50.それは確かに感動しそうね
アリシアは今まで、誰かが結婚しそうな段階にあれば、早くするようにけしかけてきた人間である。しかし自分が今まさにそう言われてしまうと、激しく戸惑った。
ジャンからプロポーズを受けているわけではないし、とか、娘が婚約者を亡くしてまだ日が浅いし、など、言い訳ばかりが頭を掠める。
しかし詰まるところ、アリシアはまだ雷神を忘れられないでいるからだ。雷神を忘れる努力をしようと決めたはいいが、結局忘れることなどできぬまま現在に至っている。
なにも言えぬアリシアに、ジャンは優しく言った。
「まぁ……待つけどね。ちゃんとあなたの口から、俺を選ぶと言ってくれるまで」
「押しに行くんじゃなかったの?」
「筆頭自らが選んでくれる方がいいに決まってるよ」
アリシアの心がちゃんと決まってから結ばれる方が、ジャンにとっての不安の種がなくなるのかもしれない。ジャンの気持ちが理解できたアリシアは、大きく首肯した。
「ええ。ちゃんと答えを出すわ。その間、誰かに結婚を早くしなさいと勧めるのはやめようかしらね」
「別にいいんじゃない。背中を押してもらえないと結婚できない奴もいるだろうし」
そう言いながらジャンは歩を進め始めた。次のデートの場所に移動するつもりだろう。
「馬は置いてくの?」
「うん、ちょっと入り組んだところに入るから、置いて行こう」
アリシアはジャンに追いつくと、彼に寄り添うようにして歩いた。肩と腕が、時折触れ合う距離で。
ジャンは左側に立つアリシアを見て、嬉しそうに微笑む。
「筆頭、さっきのも嫉妬だよね」
否定しようもない問いに、アリシアは頷くしかなかった。
「ええ、もうどうしちゃったのかしら。ロクロウの時はこんなじゃなかったのに……」
シュゼットにしてもセリカにしても、ふんわりとした砂糖菓子のようなかわいらしい女性だった。ジャンが彼女らをそういう目で見ていないとわかっていても、どうしても気になってしまう。実際、似たような女性を相手にしてきているのかと思うと、やはり嫉妬心が湧いてくる。
特に先ほどのセリカとジャンのやり取りが、脳裏にこびりついて離れない。マックスがいない家で、ジャンは彼女といつもあんなやり取りをしているのだと思うと。
「マックスに頼まれたって言ってたけど、本当?」
唐突の問いに、ジャンは一瞬なんのことかわからなかったようだ。しかしすぐに、セリカの家に様子を見に行っている話だと気がついたらしい。
「本当だよ。セリカはドアノッカーじゃ聞こえないから、来客を知るには、中に入って呼び鈴を鳴らしてもらう必要がある。つまりいつでも鍵は開けっぱなし状態なんだ。耳の悪いセリカしかいなければ、強盗なんて入りたい放題だからね。だからマックスは俺に、暇な時はセリカの様子を見るよう言ってきたんだ。心配性なあいつらしいだろ」
「そういえばここは、一番犯罪の少ない地区だったわね」
「うん、セリカの耳のこともあって、場所はこだわってたな。家は小さめだけど、土地の値段はかなり張ったみたいだよ」
セリカのためを思って建てた家に、ジャンを入れて二人きりにしても、マックスはなにも思わないのだろうか。マックスはジャンを信用しているのか、セリカを信用しているのか、それとも両方か。
(マックスが二人を信じているのなら、私も信用しないわけにいかないわね)
結局そこに落ち着き、アリシアはくだらない嫉妬を封じ込めることに成功した。
「筆頭は、結婚したらどこに住みたい?」
そう聞かれ、結婚後を具体的に考えることにドキドキする。今住んでいる王宮の一室に一緒に住まうのはさすがにどうだろうか。アンナはグレイが死んだ後、家を出て同じように王宮に住んでいるが、これ幸いと元の家に戻るのも気がひける。なによりあそこは、雷神と一緒に暮らしていた家だ。ジャンを同じ家に住まわせるのも申し訳ない気分になる。
「うーん、思い浮かばないわね……ジャンはどうなの?」
「俺は宿舎じゃなきゃ、どこだっていいよ。あなたと一緒に住めるなら、小さなアパートだっていい」
「そうね。私もあなたとなら、どこに住んでも構わないわ」
心の底からそう言うと、ジャンが驚いたように目を見張っている。アリシアはそれを見て首を傾げた。
「どうしたの? ジャン」
そう問うと、ジャンは表情を落胆に変える。
「いや……プロポーズを受け入れてくれたのかと思った。その反応は、違うみたいだな」
「プロポーズ? そんなのしてくれていた?」
「何度もしてるつもりだけど。まぁちゃんとしたのは、俺を選んでくれた時にするよ」
ジャンの言葉に胸がギュッとなり、そして思わず顔が緩む。そのアリシアの顔を見たジャンは、嬉しそうに目を細めた。
「本当にわかりやすいよね、筆頭って」
そう言いながらジャンは、まるで幼子の頭を撫でるようにアリシアの頭に手を置いた。優しく頬へと降りてくる手の温かさに、アリシアの胸がギュンギュンと高鳴る。
「かわいいな。あなたは本当に。このまま抱き締めたくなる」
このまま抱き締められたなら。そう想像し、アリシアは熱い息を吐きそうになった。ジャンの腕に包まれたなら、とても気持ちがいいに違いない。
しかし時刻は昼下がりで、夫婦でも恋人でもない者と抱き合うわけにいかない。どこから誰に伝わるかわかったものではないのだ。特に娘であるアンナには、まだ知られたくない。
「で、どこに行くのかしら?」
「……ソレイユプロムナードから、一本奥に入った裏路地」
アリシアが仕方なく話題を逸らすと、ジャンはその手を戻して答えた。
「裏路地? なにがあったかしら」
ソレイユプロムナードはストレイアで一番の、歩行者専用大型散歩道だ。そこにはダンサーや大道芸人や占い師、絵描きや小物を売っている人もいて、ちょっとした観光名所にもなっている。その裏路地を行くということは、本道は誰かと散歩したことがあるのだろう。
「その裏路地に、ジャンは一人でよく行くの?」
「まぁたまに。本道で場所の取れなかった人や、駆け出しの大道芸人なんかがそこで練習してるんだよ。完成された物を見るより、面白かったりする。俺にはね」
ジャンは本道から横に逸れ、裏路地に入った。長く続く道に、人が踊ったり、玉乗りしたり、切り絵を披露したり、絵を描いたりしている。
アリシアがジャンについて行くと、彼は一組の大道芸人の前で立ち止まった。二人の大道芸人はジャグリングのクラブを回し始める。そして、互いのクラブを交換しようとしたその時。
「あっ」
受け渡しに失敗し、クラブがコロコロと足元に転がってきた。ジャンがそれを拾い、申し訳なさそうに近づいて来た大道芸人に渡す。
「すみません、どうも……」
「頑張れ」
ジャンは一言低い声でそう言い、笑みを漏らした。その大道芸人は男だったが、もしかしたら今の怪光線にやられてしまっているかもしれない。
大道芸人はもう一度ジャグリングを始めて、またクラブの交換をしようと時期を伺っている。
「なんだかハラハラするわね」
「だろ? ……あ、交換しそうだ」
大道芸人のクラブがヒュンと飛んだ。今度は受け取りミスもせず、スムーズにクリアだ。
「素晴らしいわ!!」
アリシアはそう言って拍手喝采を送った。隣にいるジャンも嬉しそうにパンパンと拍手している。大道芸人は恥ずかしそうにぺこりと一礼し、また練習を始めた。
「こうやって裏路地で練習を積んだ奴がさ、本道デビューする瞬間はいいよ。あんなに下手だった奴らがこんなにやれるようになったのかって、素直に感動する」
ジャンが本当に嬉しそうに語ってくれるので、アリシアもそれが移るかのように嬉しくなった。
「それは確かに感動しそうね。でもジャンに、こんな趣味があったなんて知らなかったわ」
「趣味というほどのものじゃないけどね」
そう言いながらジャンはそこを立ち去る。今度はダンスグループの練習を見たり、写生をしている人の絵を覗き込んだり、アクセサリー作りを見たりした。
ジャンは誰を見ても楽しそうにしていて、アリシアもまた微笑む。ジャンの新しい一面を見られた気がした。そしてそんなジャンの横顔を見るたび、アリシアの胸がキュンキュンと響く。胸の鼓動は勝手に高鳴り、腕を組みたい衝動をなんとか堪えた。
しかしそこからさらに奥に足を伸ばすと、ジャンの顔からいきなり笑みが消えてしまった。どうしたのかとジャンの視線の先を見ると、そこには小さなテントを張って、絵を描いている女性の姿がある。
「今日はあいつがいる日だったか……」
「あいつ? あら、あの人どこかで……」
地面には幾つかの絵が並べられ、残りの絵はテントの中に積み重ねられている。
ジャンは急に早足になり、その女性を無視するかのように通り過ぎようとしていた。が。
「ちょっとジャン! 結構なご挨拶だね!」
その女性に思いっきり呼び止められてしまう。ジャンは迷惑顔を女性に向けていた。ジャンが女性にこんな顔を向けるのは珍しい。
「今日は放っておいてくれ」
「って、え!? アリシア様じゃないか!!」
名を呼ばれ、アリシアはどこか見たことのあるその彼女の顔をジッと見つめる。名前は思い出せないが、確か『ロクロウ世代』の女の子だった。ロクロウがよく絵の具をプレゼントしていたことを思い出す。
「ええっと、院出身の子よね?」
「そうです! ミダです! お久しぶりです、アリシア様!」
「ええ、久しぶり」
アリシアは足元の絵を見て、ほうっと息を吐く。芸術には疎いが、素人目には素晴らしい絵に見える。
「ミダは画家なの?」
「はは、いつかは絵で食っていきたいですねぇ~。今はまだまだ、バイトで食いつないでるんですよ」
「そう……絵のことはよくわからないけれど、こんなに上手に描けてるのに、難しいのねぇ」
「あたしは写実主義だから、印象派主流の今の時代、ウケがよくないんだ。でもいつか、夢を叶えるつもりだよ。心が折れそうになる時もあるけど、この絵筆を見れば頑張れるんだ」
そう言って彼女は一本の絵筆を見せてくれた。柄は色んな色の絵の具がこびりついていて、元の色がもうわからない。筆の部分の毛も減っていて、使い物にはならないだろう。そんな物をまだ持っているということは、余程大切な物に違いない。
「この絵筆、ロクロウにもらったもんなんですよ。あたし、昔っから絵を描くのが好きだったけど、両親が死んで院に入れられた時に諦めてたんだ。でもロクロウがこの筆と絵の具をくれて、こう言ってくれた」
ミダはゆっくり息を吸い、まるで愛する者の名を口に出すかのように、大切に言葉を紡ぐ。
「有名な美術学校に行かなくたって、絵は描ける。そんなことを言い訳に、やりたい事を諦めるな。この絵の具がなくなっても、土と木の棒さえあれば、絵は描けるだろう……って」
ミダは見たことのない優しい顔になり、その言葉を発した。そしてその直後、楽しげに声を出して笑う。
「あっはは! 酷いだろ!? 土と木の棒だけで、思い通りの表現ができるわけないってのにな! でも、そう言ってくれたロクロウに救われたんだ。だから頑張ってこられたし、これからも一生絵を描いていこうって思えるよ」
雷神は、ミダにも人生の目標を与えたのだろう。キラキラと輝きながら雷神を褒められると、アリシアは自分のことのように嬉しくなる。
そんなアリシアに、ミダは「そうだ!」と言って絵の束を探った。
「ミダ、もういい」
「なんだよ、ジャン! あたし、誰よりもアリシア様に見てもらいたくて描いたんだから!」
ミダの手は忙しく動き、そして目的の絵を見つけ出す。それをバッと目の前に広げられたアリシアは目を疑った。
そこには写真のように忠実に描かれた、雷神の姿があった。




