25.何事も起こらなればそれでいいんだけど
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そんなことがあってからも、アリシアとジャンの関係は変わらなかった。
アリシアはジャンを好いている自覚はあったものの、雷神を越せるほどの愛情を持てるわけがないと思っていた。雷神を越せないイコール、それは愛ではないと思い込んでいたのである。
アリシア自身、己の気持ちがわかっていないところもあった。アリシアにとって雷神は絶対的なもので、唯一無二の存在だ。今でもアリシアは雷神を愛していると言い切れた。そのためジャンに対する感情がなんなのか、霞んでしまっていたのである。
ジャンのことを考える度に疼く胸の痛みを、アリシアは愛ではないと思った。二人の男を同時に人を好きになるなど、浮気と同等の行為であるとアリシアは信じて疑わなかったのだ。
アリシアらしい、純真さ故の感情だった。だからこそルーシエは、愛ではないと思い込んでいるアリシアに対して、勘違いだと指摘したのだが。
ジャンと付き合うとすれば、雷神を諦めた時……雷神に愛がなくなった瞬間なのだと、アリシアは思った。そうでなければ、誰とも付き合う資格などない。心が雷神にありながら他の男と付き合うなど、不道徳でしかなかった。
いつか寂しさに負け、絶望し、雷神を諦めた時。アリシアが他者に目を向けられるようになるのは、その瞬間しかない。しかし今はまだ。まだまだ。アリシアの心の中には、ずっと雷神がいる。
好きになる人は一人でなくてはいけないと思っているアリシアは、雷神が心の中にいる限り、いつまでたってもジャンとの関係は進まなかった。
***
その年の春、十八歳でオルト軍学校を卒隊した、アンナの友人のトラヴァスという青年がいた。その彼が、ストレイア軍の正騎士として王宮に仕え始めた。
まだ一般兵ではあるが、王宮に仕えるのは優秀な者だけだ。トラヴァスは毎年オルト軍学校の剣術大会の上位に食い込んでいただけではなく、軍学の成績も優秀で、近年では間違いなくトップクラスの逸材だ。
オルト軍学校では総指揮官という首席しかなれない役職もこなしていて、その手腕はアリシアの耳にまで届いている。
無表情なのがたまにキズだが、上に立つ者としてはそれがプラスとなることもあるだろう。
アンナとグレイは十六歳、カールはまだ十五歳なので、卒隊して正式に勤務するには時間がある。トラヴァスは、アンナたちが正騎士になる頃にはすでに将になっているかもしれないと思えるほど、優秀な人材であった。
ストレイア軍は実力社会なので、若い者や女であっても、能力さえあればどんどん昇進できるシステムだ。
逆にいうと、頭の回転が遅くなったり剣の腕が鈍ったりしてくると、容赦なく降格させられてしまう。中々若い子が育ってこなかったので、現在はアリシアがトップに君臨しているものの、トラヴァスやアンナの世代は優秀な者が多く、世代交代もそんな遠い話ではなくなるだろう。今はまだまだ、筆頭大将という椅子を譲り渡すつもりなどないが。
不思議なことに、アリシアは肉体的な衰えをあまり感じていなかった。おそらくは、習得した救済の書の影響もあるのだろう。
もちろん、老いないわけではないのだが、二十代の頃とさほど変わらずに剣を振るうことができる。そんな自分の地位を誰が奪っていくのか、楽しみでもあった。
ある日、若草色の絨毯が敷かれた王宮の廊下を歩いていると、噂のトラヴァスが前から歩いてきた。彼はアリシアとすれ違う数歩手前で立ち止まる。
「アリシア筆頭、お疲れ様です」
ピシリと歪みなく拳を胸に当てて敬礼する姿が凛々しい。
アリシアはコクリと頷いて話しかけた。
「どう、王宮勤めは。もう慣れたかしら?」
「はい。まだまだ未熟者ではありますが、先輩方に助けられながらなんとかやっています」
「謙遜するわねぇ。あなたの活躍は、もう私の耳にも届いているのよ?」
「恐縮です」
トラヴァスは、いつも通り表情も変えずにそう言った。かなりやり手のルーキーだ。再来年、アンナが正騎士となったら、この人物と競わなければいけなくなるだろう。グレイもいるし、将争いは熾烈を極めることになりそうだ。
「昨日はオルト軍学校で恒例の剣術大会があったそうですが、アリシア筆頭は結果をご存知ですか」
「いいえ、聞いていないわ。知っているの?」
「はい、同期が観に行ったので知っています」
「教えてちょうだい」
いつもはアンナが帰ってきた時に結果を聞くのだが、やはりどうなったのかは気になる。それは今まで一緒に戦ってきたトラヴァスも同じだったのだろう。
「優勝がグレイ、アンナは準優勝で、三位はカールだったそうです」
「やっぱりグレイが一位だったのね。カールも大健闘じゃない。毎年入賞すらできていなかったんでしょう?」
「去年までのカールは、くじ運の悪さもありましたからね」
「ふふっ、トラヴァスも大会に出たかったんじゃない? あなたも優勝候補だものね!」
「もう純粋な剣術大会には出ませんよ。私はミックスを極めますので」
この青年は、正騎士になりたての頃は『俺』と言っていたが、それではいけないと思ったのか、最近では一人称が『私』になっている。
「ミックスね……手強くなりそうだわ」
「アリシア筆頭には敵いませんよ」
「なにを言ってるの! そこは『越えてみせる』くらい言ってみせなさいな!」
そういうといつもの無表情が一瞬だけ溶けて、薄っすらと笑みを浮かべていた。
本当に頼もしい人材だ。ミックスとは、剣術と魔法を組み合わせた戦法のことで、トラヴァスは正騎士になる少し前に氷の書を習得したと聞いている。
氷魔法の騎士。一体どんな風に戦うようになるのか、想像するだけで楽しみだ。
それじゃあ頑張ってと最後に声をかけると、トラヴァスはきれいなお辞儀を見せてくれる。そういうところも含めて、アリシアのトラヴァスに対する評価点は高い。
少し気分がよくなったところで部屋に帰ろうとすると、廊下の向こう側から第一王子のルトガーと、第三王子のフリッツが護衛を連れて歩いてきた。さらにはその後ろに、第二王妃のヒルデもいる。
今度はアリシアも邪魔にならぬように廊下の端に移動し、トラヴァスとともに三人に向かって敬礼した……その時。
「あ、フリッツお兄様!」
逆側の廊下から、ルナリアの声がしてギョッとする。しかもそのルナリアの隣には、シウリスが不機嫌顔で歩を進めていたのだ。
ラウ系バルフォアとリーン系バルフォアが、廊下で勢揃いしてしまった。
「ルナリア! 」
嬉しそうに声を返すフリッツ。ラウ系とリーン系で仲が良いのは、この二人だけ。それを快く思っている者は、誰もいないようであったが。
ルナリアがフリッツに駆け寄ろうとしたのをシウリスは止めた。同じくヒルデが前に出て、怒ったようにフリッツを睨みつけている。
ルナリアとフリッツが仲良くすることを、どちらも気に入らないのだから当然の態度だ。
なにか声をかけて場を和ませるべきか、と思った時、ヒルデが口を開いた。
「ルナリア。まずは挨拶が先ではなくて?」
「あ……も、申し訳ございません。王妃様におかれましては、ご機嫌麗しゅう……」
「やめろ、ルナリア」
ルナリアが挨拶をしようとしたところで、シウリスが止めに入った。そのせいでヒルデの顔はより怒りを帯びている。そんな顔を見て、今度はシウリスが言い返した。
「この顔が、麗しいわけないだろう」
「んまっ!」
鼻で笑うシウリスに、ヒルデは顔を真っ赤にさせている。このままだと蒸気まで出てきそうだ。
早く帰りたいわね、とアリシアは心の中で思うが、そういうわけにもいかない。
「まったく、常識のない妹に、口の悪い兄だこと! 育ちが知れますわ!」
「育ち? 言っておくが俺たちの母は侯爵家だ。育ちが悪いのはそっちの方だろう」
クックと笑うシウリスに対し、ヒルデは悔しそうに歯ぎしりしている。
ヒルデは確かに、侯爵より二階級下である子爵の出だった。その美しさでレイナルド王に見初められ、入宮したのだ。
「シウお兄様、もうそのくらいに……」
「ふん、行くぞ。ルナリア」
「あ、待って……っ」
シウリスはラウ側を無視するようにズンズンと進み、ルナリアは急いで兄を追いかける。
すれ違う瞬間、ルナリアとフリッツはお互いに「ごめん」とでも言いたそうな瞳でコンタクトを取っていた。
「なんって、生意気なの……っ」
よほど悔しかったらしく、ヒルデはまだ息巻いている。
「気にすることはないさ、母上。シウリスの言うことなど放っておけばいい」
第一王子のルトガーがヒルデにそんな声をかけてはいるものの、瞳はヒルデと同じく怒りに満ちていた。
アリシアは正直に告白してしまうと、この二人が苦手だった。
立場上、リーン派でもラウ派でもないと公言してはいる。しかしアンナの幼き頃には第一王妃のマーディアにお世話になっていて、シウリスたちとの親交の方が深いのは確かだ。
今ではシウリスにも苦手意識を抱いているので、やはりどちらに肩入れするというものでもなかったが。
「アリシア」
「っは!」
急にヒルデがこちらを向き、冷たい声で名前を呼ばれて敬礼をした。
「ちょっと、今年入った新人の騎士を一人貸してくれないかしら。そうね、優秀な人物で……男がいいわ」
「どうなさいましたか? 外に出るための護衛が必要なら、護衛班に声をかけて参りますが」
「違うわよ。ちょっと……ね」
ヒルデに言われ、仕方なくチラリとトラヴァスを伺い見る。すると彼は無表情で、コクリと少しだけ合図してくれた。
「ヒルデ様、ここにいるトラヴァスが、今年の首席騎士です。戦闘に長けているだけでなく知力も備わっている、将来有望な若者です」
「まぁあ、そう……」
「第三軍団所属のトラヴァスと申します。ヒルデ様にお声をかけていただき、恐悦至極に存じます」
「うふふ」
ヒルデは先ほどまでとは一転、目を細ませると、トラヴァスの足先から整った顔立ちまでを舐めるように見ている。トラヴァスは怯むこともなく、相変わらずの無表情を貫いていたが。
「あなた、仕事が終わったら私の部屋に来なさい」
「……は、かしこまりました」
王妃の言葉に逆らえるはずもなく、トラヴァスはそう答えていた。承諾の言葉を得られたヒルデは、上機嫌でルトガーとその場を離れていく。
フリッツだけが、一瞬悲しそうな顔でトラヴァスを見上げてから去っていった。
三人の姿が見えなくなったところで、アリシアはようやくホッと息を吐く。
「悪かったわね、トラヴァス。余計な仕事を増やしてしまったわ」
「筆頭のせいではありませんのでお気になさらず」
「恐らく、あなたをラウ派にするつもりでしょうね。レイナルド様がどういう基準で継承者を決めるかはわからないけど、ルトガー王子は二十歳になられたし、シウリス王子ももう十七だもの。フリッツ王子はまだ十三歳だけど、そろそろ継承者を考える頃に入ってるわ。その時のために、優秀な若者がほしいんでしょう」
レイナルドが王になったのは二十三歳の時だ。前王が王位を明け渡したのは五十歳であったし、現在四十八歳のレイナルドもそろそろ後継者を考えていることだろう。
しかしそう告げるも、トラヴァスの顔は無表情のまま変わりはしなかった。彼がラウ派なのかリーン派なのか、アリシアは知らない。ただ、面倒なことに巻き込まれてしまったのは確かだ。
「なにか困ったことがあったら言いなさい。相談にのってあげるわ」
「ありがとうございます。その時にはお願いいたします」
(何事も起こらなればそれでいいんだけど)
少しの杞憂をその場に置いて、アリシアは部屋へと戻った。




