは、事実ですか?」
彼らは強張った顔を、さらに青ざめさせた。イヴリーンの手は震え始め、ジェラルドは眉間に皺を激しく寄せている。
「……我々は、罪に問われますか」
「いいえ、当時にそんな法はなかったはずだし、あったとしてももう時効でしょう。それに言ったはずです。私は、プライベートでここに来ている、と」
自分たちを逮捕しに来たと誤認する二人に、アリシアはそう告げた。しかし、ますます意味がわからず混乱してしまったようである。
「ともかく……私はあなた方が、ジャンにどういう思いを持っているのかを聞きたいんです。教えてください。今の、お二人の心境を」
アリシアが二人に真っ直ぐ視線を投げかけると、イヴリーンの表情がみるみる崩れて言った。嗚咽とともに涙を溢れさせ、手で顔を覆う。そんな彼女の肩を、夫はそっと抱いていた。
「イヴリーン……」
「う、うううう……っ私は……、どうしてあんな占い師の言うことを……っ」
そう言って泣崩れてしまったイヴリーンに、アリシアは冷たい眼差しを送る。
「泣いていてはわかりません。反省しているなら、その気持ちをきっちりとジャンに伝えるべきです」
きっぱりと言い切ったアリシアの顔を、ジャンは少し驚いた顔で見ていた。
ジャンの両親に同情すべき点もあるだろう。けれども、アリシアはジャンの味方でいたかった。和解できれば一番いいが、もし両親が反省の言葉を口にしてもジャンが許せない場合、その時はジャンの気持ちに従おうと考えていた。
それでもなお、涙が止まらぬイヴリーンに代わって、ジェラルドが口を開く。
「後悔……しています」
絞り出すような声で、ジェラルドは言葉に出した。その表情は苦悶に満ちていて、しかしジャンの顔を見てはいなかった。




