56.ミツイ、珠拾いになる(その2)
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!
耳をつんさくような獣の声だ。
男はぎくりとしながら鞘ごと剣に手をかけた。手にしていた虹色真珠は、とりあえずポケットに押しこんで、周囲を見回す。
シーノがおびえるようにキョロキョロしている。
「……近くじゃ、ないな」
「本当?」
小声で尋ねてくるシーノは、男がそれなりの腕を持っていることを知っている。知っていて、信用しきれるほどではないのも確かだった。男は獣一匹であれば対処が可能だ。だが今の声は、複数のものだったように思われた。
「けど、今のうちに避難した方がいいかもしれない。山を下りた方がよくないか?」
「……」
シーノは黙って首を振った。
「今のロイネヴォルクは、もっと危険なの」
「え?」
「魔物の襲撃で、ロイネヴォルクの首都は壊滅してるの。わたしは、たまたま採取に来てたから被害を受けなかったけど」
「……え?」
それはひどく現実感のない言葉だった。
「ここは竜の里に近いから。ロイネヴォルクの国内にいるよりは魔物に遭う確率が低いのよ。だから、もう何か月もずっとここにいる。今のうちに虹色真珠を養殖できるだけ養殖して。……そしたら、別の国に行こうと思ってる」
「国を、捨ててか」
「……死ぬよりは、いいわ」
シーノは苦い笑みを浮かべた。
「わたしの体は、両親が生きた証よ。愛し合った結果よ。子供を残して次に伝えて、そうなってはじめて、両親の愛を証明できると思ってる。
虹色真珠は、父が苦労した結果よ。その養殖方法を、いつかわたしも子供に伝えたい。そのためには、……死んで終わりになんて、しないわ」
キッと睨まれて、男はひるんだ。
生と死を、ハッキリと口に出せることが、男にとってはうらやましかった。
「……すげえなあ」
この娘は、生きることに迷いがない。仕事を自分で選んで、自分の身に自信を持って、生きている。
おれはどうだったんだろうと男は思った。
自分の名前すら思い出せないまま、獣が襲ってきたら剣を振るう。
最初の一回は襲われるのが恐ろしくて思わず振るってしまった剣だ。血しぶきが上がるのを見て、吐き気がした。
地面に落ちた獣が姿を消してくれて正直なところホッとした。
自分を強い戦士だと思っているシーノのために、少しばかり演技をしている。本当のおれはもっと弱くて、情けなくて、逃げ腰で、甘ったれで。だけど、……だけど。
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!
さっきよりも近い、と男は顔を強張らせた。
森がざわめいている。複数の獣が森の中をうごめいている気配が伝わってきた。
「なあ、あの獣って、泳げるか?」
「え?どうかしら、知らないけど……」
「狂犬病ってあるんだよな。恐水病とも言って。水を嫌がるらしいんだ。あいつは目が多いしちょっと別かもしれないけど、この手を使ってハズれたらけっこうキツイはめになると思うけど。ふつーの犬なら泳げるだろうし、意味ないかもしれないけど。
賭けてもいいって思うんだったら、荷物まとめておれについてきてくれ」
「……?」
荷物などほとんど持っていない。シーノと出会った時に持っていた袋はボロボロになっているし、着替えは着古しているし、手入れができないから、剣はサビ放題だ。
抜身の剣を片手に持って、鞘を握りしめて。男は池に向かって駆け出した。
戸惑うシーノがついてくる。どちらにしろ獣の声はテントに近づいていたから、逃げ出すより他になかった。
池にたどり着いた男は深呼吸を一つした。潜水で虹色真珠を拾ってきた後、獣が出てくるのはいつも森の方からだ。
泳いでいる間に出てきたことは一度もないが、あっとしても池の中まで追いかけてくる気はしなかった。なぜなら、着替えを置いてある乾いたところまでしか来ないのを経験上知る程度には、何度も戦っていたからだ。
シーノがおそるおそる池の縁に寄った。透明度の高い池は、その内側に恐ろしい生き物がいないのは経験上知っているが、それでも急なことである。警戒するような視線を落とす。
抜身の剣を下げて、男は耳を澄ませた。
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!
……近い!!!
気配を察するなんて格好つけたことは言えなかった。近いと思った瞬間には、もう森の木陰から獣は姿を見せていた。
男は悲鳴を上げるような気持ちで襲いかかる気配に向けて剣を振るった。
複数の声だとは思っていたが、現れた生き物は合計で四。思った以上に多い。
片手に鞘、片手に抜身の剣を携えて、男は笑った。ひきつった顔が、もはや笑うしかなかった。
だが、飛び掛かる生き物相手に頓着するつもりはもうない。剣先が鈍ったりもしない。池の縁にいるシーノのところに、一匹でも通すわけにはいかないと思えば、容赦する気にはなれなかった。
喉笛を狙って思いきり斬り払う。真っ赤な血しぶきを受けて、腕が鈍くなる。
(なんだ、これ。血に何かあるのか?)
毒でも含まれているのだろうか。腕の振りが悪くなった。
目の前の獣のうち一体はもう動かない。二体目はわずかに狙いがそれて、脚を斬りつけたに留まった。三体目と四体目とが同時に飛び掛かるのを、鞘で防御する。わざと噛みつかせながら剣を突き刺そうとした男は、背後から聞こえた悲鳴に動きが鈍った。
「きゃあああああああああ!!!」
「シーノ!?」
嘘だ、と思わず振り向いた男の背に、獣が歯を立てた。鋭い牙が腕と背とに食いついてくる。
だが痛みなど気にもならなかった。
いつのまに回り込まれたのだろう、池の縁には長身の人影が一つあり、その足元には獣が二頭従っていた。
気配など微塵もしなかった、どこから現れたのかもわからない。池から這い上がってきたにしては濡れてもいない。自分に気付かせずに池の周囲を回り込むことなんてできるはずもないのに。
ぐったりとしたシーノが地面に転がっていた。顔は見えないが、その体の下からじわりと広がりつつあるのは、赤黒い何か。
……血だとは、思いたくなかった。
獣の牙がぐっと食い込んだ。
「ッ!ぐ、ぎぁっ!!あ、あああああああああ…………!!」
誰何の声を上げることもできない。男の口から漏れたのは苦悶の言葉だけだった。まだ動く鞘を持つ手を振り回し、鞘先で獣の頭を殴りつける。だが無理な姿勢のためだろう、力がうまく伝わらない。軽い打撃音は獣を興奮させるだけだった。
「狼ども、そのまま食い殺せ!」
どこかで聞いた声だ。背に、腕に、食い込んでくる痛みに遠のく。毒血を浴びた腕が上がらず、剣を振るうこともできない。
何よりも、シーノが倒れているという事実が、男の体から力を失わせていた。
(守れない。意味がない。おれは、おれは、おれは、なんで……)
力が抜けるということはあきらめるということだ。殺されて死んで、それを許容するということだ。
嫌だ、と男は思った。わけがわからないまま、殺されてやるほど、自分は自分を見捨てていない。そうだ、シーノはまだ倒れているだけなのに、あきらめていいのか?死を確認する前におれがあきらめたら、その時こそシーノが死んでしまう。おれが殺したってことにはならないか?
毒血を受けたのはどちらの腕だ。無傷な腕があるのにもう終わりか?背に食いついてきたやつがどうした、まだ足は動くじゃないか。
「なんだ、抵抗すらしないのか」
侮蔑の声が人影から漏れる。
男は地面を蹴って背を木にぶつけた。背に食いついた獣ごとバランスを崩す。ブギャリと獣が声を立てた。それでも獣の口が離れない。腕に食いついた獣の方が、振り回されて地面に振り落ちた。鞘の先で殴りつけて、これでもかと蹴る。だが四足の獣相手に格闘できるほど男は身のこなしが素早くなかった。あっさりとかわされ、男は奥歯を噛みしめた。
構えなおした獣は再び地面を蹴り、鞘で殴ろうとした動きは背の獣の重みで鈍り、寸でで避けられた。今度は首筋に噛みつかれた。
「ぐあああああああああああああああああああああああ!!!!!」
視界が焼ける。
(抵抗。抵抗って、なんだ?)
死ぬのか、と男は思った。
死んだら、おれはどうなるんだろう。獣たちと同様に、魔法陣に包まれて、塵になって消えるのだろうか。それとも目の前にいるシーノのように、打ち捨てられたようにただ何も言えぬ躯になるのだろうか。
食いつかれている体が痛い。肉が引き裂かれるというのは、こういうことか。剣先で払い捨ててきた獣たちも、こんな思いをしたんだろうか。
今から死ぬということが、現実感がなかった。
「……なあ」
男が口を開いたので、人影は意外そうに目を見開いた。
やはり見覚えのない人影だと男は思った。記憶がないからではなく、もともと知らないのだろう。どこかで知っているような気がする、という気持ちにすらならない。
「その獣にも、名前はあるのか」
喉の奥をついて出てきた質問は、場にふさわしくなかったらしい。目がかすんできた。喉の奥がひりひりと熱い。
食いついてくる獣が、少しでも力を強めたら、もはや痛みで意識が飛ぶだろうと思われた。
「当然、ある」
人影は答えた。
それを、男は意外なものを見たような気持ちになって見上げた。否、もう見上げることもできなかった。
自分だけは自分の命を大事にする、そう誓ったのが誰だったのかと男は思った。
諦めて、死んで。何も残さないまま、誰も知らない場所で。
「……あるのか」
どうやらおれはうらやましいのだろうと男は思った。
この最期の瞬間に、自分は自分が何者か分からないのに。
「おまえとてそうだ。名を持つがゆえに召喚された。だが、おまえでは力が不足している。おまえが死ねばやり直しが利く」
それが、おれが殺される理由なのか、と男は思った。
「おれは、なんて言うんだ?」
「おかしなことを言う」
人影はあざ笑うように言って、獣たちに指示を送った。
いったん止まっていた牙にグッと力がこもる。肉に食い込む感触に、男はもはや思考能力を奪われた。
意識がブラックアウトしていく。
「ミツイ・アキラ。おまえがいなくなった瞬間、次の者が現れるのだ」
ああ、そうだったと男は思った。
おれは、ミツイだ。日本人の三井晃良だ。この世界では誰も、それを知らない。




