61.奇跡はいつか必ず
アリシアは、体に馴染んだ救済の書を慈しむように、自身の胸元に触れた。
こうすると、アリシアは雷神と過ごした甘い日々を思い出すことができる。一生の宝物である。
「私はこの書を取り出すつもりはないわ」
アンナが訝しげな表情に変わった。不誠実だと言われるかもしれない。
けれど、これはアンナには伝えなければいけないことなのだ。ルーシエがアリシアを諭してくれたように。今度はアリシアがアンナに教えてやらねばならない。
「アンナ。母さんはね、父さんを忘れたわけじゃないの。今でも、父さんを……ロクロウのことを、愛しているのよ」
案の定、アンナの顔が奇妙に歪んだ。なにかを言いたそうにして、しかし言葉が見つからないのか口は噤まれたままだ。
「こんな風に言うと、不誠実に思われるでしょうけど……私はロクロウもその人も、同じくらいに愛してしまったのよ」
アンナの目が大きく見開かれる。言葉にこそ出さないが、信じられないという言葉が今にも出てきそうだ。そんなアンナにアリシアは続ける。
「最初、私はロクロウ以外の人と付き合うつもりはなかったのよ。ロクロウを忘れられないのに、他の人と付き合うなんて失礼だって、そう思っていたの」
「まぁ、そう……よね……」
肯定を示すアンナの瞳に、正直であるためにまっすぐその目を見据える。
「でもね、ロクロウが好きなのも事実。その人のことが好きなのも事実なの。どちらかを選ぶのは、本当に難しいことよ。でも私は、今そばにいて支えてくれる人を選ぶことにした」
「……父さんのことを愛しているのに?」
「ええ。どちらも選べない状態が続くより、ずっとマシなんだって気付いたのよ。……ねぇ、アンナ」
アリシアは腰を上げると、アンナの前まで移動した。アンナもまた、そっと席を立つ。そしてアンナの手をそっと握った。
「今はわからないでしょうけど、あなたもきっと同じように悩む時が来るわ。その時、今母さんが言った言葉を、思い出してほしいのよ」
「母さん……? どうして……」
アンナは瞳を涙で濡らし始めた。その手は震え、温かみがスッと引いているのがわかる。そんなアンナを見て、アリシアは心を痛めた。
「ごめんなさい……今言うのは残酷だったかしらね……グレイがいなくなって、半年しか経ってないっていうのに」
「違う……違うの……」
「え?」
なにが違うのかがわからず、アンナの顔を覗き込む。なぜかアンナは唇まで真っ青になってしまっている。
「どうしたの? 違うって、なにが?」
「だって、『思い出してほしい』だなんて……まるで……その時、母さんはいないみたいじゃない……!」
アンナの瞳から、ぽろりと涙が零れ落ちた。彼女は敏感になってしまっているのだろう。大切な者を失うことに。
アリシアはそんなアンナをそっと抱きしめた。
「馬鹿ね、母さんはそんなに簡単に死んだりしないわよ」
「グレイだって、簡単に死ぬような人じゃなかったわ……!」
「そう……ね……」
アンナの流れるような黒い髪を優しく撫でる。確かに軽率な発言だったかもしれないと思い、先ほどの言葉を訂正した。
「じゃあ、忘れていいわ! アンナがそんな状態になった時、私が諭してあげる。それでいい?」
そういうと、アンナはすすり泣きながらもこくんと頷きを見せてくれる。その動作を見て、アリシアはほっと息を吐いた。
「約束よ、母さん……」
「ええ、約束!」
力強く頷いてみせると、アンナはアリシアの腕からそっと離れていく。しかしその顔は、まだどこか不安気である。
そして今度は、アンナの方からアリシアの手を取り、そっと包むように握ってくる。
「母さん、救済の書……やっぱり本に戻さない?」
「え? どうして?」
「わからないけど、なんとなく……」
なんとなくで取り外せるわけもなく、アリシアは首を横に振る。
「いいえ、外さないわ。この異能があれば、大切な人を守れるのよ。グレイの時は……遠征中で効果の範囲外だったけれど……王宮にいたなら、守れたはずだった」
それだけが悔やまれてならない。もしもフィデル国が攻め入ってさえ来なければ、グレイを救えたというのに。
しかし、アンナはそんなアリシアの考えを否定する。
「相手はシウリス様なのよ……母さんの死体が、ひとつ増えるだけだったわ」
「そうかしら。私とグレイなら、善戦できたと思うけど」
「王族に刃を向けるつもり? 不敬罪か反逆罪で処刑よ」
確かにそう言われると、その場に居合わせなかったのは幸運だったのかもしれない。しかし、どうにかグレイを生かしてあげたかった。今さらこんなことを考えたところで、どうにもならないのはわかっているのだが。
「だからだわ。その書を外してほしいのは。母さんは無茶するから、心配なのよ。父さんとの大事な思い出だっていうのはわかるけど、本に戻しても置いておけるじゃない」
アンナはそう言って、アリシアの手を放した。アリシアは己の胸元を見つめ、やはり首を横に振る。
「だめよ。だからこそ、この書は必要なの。あなたや、あなたの周りの大切な者を守るために。もう二度と、アンナに悲しい思いをさせないために」
「……母さん……っ」
「信じて。母さんは大丈夫だから」
アリシアの決意が届いたのか、もうアンナは救済の書を外せとは言わなかった。代わりにまたも涙を流し、アリシアに抱きついてくる。
アリシアもまた、愛おしい我が子を強く抱き締めた。
(次こそは守る。この異能で、必ず。二度と、アンナにこんな顔はさせない)
不安に駆られ、肩を震わせるアンナを、アリシアはいつまでも包み込む。
そしてその震えが止まる頃には、すっかり遅くなってしまっていた。
「ごめんなさい、母さん……明日も仕事なのに」
「いいのよ、部屋は同じ王宮内なんだから。あ、ねぇ。今日はこのまま一緒に寝ちゃいましょうか」
「え?」
今の状態のアンナを一人にしておきたくなくて、アリシアはそんな提案をした。
「たまにはいいでしょう?」
「ええ……そうね。母さん、私、幸せの神様のお話を聞きたいわ」
「うっふふ。いいわよ~」
グレイが死んだ時には嘘っぱちだと言って憚らなかった幸せの神様の話。それをアンナがせがんでくれて嬉しかった。
二人はベッドに入り布団をかぶる。そしてアリシアは、話を聞かせてあげた。
天使様がいつも見ているということを。
幸せの神様が起こす、小さくも素敵な奇跡の数々を。
「絶望している人のところに、奇跡は起きないわ。希望は持ち続けるの。自分に恥ずかしくない生き方をしていれば、奇跡はいつか必ず起こるのよ」
「う……ん……」
ふとアリシアが隣を見ると、いつの間にかアンナは眠ってしまっていた。
その寝顔は幸せの神様を意識したためか、少し微笑んでいる。
そんなアンナを見てアリシアもまた微笑み、そしてその顔を撫でる。
「おやすみ、アンナ……あなたに神様のご慈悲があらんことを」
愛娘の額に優しくキスをすると、その寝顔を見ながら、アリシアも眠りに落ちていった。




