52.そんな理由で選べないわ
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翌朝、執務室の扉を開けると、そこにはいつものようにルーシエとルティーがいた。二人はアリシアの顔を見て、一瞬だけ大きく目を張っていた。
「おはよう。ルーシエ、ルティー」
「おはようございます。寒くて眠れませんでしたか? 少しこちらにかけてお休み下さい」
「アリシア様、私の魔法で……!」
「いいのよ、ルティー。もったいないわ」
「では、冷たいタオルを用意して参ります!」
ルティーがパタパタと出ていき、アリシアはソファに腰をかけて頭を沈めるように上を向いた。
すぐに戻ってきたルティーが、アリシアの目の上に濡らしたタオルを置いてくれる。
「あー、冷たくて気持ちいいわ。ありがとう、ルティー」
「いえ、あの、アリシア様、どうかなさっ……」
「ルティー」
ルティーの言葉は、ルーシエによって遮られる。なにも聞かぬことが側近や付き人の役割だと言わんばかりに。
しかし気になってしまうのは人のさがだろう。こんなにも泣き腫らした目をしていれば。
アリシアは、目にタオルを置いたまま話し始めた。
「びっくりさせちゃったわね。ルティー、不惑の年ってわかるかしら?」
「ふわく……? いいえ」
「ルーシエ、教えてあげて」
「東方の国の言葉ですね。四十にして惑わず、という言葉から、不惑というのは四十歳のことです」
ルーシエに的確に答えてもらい、アリシアはフフッと笑った。
「私はもうすぐ四十五になるのよ。不惑の年を迎えて五年……未だ惑ってばかりいるわ」
「アリシア様でもそんなことがあるんですね」
「そうね。私も自分でびっくりしてるのよ」
元々即決できることではないと思っているが、それでもこんなに惑うとは予想外だった。あれだけ一晩中泣いて、それでもまだ答えの出せない自分にあきれてしまう。
「ごめんなさいね。こんな情けない上司で」
「そんなことは……!」
「決めきれないということは、同等という意味ですよ」
「そうね。不道徳な話だわ……」
アリシアが呟くように言うと、「えーと……?」とルティーの不思議そうな声が聞こえてくる。
「不道徳? どこがでしょうか。目の前には一人しかいないというのに」
ルーシエの言葉に棘はない。しかし純粋に疑問に思っている言葉でもない。なにかを諭すようなその口振りに、アリシアは先を促した。
「続けて」
「具体的に名前を出しても?」
「いいわ」
目の上にあったタオルが、取り替えられた。恐らく、ルティーの手によって。アリシアは目を閉じたまま、ルーシエの言葉を聞く。
「まずアリシア様に伺いたいのですが、ロクロウさんへの気持ちが百として、ジャンへの気持ちはいくつですか?」
「百だわ」
アリシアはよどみなく答えた。ルーシエはその答えに首肯したのだろう。「ジャンさん?」という疑問を持ったルティーの言葉の後に、ルーシエは続けた。
「それでいいんですよ。アリシア様が頭を悩ませてしまっているのは、パーセンテージで考えているからです。ロクロウさんに五十パーセント、ジャンに五十パーセント。アリシア様はどちらかを百パーセントに、そしてどちらかを零パーセントにしないといけないと思ってしまっている……違いますか?」
まさにアリシアの考えを言い当てられ、素直に肯定せざるを得ない。
「その通りよ。だって、そうでしょう?」
「そうですね。どちらかを百パーセントに。そういう考えが悪い訳ではありません。むしろそれが理想でしょう」
「だったら」
「しかし、人の気持ちはそんな簡単なものではないと、私は思います」
ルーシエの柔らかな受け答えに、彼はいつものように微笑んでいるのだわかる。しかし言わんとしていることが、今一掴めない。
「つまり?」
「つまり同じ百なら、選ぶ理由など単純で構わないと思いますよ。今、アリシア様の近くにいるのはどちらですか?」
「それは、ジャンだけど……そんな理由で選べないわ。ジャンに失礼じゃない」
同じくらい好きなら、手に入れやすい方。そんな考えは、相手を侮辱しているように感じる。とてもじゃないが、ルーシエの考えに賛同できそうにはない。
「では、アンナ様に新しく好きな人ができたと仮定しましょう。もしアンナ様が、亡きグレイ様以上には好きになれないと嘆いていたらどうなさいますか? 新しく好きになった人を諦めて、グレイ様だけを思って生きろと言いますか?」
アリシアはしばし黙った。ロクロウは生きているに違いないし、それをグレイにすり替えて例え話をするなど言語道断だ。しかしルーシエは、そんなことは承知の上で話しているだろう。アリシアになにかを気付かせるために。アリシアはそのなにかを知るべく、ルーシエの問いを真剣に考えた。
「グレイには申し訳ないけれど、きっと新しく好きになった人を勧めると思うわ。グレイを失って悲しみにくれるアンナが、もう一度恋をすることがあるなら……それはとても素敵なことだもの」
「そうですね。ではアリシア様は、グレイ様のことは忘れて新しい恋を大切にしろとおっしゃるわけですね」
アリシアは上を向いたまま、小刻みに首を横に振った。
「忘れる必要なんてないわ。あんなに愛した人を忘れさせるなんて残酷過ぎる。胸の内にグレイがいてもいいじゃない。新しい恋の相手を、愛しているのなら」
「ええ、私もそう思います。簡単に答えが出せましたね、アリシア様」
「……え?」
クスリとルーシエの笑う声が聞こえ、アリシアは目を開けた。目の前にはタオルがあって、ほのかな明るさが見える程度だ。
「ロクロウさんを無理に忘れる必要など、ないということですよ。百のままでいいんです。変化すべきは、ジャンの方の数値なんですから」
ロクロウのことを無理に忘れる必要はない。百のままで構わない。
そう諭されたアリシアは、目から鱗が落ちる思いで目の前のタオルを見つめる。
なんだ、このままでよかったのかと、驚くくらいに胸に落ちた。
なにも言わぬアリシアに、ルーシエは続ける。
「もしかしたらアリシア様のジャンへの想いが、百五十にも二百にもなるかもしれない。逆に下がってしまうかもしれない。でもそうなったら別れれば済む話であって、難しいことはなにもないんです。ただ前向きに付き合ってみることが大切だと、私はそう思います」
その通りだ、とアリシアは思った。
昨夜一晩中泣いて考えていたことが、一瞬で解決してしまった。なにも難しいことはない。付き合ってみて、ジャンの数値が雷神より下がれば別れればいいし、上がれば結婚すればいい。
今まで一体なにを悩んでいたのかと思うほど、あっさりと答えが出てしまった。
「そうね、ルーシエの言う通りだわ。私は前向きにジャンと付き合ってみるべきね」
「ええ。……よかったですね、ジャン」
ジャンという言葉に、アリシアは大きく反応する。ガバリと頭を上げると、タオルが重力に沿って目の上からハラリと落ちた。
アリシアの目の前にはルティー。奥の机の前にルーシエ。そして扉の前に立っていたのは。
「ジャン!! いつからそこに……?!」
「ルティーがタオルを変えた後ですよ。彼女がジャンの名前を呼んでいたでしょう?」
ルーシエは嬉しそうに柔らかな空気を纏って答えてくれた。
ジャンの気配を感じなかったということは、ルティーが開けっ放していた扉から、そうっと入っていたに違いない。きっとジャンが中に入る前に、ルーシエがハンドシグナルを送ったのだ。気配を消して入れ、と。ルティーだけはその意図が読めず、ジャンの名前を言ってしまったようだが。
(してやられたわ)
どうやら柔和な笑顔を見せるルーシエの手の上で、踊らされていたらしい。ジャンを見ると、彼も予想していなかった展開にどうしていいかわからないようだ。
なんと言おうかと考えていると、ジャンの方から話しかけてくれた。
「ねぇ。今の言葉、本気?」
前向きにジャンと付き合ってみる。もちろん、これは心からの言葉。
「ええ。私はあなたと付き合うことに決めたわ」
「アリシア筆っ……」
「でも付き合わないけど」
「変わり身早いよ、筆頭ッ!」
さすがのジャンも、これにはズッコケそうな勢いで頭をガクッと垂れ下げている。それを見て思わず笑うと、ジャンは恨めしそうにゆっくりと顔を上げた。
「理由は。もちろん聞く権利はあるよね」
顔を上げると同時に髪を掻き上げる。その顔は少し不機嫌で、口を尖らせている姿がかわいらしい。
当然、付き合わないと言ったのには理由があり、それを隠すつもりもない。
「ごめんなさい。付き合わないと言ったのは、やっぱりアンナのことがあるからなの」
「婚約者が亡くなって、まだ数ヶ月しか経っていないから?」
「あのね、ジャン……私はあなたと付き合うなら、堂々と付き合いたいの。ジャンと付き合い始めたってことを、アンナにちゃんと宣言したいのよ」
「まぁ筆頭はそうだろうね」
だったらアンナに宣言すれば、とはジャンは言わなかった。すでに意図を組み、次の言葉を予想しているためだろう。
「そして私はまだアンナに言うつもりはないの。アンナに言えば、喜んでくれるには違いないわ。それでも、私がアンナの前で素直に喜べないのよ。だから、もう少し時間をちょうだい」
アンナに気を使いながら付き合うのは、アリシア自身窮屈な思いをするし、ジャンにも気を使わせるだろう。だからといって娘になんの考慮もなしに浮かれるのは、なにか違う。
アンナの傷が完璧に癒されるなどないことかもしれないが、アリシア自身がジャンと無理なく付き合えるようになるまで、今しばらく時間がほしい。
「もう少しって、そんな何ヶ月も先じゃないんだろ」
「ええ。でもせめて後一ヶ月……二ヶ月待って。アンナにあなたと付き合うつもりだって、ちゃんと言うわ」
アリシアが真摯に答えると、ジャンはようやく微笑みを見せて頷いてくれる。
「後二ヶ月か。楽しみにしてるよ」
そのやり取りを聞いていたルティーは、キラキラと目を輝かせ、ルーシエは微笑みを浮かべながら書類を片付けていた。
アリシアとジャンは互いに顔を見合わせ、にっこりと微笑む。
ようやくジャンを笑顔にさせられたアリシアは、大きな満足感を得て、仕事に戻った。




