59.当てにしてたんだけど?
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カチコチと時計の音が流れている。アリシアが時間を確認すると、ちょうど五時になっていた。とりあえずは終業の時間である。
今日もよく働いたが、アリシアにはまだ仕事が残っていた。しかしルティーに残業などさせるわけにいかない。まだ彼女は十歳なのだから。
アリシアは席を立ち、机に向かって真面目に勉強しているルティーを見た。
「ご苦労様、ルティー。宿舎まで送るわ」
「はい、ありがとうございます」
ルティーは素早く机の上を片付け、嬉しそうに微笑んだ。
あの日から、アリシアは毎日ルティーを宿舎まで送っている。すぐに戻って仕事ということも多かったが、アリシアも定時で終われた時には一緒に食事をとることもあった。
この日はまだ仕事が残っているので、ルティーを送った後は、また戻るのである。こうやってルティーを送ることで気分転換にもなり、後の仕事がはかどるということで、ルーシエにも好評であった。
「うーんっ! 今日は一日中座り仕事でうんざりだわ。こうして外に出ないと窒息しちゃう」
「ふふっ。でもルーシエさんはアリシア様が順調に仕事をこなされているので、ホッとしてましたよ」
「あらルティー。私とルーシエ、どっちの味方?」
「もちろん、アリシア様に決まってます」
顔を見合わせてにっこり微笑み合う。そうしているとすぐに宿舎の前に着いた。
「じゃあ私は仕事に戻るわね」
「はい、頑張ってください」
「ちょっとドーナツでも買ってから戻ろうかしら」
「……あ、アリシア様!」
踵を返した途端に呼び止められたアリシアは、その場に立ち止まり、首だけで振り向く。
「今日でちょうど二ヶ月ですね」
一瞬なんのことかわからず、「え?」と思わず聞き返してしまう。するとルティーは目だけでアリシアを見上げた。
「今日のジャンさんは、ちょっとそわそわしていました。今頃、執務室で待っているのではないでしょうか」
「そ……そうね」
忘れていたわけでは、断じてない。けれど、まだアリシアはアンナにジャンのことを言い出せずにいる。
グレイが死んで、まだ半年足らず。このまま一年、二年と待っていても、アンナに新しい恋人でも出来ない限り、言い出しにくいのは変わりないだろう。
ルティーにまで心配させているということは、当のジャンはどれだけ不安に駆られているだろうか。
そんなことを考えながら執務室に戻ると、そこにはルティーの言った通り、ジャンの姿があった。特にそわそわしているようには見えないが、なんらかの反応を期待しているのは確かのはずだ。
「おかえり、筆頭」
「え、ええ……ジャンは仕事終わったの?」
「今日の分はもう終わらせた」
やはり、アリシアの言葉を待っている。まだアンナに伝えていないとは言いにくいが、嘘をついても仕方がない。
「アリシア様、各将に書類を配布して参ります。十分ほどで戻りますので」
伝えるのを躊躇していると、ルーシエがそう言って部屋を出ていってくれた。つまり今のうちに話をしておけということだろう。
パタンと扉の閉まる音がすると、ジャンはいつも以上に妖しげな視線を向けてくる。アリシアは罪悪感から少し目を逸らした。
「筆頭……言ってないね」
「っう! どうしてそれをっ」
「わかりやす過ぎるよ。もうちょっと期待持たせてくれてもいいんじゃない」
「……ごめんなさい」
「まぁ、言い出しにくいのはわかるけど」
ジャンはハァッと息を吐いている。また落胆させてしまっただろう。
「今日言うわ」
「え?」
アリシアは、それ以上ジャンの顔が暗くなる前に言い放った。
「今日アンナに、付き合いたい人がいることを伝えるわ。だからあなたへの返事は、明日でもいいかしら?」
「明日?」
ジャンは予想外だとでも言うように復唱した。またしばらく待たされることを覚悟していたのかもしれない。
「ええ。明日、必ず。アンナの反応を見てどうするか決めるわ」
「それってアンナが難色を示したら、俺とは付き合えないってことだよね……」
「まぁそういうことね」
「あっさり言うよ、筆頭は……」
別にあっさり言っているつもりはないのだが、もしもアンナの傷を抉るようなことになるのであれば仕方がない。もう少し時間を置くことになってしまうだろう。
「ごめんなさいね、ジャン」
「謝るのはそうなってからでいいよ。まだ希望は捨ててないから。それよりも、アンナの今日の予定は? 最近アンナも忙しそうにしてるけど」
確かに、ここ最近のアンナの仕事っぷりは目覚ましいものがある。仕事中は雷神と同じ口調で話をするようになったせいか、オンとオフの使い分けが今まで以上にキッチリとしてきた。それに伴い、屈強な男たちを束ねるのに相応しい貫禄が出てきている。
「どうかしら。毎日遅くまで張り切ってるものね。後で適当なところで切り上げるよう言ってくるわ」
「筆頭の地位を狙ってるんじゃない」
「いい傾向よ。狙ってくれなきゃ、張り合いないわ。最近は野心を持たない若者が多過ぎるもの」
自分が野心を剥き出しにし過ぎていたのかもしれないが。それでも、アンナが上を目指すことで闘争心を燃やす者はいるだろう。例えば、野性味溢れるカールや、いつも沈着冷静無表情のトラヴァスなんかが。
「誰が私の地位を奪っていくのかしら。楽しみね」
「それ、本気で言ってる?」
「もちろん、まだ誰にも譲るつもりはないわよ。デゴラ以外はみんなヒヨッ子だもの。年寄りやヒヨッ子どもに席を明け渡す気なんて毛頭ないわ」
「だろうね……」
「でもね」
アリシアの発した逆接の表現に、ジャンは不思議そうに顔を上げた。
「後進が伸びてきた時には、いつまでもこの地位にしがみつくつもりはないの。その時には、すっぱり騎士を辞めるわ」
「……行動が極端なんだよ。なにも騎士を辞める必要ないと思うけど。辞めてどうするつもり。まさか、皿洗いのバイトとか言わないよね」
「あら。夫の帰りを待つ専業主婦っていうのもいいかと、当てにしてたんだけど?」
一瞬の間をおいて、ジャンの瞳が大きく開かれた。そしていつもの瞳に戻ると、その口元には少しの笑みがもたらされている。
「いいね、それ。今すぐアンナに筆頭職を譲りなよ」
「まったく、変わり身が早いわねぇ」
「筆頭に言われたくないから」
そういうジャンの顔は嬉しそうで、アリシアも笑った。
専業主婦になった自分の姿は想像はまったくできないが、誰かの帰りを待つ生活も悪くなさそうだ。働きたくなれば、またその時に考えればいい。
「……どこか部屋、探しておこうか」
ひとしきり笑った後で、ジャンが静かにそう言った。『部屋』とは『家』のことで相違ないだろう。まだいつになるかはわからない。が、いつかは一緒になることは確定しているのだから、探すことに問題はない。
「ええ……お願い」
「うん、わかった」
その力強い頷きが嬉しくて、ジャンを抱きしめてキスでもしてしまいたい気分だ。うずうずとジャンの顔を見つめると、彼はフッと吹き出した。
「え、なに!?」
「筆頭、わかりやす過ぎ」
そういうと、ジャンはおもむろにアリシアに近づく。そしてジャンはそっと右手を差し出し、アリシアの左頬に触れた。
たったそれだけで、アリシアの鼓動は少女の様に高鳴る。
「ジャン……?」
「キス、したいんだろ」
「どうしてわかるの!?」
その反応に、ジャンは思わずと言った感じで歯を見せて笑った。
「筆頭って、犬みたいだよね。尻尾つけたら振り回してそうだ」
「なに? どういう意味?」
「かわいいってこと」
言うと同時にグングンとジャンの顔が近づいてきた。
アリシアはそっと目を閉じ、そんなジャンの唇を……
「あっれ、ルーシエそんなトコでなにしてんだ? 入ろうぜ」
「あ、ちょ、フラッシュ! 今は……」
「ひっとーう! 書類できました! 入りますっ」
ジャンの唇を受け入れる前に、執務室の扉が開いた。そこには書類をペラペラさせているフラッシュと、その後ろで胃を押さえながら申し訳なさそうに立っているルーシエの姿。
「あれ、ジャン。なにやってんだ?」
「別に」
急接近していたジャンは、アリシアから一歩離れた。とてもとても不機嫌そうに。
「これ言われてた書類です。って筆頭、なんで怖い顔してるんすか?」
「誰のせいかしらね」
「え、俺?」
「わかってるじゃないの」
フラッシュは自分の顔を指差しながら、キョロキョロとジャンの顔とルーシエの顔を見比べるように確認した。ジャンは不機嫌顔で、ルーシエは睨むようにフラッシュを見ている。
「なんで俺? え? え? ……俺なんかした?」
「書類はオーケーよ。早く行ってちょうだい。ッシッシ」
「筆頭、最近俺に冷たくないっすかぁ??」
「気のせいですよ、さっさと出てって下さい」
「ひっとーう! ひっとーう!」
フラッシュは悲しい声を上げながら、ルーシエに押し出されるように執務室を後にした。
さすがにかわいそうだっただろうか。職場でラブシーンを演じようとしていたこちらが悪かったというのに。またフラッシュを飲みに連れて行かねばなるまい。
パタンと扉を閉めると、ルーシエは振り返った。
「申し訳ありません、お騒がせを。私も今日の用事は済ませましたので、これで失礼いたします」
「そう、ご苦労様」
「アリシア様。アンナ様は本日、七時には終わるとのことです。たまには夕食を一緒に取りたいとおっしゃっていましたよ。では……」
「ルーシエ、ちょっと待て」
出ようとするルーシエを、ジャンは止めた。ルーシエはひとつ息を吐き、ゆっくりと振り返る。
「なんでしょう」
「仕事溜まってるんだろ。気を使わなくていいよ、俺が帰る」
「すみません……」
「謝るのは俺の方だから。フラッシュにも話してくる」
「驕らされますよ」
「飲み放題で安い店を知ってるし、大丈夫」
そういうとジャンはフラッシュに追いつくため走っていってしまった。
「彼は飲むだけじゃないんですけどねぇ……」
執務室で呟かれたルーシエの言葉は、アリシアにしか聞こえなかっただろう。散財しているジャンを想像し、アリシアはクスリと笑った。
そして「よしっ」と気合いを入れる。
「さて、七時までに仕事を終わらせるわよーっ」
「かしこまりました」
アリシアとルーシエは机に向かうと、今までにない集中力で仕事を片付け始めたのだった。




