56.許してちょうだい
アリシアは、なにも言わずに自身の部屋のドアノブを回した。ルティーはずっと俯いたままだったが、すでに涙は止まっている。扉を開けると、そこにはジャンの姿があった。
「遅かったね……なにかあった?」
ジャンは下方に視線を移し、そしてまたアリシアに戻す。部屋の中は暖かくなっていて、アリシアはルティーの背中を押して中に促した。
ジャンが紅茶を出してくれ、皆は席に着く。ルティーは俯いたまま、顔を上げようとはしない。
「ルティー。どういうことか、話してちょうだい。あの子の話は、本当?」
ルティーはなにも言わずに唇を噛み締めている。ジャンにはなんのことかわからないだろうが、口を挟まず、ただ見守っていてくれていた。
「宿舎に移ったのは、王宮に来るのに一時間かかるからだと言っていたけれど? これは、嘘なのね」
「嘘じゃ、ありません……遠くて……本当に大変で……」
「そう。でも理由はそれだけじゃなかったってことでいいかしら」
今度は否定も肯定もせずに口を噤んでいる。その苦しそうな態度が、家を出た理由を物語っていた。詳しい事情はわからないが、あのエリクという少年が言っていたのは事実なのだろう。
アリシアのせいでルティーは一人になり。
水の書を習得したせいで家に帰れなくなっている。
この二つだけが、今わかっている真実である。
「ルティー、どうして家に帰れなくなったの? 水の魔法のせいだとはわかっているけれど、具体的になにがあったのか教えてほしいのよ。対処できるかもしれないわ」
アリシアの言葉に、ルティーはブンブンと首を振った。意地でも言わない、という気持ちが伝わってくる。
「ルティー……」
「筆頭、ちょっと時間を置こう」
さらに説得にかかろうとするアリシアを、ジャンは止めに入る。
「でも……」
「ルティー、ドーナツはどれ食べる」
ルティーの買ってきたドーナツを開けて、ジャンは彼女の前に置く。彼女はようやく顔を上げ、少し迷ってからシナモンドーナツを手に取った。
次にジャンはアリシアにドーナツを取るように促し、アリシアはピンクのアイシングがかかったクルーラーを取る。
「で、話が進む前に、ざっくり説明してくれれば嬉しいんだけど」
ルティーがドーナツを一口かじる。そして紅茶を飲む姿を確認してから、アリシアはジャンにさっきあった出来事を話し始めた。
話が進むに連れて、ルティーのドーナツに口をつける頻度が少なくなっていく。すべてを話し終えた時には、半分食べられたドーナツを握ったまま、ルティーは固まってしまっていた。
少しの沈黙の後で、ジャンは口を開く。
「そんなことがあったのか……」
ジャンは優しい目をルティーに向ける。そしてその唇から紡がれた言葉は、アリシアの理解を越えるものだった。
「よかったよね。そんな友達がいてくれて」
「……え?」
ルティーは訝しげに、そしてアリシアもまた同じ顔でジャンを見る。今の話を聞いて、どうしてそういう言葉が出てくるのか、理解不能だ。
「いえ、エリクは友達なんかじゃ……」
「ルティーのことを心配してるから、そういう言葉が出てきたんだろ。察してあげたら」
「違います! エリクは私に嫌がらせをするためにあんなことを……」
「だったら学校に戻ってこいなんて言わないと思うけど。ルティーがいなくなって寂しいんだ、きっと」
ルティーはふるふると首を振り続ける。微かに震えるその手を見て、アリシアは先ほどから感じていた疑念を確信に変えた。
「あの子のせいね? ルティーが声の大きな人や、身振りの大きい人が苦手になったのは」
今度はピクリと身を動かし、ルティーは素直に頷く。それを見てアリシアは「やっぱり」と呟いた。
ルティーはアリシアから見るともちろん小さいが、同級生から見ても体は小さな方だろう。控えめな性格ということもあり、乱暴な男子からは恰好の標的にされているのかもしれない。
「安心して、ルティー! もうこんなことをしないように、今度ガツンと言ってきてあげるわ!」
「やめときなよ、筆頭……」
あきれるように止めてきたのはジャンだった。アリシアはムッとしてジャンに視線を移す。
「どうして?」
「そのエリクって子、ルティーの気を引きたくてやったことだと思うけど」
「……どうして?」
「言わなきゃわかんないかな……」
アリシアはしばらく考えた後、やはり理解できずに聞いた。
「教えて、どういうこと?」
「ルティーを好きなんだよ」
「ジャンが?」
「だからなんで筆頭はズレるんだよ……まぁいいけどね。ルティーは気付いてるみたいだし」
そう言われてルティーを見ると、彼女は困ったように眉を下げていた。
エリクがルティーを好きだったということだろうか。好きならばなぜ苛めたりするのだろうか。
「にしてもやり過ぎだから、注意は必要だけどね。筆頭はやりすぎるから、俺から言っておくよ。そんなことをしても嫌われるだけだってね。だからもう、心配しなくていい」
ジャンの言葉に、ルティーはほっと息を吐いている。
「エリクはただの子どもで、ただのやんちゃ坊主だ。恐れる必要はない。そうだろ」
「そう……ですね……」
え? とアリシアはルティーとジャンの顔を交互に見る。そんな風にいうジャンも理解できないが、そんな言葉で説得されてしまうルティーもアリシアには理解できない。
「フラッシュやカールも同じだよ。デカイやんちゃ坊主だ。ついでに医師のゾルダンも、おっさんだけどやんちゃ坊主なだけだ。もう怖くないだろ」
ジャンの物言いに、ルティーはクスリと笑ってハイと答える。これでもう解決だろうか。アリシアが危惧していたことは、もう存在しなくなったのだろうか。喜ばしい話であるには違いないのだが。
「すごい顔だな、筆頭……腑に落ちない?」
ジャンにそう言われて、眉間に皺を寄せながらも首は横に振った。
「いいえ。ルティーが納得して、トラウマを克服できるのならなにも文句はないわ」
「まぁアリシア筆頭にはわかりにくい話ではあっただろうね」
つまり恋話ということだろうか。四十四歳のアリシアより、十歳のルティーの方が理解しているという事実に、アリシアは自分で苦笑いした。
「わからないものは仕方ないわ。ルティーの中で解決しているなら、それでいいのよ」
「はい、ありがとうございます。アリシア様」
「私はなにもしてないわ。だから、もう一つの方は私に解決させてほしいの」
そう言うと、ルティーの顔がサァッと青ざめる。しかしアリシアは、次の言葉を臆さずに言った。
「家を出て宿舎に移った理由を聞かせてちょうだい。ルティーが家に戻れるよう、最善の努力をするわ」
言葉を言い終えると同時に、なぜかルティーは口元だけで微笑む。それがゾクリとするほど、大人っぽい。
「申し訳ございません、アリシア様。それだけはご勘弁ください」
「どうして? 私には知る権利が……いいえ、義務があるわ。ルティーは未成年者で、現在私の保護下にあるのよ。そんなあなたが私のせいで家を出る羽目になったと言うなら、私はそれを知らなければいけないわ」
「なんとおっしゃられても、言うつもりはありません。これは私の不徳のいたすところでありまして、アリシア様にはなんの関係もございませんもの」
不徳のいたすところとは、また子どもらしからぬ言葉を出してきた。これは元から知っていた言葉なのだろうか。それとも付き人としての勉強をしてきた結果なのだろうか。アリシアには、それさえもわからない。
「ごめんなさいね、ルティー……」
アリシアは、謝罪した。ルティーをずっと見ているつもりで、なんの理解もしていなかったことに。教育はルーシエに任せきりで、ゆっくりと時間を取って話すこともしてこなかった。
結果、ルティーはこの王宮で頼れる人は皆無だっただろう。いつも忙しくしている者ばかりで、なにかあっても相談できずにいたに違いない。頼られるべきは自分であったはずなのに、そうしてもらえない自分に不甲斐なさを感じた。
「アリシア様がお謝りになることはなにも……!」
「いいえ、私のせいだわ。ルティーを精神的に一人にしてしまっていたこと……許してちょうだい」
「そんな……おやめくださいませ! アリシア様!!」
ルティーは食べかけのドーナツを置くと、慌てて両手を左右に振る。アリシアはそんなルティーに近づくと、優しく包むように抱き締めた。




