57.それは、とても悲しいことなのよ
抱き締められたルティーはどうしていいかわからない様子で、アリシアの腕の中で狼狽えている。
アリシアは彼女を抱きしめることで、その幼さを思い知った。
(小さな体だわ……)
アリシアの胸がギュッと痛む。きっとルティーは、この小さな体には収まりきらないほどのほどの荷物を抱え込んでしまっている。
そうさせたのは紛れもなく自分だという自覚が、アリシアにはあった。その荷物を取り払うことはできずとも、軽くしてやらなければならない。それが自分の役目であるとアリシアは理解した。
「ルティー」
アリシアは腕からルティーを解放し、その瞳を見つめる。
「あなたは優秀な付き人だわ。よく気が付いて、教えられたことはすぐに吸収して……」
「いえ、私などまだまだです」
「あのね、ルティー」
アリシアはルティーの柔らかな髪をそっと撫でた。ルティーはまっすぐにアリシアを見つめ返している。
「私に少しの負担もかけまいとしてくれる、その姿勢は嬉しいのよ。でもね……同時に悲しいの」
「……え?」
「少し、アンナのことを話しましょうか……」
アリシアは首を傾げているルティーに話し始めた。自身のよくできた娘のことを。
「アンナはね、親の私が言うのもなんだけれど、優秀な子だったの。勉強やスポーツができるだけじゃない。親の私に気を使うような子どもだったわ。私が忙しいのを理解してくれていたんでしょうけど、私はアンナに一度も『寂しい』とか『早く帰ってきて』なんて言葉を言われたことがないのよ」
なぜアンナは、それを言わなかったのか。決まっている。母であるアリシアの困った顔を見たくなかったからだ。だからアンナはどれだけ孤独でも、それを人に訴えることはしなかった。
当時のアリシアは上を目指して邁進していたし、そう言われても困ってしまっていただろう。筆頭大将となってからは、さらに時間が取れなくなってつらい思いをさせてしまっていたに違いない。
「さすがはアンナ様です」
「本当にそう思う? アンナはね、そうやって我慢に我慢を重ねてしまったことで……泣けない人間になってしまったのよ。これはもちろん、親である私の責任だわ」
「泣けない……?」
「ええ。長年泣いてはいけないと思っていたせいで、泣けないようになってしまっていたの。自分のためにも、大切な人のためにも涙を流せなくなっていた……それは、とても悲しいことなのよ」
アンナはグレイという存在のお陰で、悲しみや孤独といった感情を涙とともに流せるようになっていたが。アンナにグレイという存在がいたように、ルティーにも孤独を消し去る誰かが必要である。
「甘えさせてあげられなかった私が、こんなことを言えた立場ではないのはわかってるんだけど……私はアンナに我儘を言ってほしかったわ。どうして早く帰ってきてくれないのって泣いて訴えてくれれば、もしかしたら十回に一回くらいはどうにかできたかもしれない。私は聞き分けのいいアンナに甘えてたのね。子どもだったアンナは耐えていてくれたっていうのに……」
「アリシア様……」
そう思うのは、今現在、心に余裕ができたからだろう。当時の自分にできるかと言われれば、やはり無理かもしれない。だからこそ。四十を超えた今であるからこそ、わかることもできることもある。
「ルティー。我慢しなくていいの。あなたが甘えてくれたら、私は嬉しいのよ。私のためを思うなら、気を使わずにすべて話してほしいの。一体なにがあったのか……お願い」
アリシアが心から願うと、ルティーはほんの少し顔を歪ませた。そしてそのお願いを、お願いで返してくる。
「では、私からもお願いがあります」
「なにかしら」
「約束してください、なにもしないと。その約束をしてくださらないなら、私は口が裂けても言いません」
「なにもしない……? 家に帰すという対処をしてほしくないという意味?」
「はい、その通りです」
アリシアは眉を寄せた。なんのために聞き出すかと言えば、ルティーを家に戻させるためだ。親と離れて暮らすには、まだ早過ぎる。
「いいえ、私はあなたの生活を守りたいのよ。そのためにできることはなんだってしたいの」
「ならば私は言いません」
「ルティー……」
断固としたその態度に、アリシアはどうしたものかと首を捻らせる。
恐らく、宿舎に転居の手続きをしたのはルーシエだろう。ルーシエがその時、転居の理由を尋ねなかったはずはない。その理由を聞いたはずの彼が、特にアリシアに報告しなかったということ。それはやはりルティーが、王宮まで遠いという理由しか述べなかったためだと思われる。
ルーシエのことだ。他になにか理由があると考えて、様々な誘導尋問にかけたはずだ。しかしそれでもなにも聞き出せなかったということが、今の彼女の態度を見ればわかる。
アリシアはどうすべきかと再度考えて、腕を組んだ。そんなアリシアに、ジャンが目を向けてくる。
「筆頭、約束してあげれば」
「ジャン……」
「なにがあったか、知ることの方が先決だと思うけど」
確かに、このままでは平行線である。理由を聞き出し、どうにか対処をしたいアリシアと、理由を言うことを条件に、なにもしてほしくないというルティー。
このままなにも聞き出せず、対処もできないというのなら、確かに理由だけでも聞いておいた方がいい。約束を破りたくはないが、ルティーを説得できるようないい方法が思い浮かぶかもしれない。
「そうね……約束、するわ。だから教えてちょうだい」
アリシアがそう言うと、ルティーはクスリと笑った。「嘘が下手ですね」と。
心の中を見透かされたアリシアは、バツが悪くて肩を竦めた。
「申し訳ありませんが、言えません。アリシア様はなにかなさるおつもりのようですし」
「そんなつもりは……」
なかったとは言えず、アリシアは言葉を詰まらせる。
失敗した。これではもう、ルティーはなにも話してはくれないだろう。なにがあったかさえも、わからないままだ。
ルティーはこのまま、誰にもなにも言わず、一人で大きな荷物を抱えて生きていくのだろうか。それでいいのだろうか。このままでルティーは幸せな人生を歩めるのだろうか。
答えは、否だ。
誰かがルティーという人物を知り、助けねばならない。
誰にも頼らず甘えず、ただ耐えるだけの人生を歩ませてはならないのだ。絶対に。
「ルティー、お願いよ。一人で生きていると思わないで。私がいるわ。そりゃあ私は、あまり気の付かない人間だけど……それでもあなたがつらい思いをしているなら、力になりたいと思っているのよ」
「アリシア様……」
「私じゃ力不足かしら」
「いえ、そんなことは、決して!」
慌てて否定するルティーを見て、アリシアは目を細めた。愛らしく、愛おしい。娘アンナと同じような感情を、ルティーにも感じる。
「ルティーも色々と思うところがあるでしょう。水の書を習得して、軍に入ることになって……周りの環境がいきなり変わったものね。その心の戸惑いを、共有させてほしいの」
ルティーはつらそうに俯いてしまっている。ここまで言わせて断るのが申し訳ないとでも思っていそうだ。しかしアリシアは、理由を吐かせるためだけに言っているわけではない。ルティーを大切に思っている気持ちを、どうしても伝えたい。
「ルティーはなにを思い、なにを感じているのか知りたいの。だからもう一人で悩まないでちょうだい。私はあなたを守りたいのよ」
そう言うと、ルティーの顔が少し歪む。涙を耐えようとグッと握っている拳に、アリシアはそっと手を置いた。
「今まで気付かなくて、本当にごめんなさい。つらかったわね……ずっと一人で抱え込んで……」
「アリシア様……っ」
「いいのよ、もう。耐えなくていいの。頼っていいの。泣いて……いいの」
ルティーの目に端から、ころりと涙が溢れ出た。彼女はぐしっと手の甲でそれを拭き取り、込み上げる嗚咽を飲み込む。
「教えて……くれるわね? ルティー」
「……約束は……守ってくださいますよね……?」
これだけ言っても、ルティーは己の姿勢を変えようとはしなかった。これ以上の説得は不可能だと悟ったアリシアは、仕方なく首を前方へ下げることとなる。
「わかった、約束するわ。ルティーの気持ちをちゃんと尊重する。だから、教えてちょうだい」
アリシアがそう誓うと、ルティーはなにかに耐えるように唇を食いしばっていた。
そしてしばらくして、ようやくルティーはその重い唇を動かしたのだった。




