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あなたを忘れるべきかしら?  作者: 長岡更紗
第二章 アリシア編

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56.許してちょうだい

 アリシアは、なにも言わずに自身の部屋のドアノブを回した。ルティーはずっと俯いたままだったが、すでに涙は止まっている。扉を開けると、そこにはジャンの姿があった。


「遅かったね……なにかあった?」


 ジャンは下方に視線を移し、そしてまたアリシアに戻す。部屋の中は暖かくなっていて、アリシアはルティーの背中を押して中に促した。

 ジャンが紅茶を出してくれ、皆は席に着く。ルティーは俯いたまま、顔を上げようとはしない。


「ルティー。どういうことか、話してちょうだい。あの子の話は、本当?」


 ルティーはなにも言わずに唇を噛み締めている。ジャンにはなんのことかわからないだろうが、口を挟まず、ただ見守っていてくれていた。


「宿舎に移ったのは、王宮に来るのに一時間かかるからだと言っていたけれど? これは、嘘なのね」

「嘘じゃ、ありません……遠くて……本当に大変で……」

「そう。でも理由はそれだけじゃなかったってことでいいかしら」


 今度は否定も肯定もせずに口を噤んでいる。その苦しそうな態度が、家を出た理由を物語っていた。詳しい事情はわからないが、あのエリクという少年が言っていたのは事実なのだろう。

 アリシアのせいでルティーは一人になり。

 水の書を習得したせいで家に帰れなくなっている。

 この二つだけが、今わかっている真実である。


「ルティー、どうして家に帰れなくなったの? 水の魔法のせいだとはわかっているけれど、具体的になにがあったのか教えてほしいのよ。対処できるかもしれないわ」


 アリシアの言葉に、ルティーはブンブンと首を振った。意地でも言わない、という気持ちが伝わってくる。


「ルティー……」

「筆頭、ちょっと時間を置こう」


 さらに説得にかかろうとするアリシアを、ジャンは止めに入る。


「でも……」

「ルティー、ドーナツはどれ食べる」


 ルティーの買ってきたドーナツを開けて、ジャンは彼女の前に置く。彼女はようやく顔を上げ、少し迷ってからシナモンドーナツを手に取った。

 次にジャンはアリシアにドーナツを取るように促し、アリシアはピンクのアイシングがかかったクルーラーを取る。


「で、話が進む前に、ざっくり説明してくれれば嬉しいんだけど」


 ルティーがドーナツを一口かじる。そして紅茶を飲む姿を確認してから、アリシアはジャンにさっきあった出来事を話し始めた。

 話が進むに連れて、ルティーのドーナツに口をつける頻度が少なくなっていく。すべてを話し終えた時には、半分食べられたドーナツを握ったまま、ルティーは固まってしまっていた。

 少しの沈黙の後で、ジャンは口を開く。


「そんなことがあったのか……」


 ジャンは優しい目をルティーに向ける。そしてその唇から紡がれた言葉は、アリシアの理解を越えるものだった。


「よかったよね。そんな友達がいてくれて」

「……え?」


 ルティーは訝しげに、そしてアリシアもまた同じ顔でジャンを見る。今の話を聞いて、どうしてそういう言葉が出てくるのか、理解不能だ。


「いえ、エリクは友達なんかじゃ……」

「ルティーのことを心配してるから、そういう言葉が出てきたんだろ。察してあげたら」

「違います! エリクは私に嫌がらせをするためにあんなことを……」

「だったら学校に戻ってこいなんて言わないと思うけど。ルティーがいなくなって寂しいんだ、きっと」


 ルティーはふるふると首を振り続ける。微かに震えるその手を見て、アリシアは先ほどから感じていた疑念を確信に変えた。


「あの子のせいね? ルティーが声の大きな人や、身振りの大きい人が苦手になったのは」


 今度はピクリと身を動かし、ルティーは素直に頷く。それを見てアリシアは「やっぱり」と呟いた。

 ルティーはアリシアから見るともちろん小さいが、同級生から見ても体は小さな方だろう。控えめな性格ということもあり、乱暴な男子からは恰好の標的にされているのかもしれない。


「安心して、ルティー! もうこんなことをしないように、今度ガツンと言ってきてあげるわ!」

「やめときなよ、筆頭……」


 あきれるように止めてきたのはジャンだった。アリシアはムッとしてジャンに視線を移す。


「どうして?」

「そのエリクって子、ルティーの気を引きたくてやったことだと思うけど」

「……どうして?」

「言わなきゃわかんないかな……」


 アリシアはしばらく考えた後、やはり理解できずに聞いた。


「教えて、どういうこと?」

「ルティーを好きなんだよ」

「ジャンが?」

「だからなんで筆頭はズレるんだよ……まぁいいけどね。ルティーは気付いてるみたいだし」


 そう言われてルティーを見ると、彼女は困ったように眉を下げていた。

 エリクがルティーを好きだったということだろうか。好きならばなぜ苛めたりするのだろうか。


「にしてもやり過ぎだから、注意は必要だけどね。筆頭はやりすぎるから、俺から言っておくよ。そんなことをしても嫌われるだけだってね。だからもう、心配しなくていい」


 ジャンの言葉に、ルティーはほっと息を吐いている。


「エリクはただの子どもで、ただのやんちゃ坊主だ。恐れる必要はない。そうだろ」

「そう……ですね……」


 え? とアリシアはルティーとジャンの顔を交互に見る。そんな風にいうジャンも理解できないが、そんな言葉で説得されてしまうルティーもアリシアには理解できない。


「フラッシュやカールも同じだよ。デカイやんちゃ坊主だ。ついでに医師のゾルダンも、おっさんだけどやんちゃ坊主なだけだ。もう怖くないだろ」


 ジャンの物言いに、ルティーはクスリと笑ってハイと答える。これでもう解決だろうか。アリシアが危惧していたことは、もう存在しなくなったのだろうか。喜ばしい話であるには違いないのだが。


「すごい顔だな、筆頭……腑に落ちない?」


 ジャンにそう言われて、眉間に皺を寄せながらも首は横に振った。


「いいえ。ルティーが納得して、トラウマを克服できるのならなにも文句はないわ」

「まぁアリシア筆頭にはわかりにくい話ではあっただろうね」


 つまり恋話ということだろうか。四十四歳のアリシアより、十歳のルティーの方が理解しているという事実に、アリシアは自分で苦笑いした。


「わからないものは仕方ないわ。ルティーの中で解決しているなら、それでいいのよ」

「はい、ありがとうございます。アリシア様」

「私はなにもしてないわ。だから、もう一つの方は私に解決させてほしいの」


 そう言うと、ルティーの顔がサァッと青ざめる。しかしアリシアは、次の言葉を臆さずに言った。


「家を出て宿舎に移った理由を聞かせてちょうだい。ルティーが家に戻れるよう、最善の努力をするわ」


 言葉を言い終えると同時に、なぜかルティーは口元だけで微笑む。それがゾクリとするほど、大人っぽい。


「申し訳ございません、アリシア様。それだけはご勘弁ください」

「どうして? 私には知る権利が……いいえ、義務があるわ。ルティーは未成年者で、現在私の保護下にあるのよ。そんなあなたが私のせいで家を出る羽目になったと言うなら、私はそれを知らなければいけないわ」

「なんとおっしゃられても、言うつもりはありません。これは私の不徳のいたすところでありまして、アリシア様にはなんの関係もございませんもの」


 不徳のいたすところとは、また子どもらしからぬ言葉を出してきた。これは元から知っていた言葉なのだろうか。それとも付き人としての勉強をしてきた結果なのだろうか。アリシアには、それさえもわからない。


「ごめんなさいね、ルティー……」


 アリシアは、謝罪した。ルティーをずっと見ているつもりで、なんの理解もしていなかったことに。教育はルーシエに任せきりで、ゆっくりと時間を取って話すこともしてこなかった。

 結果、ルティーはこの王宮で頼れる人は皆無だっただろう。いつも忙しくしている者ばかりで、なにかあっても相談できずにいたに違いない。頼られるべきは自分であったはずなのに、そうしてもらえない自分に不甲斐なさを感じた。


「アリシア様がお謝りになることはなにも……!」

「いいえ、私のせいだわ。ルティーを精神的に一人にしてしまっていたこと……許してちょうだい」

「そんな……おやめくださいませ! アリシア様!!」


 ルティーは食べかけのドーナツを置くと、慌てて両手を左右に振る。アリシアはそんなルティーに近づくと、優しく包むように抱き締めた。

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