55.ミツイ、珠拾いになる(その1)
深い森の中央に、小さな池がある。深さ5メートル、周回距離は30メートルほどの小さなものだが、木々の間に埋もれて周囲からは分かりづらくなっている。
特筆することがあるとすれば、池の周囲に小さな泉があることだろう。湧き出した泉の水が、池に注ぎ込み、徐々に地面へ染み込んで消えていく。川などによって付近とつながりを得ていないということが、珍しい点であった。
透明度の高い池の中には、気持ちよさそうに泳いでいる小さな魚と、水面をゆらめかせる大きな人影とがあった。
「ぷはっ……」
大きく息を吐き出して、人影は池の周囲へと乗り上げた。ぜえはあと大きく息を吐きながら、手に握りこんだ小さな袋を池の周囲へと置いた。小さな袋を置いた場所には、人影の着替えと、鞘に入った剣とが置いてある。
「ふー……。ちょっと今のはキツかったな。あやうく息が切れた」
深呼吸を繰り返すこと、数分。ようやく息が整ってきたところで、人影は池の縁へと乗り上げた。
まだ少年の面影を残す男であった。16、7歳といったところか。それなりに鍛えられているようで、体つきは良いが、まだ発展途上だ。池に潜っていたため薄布一枚である。着替えを置いてあった場所から布を取り出すと、荒く体の水をふき取り始める。
と、その表情が強張った。
「ギャオオン!!」
木陰から飛び出してきたのは獣である。
とっさに拾い上げた鞘のついたままの剣を振りかぶり、飛び出してきた獣の顔面にぶち当てる。
そのまま男は身を反転させた。
「ったく、ズボン穿く間くらいくれよな」
片方の手で鞘を握り、もう片方の手で抜身の剣を持つ。あたかも両手で長い得物を持っているかのような姿勢が、男にとっての戦闘準備だった。
イヌ科の生き物だ。ダラダラと涎を垂らしつつ、犬というには大柄で、犬歯の鋭さも尋常ではなく、目が四つもある。また発せられる殺気には、自分を襲おうとしているのが明らかだった。
男はいまだに、この生き物の名前を知らない。
「ギャウン!」
涎を垂らしながら飛び掛かってくる獣をあしらう。鞘を盾に、剣を攻撃に使う。飛び掛かる獣の動きに注視し、鞘をわざと噛ませて動きを止めたところを薙ぎ払った。
血しぶきが飛び、獣が地面に落ちる。なおも動きに警戒する男の前で、獣は黒い塵となって消えていく。
完全に消え去る瞬間、光の円が獣を包むのだ。それはあたかも魔法陣と呼ばれるものに似ていた。
「……どうしてこうも、毎回襲われるんだ?」
男は自分に問うようにつぶやくと、怪訝な色を隠しもせずに剣を鞘へと納めた。
改めて衣服を身に着け直して、男は池の中から運んできた小さな袋を開いた。中に入っているものに傷がついていないことを確認してから、男は袋と剣を携えて池のそばを離れた。
池のそばを離れた男がやってきたのは小さなテントだった。
池の周囲からは数メートルほどしか離れていないが、森の中に溶け込むようにして用意された古いテントである。
テントのそばには少女が一人いた。飾り気のない少女だが、男と同年代くらいに見える。長い黒髪を後ろで三つ編みにしており、つなぎのような服を着ている。小さな焚き火を囲んで、食事の支度をしているのが見えた。
それをホッとした顔で見ている自分に気付いて、男は照れくさい気分になった。
「あ、おかえりなさい」
にこりと微笑んだ少女に、男は決まり悪げに会釈した。「おかえり」と言われると無性に気恥ずかしくなるのである。「ただいま」と返していいものだろうかと悩んでしまう。
結局いつも、その言葉を口にできないまま、小さな袋をずいと差し出す。
「……採ってきた」
小さな袋を少女に渡すと、男は数歩離れて座った。少女が嬉しそうに顔をほころばせる。それを、男はわずかに顔を赤らめて見やった。素直に喜ばれると、どうにも居心地が悪いのだ。
理由はよく分からない。こんな素直な反応をする知り合いがいなかったからだという気もする。
「うん、確かに。三つも採ってきてくれたのね。ありがとう」
「あ、いや……えっと。おれは潜るくらいしかできないしさ」
「それが難しいのよ?この国に泳げる人なんてほとんどいないし。記憶喪失だなんて最初は驚いたけど、海のそばに住んでたのかしらね?」
少女の言葉に、男はますます居心地の悪い気分になった。男にとって、『泳げる』というのはさほどたいしたことではない。褒められるほどのことではないような気がするのに、その理由がハッキリしない。確かに少女の言うように、自分がどこか遠い国の出身なのかもしれない。だが、それすらもよく分からないのだ。
男が何も答えずにいるのを、少女が申し訳なさそうな表情を向けてきた。
「ごめんなさい。記憶がないのに、いろいろ聞いちゃダメよね」
「い、いや……」
会話が途中で止まるので、申し訳ない気分になるだけだ。だがそれを、男はうまく口にできない。
「本当に不思議よね。剣が使えるところを見れば戦士さんかと思うのに」
「……たぶん、違うと思う」
男は首を振った。
「前にもそう言ってたけど、どうして?」
「剣を専門に使ってたなら、きっと手入れの仕方も覚えてるはずなんだ。けど、まるっきり思い出せない。記憶がないからじゃなくて、たぶん、知らないんだと思うんだよな」
「そうなの?」
「うん。もうしばらくシーノの世話になることになりそうだ」
「こっちも助かっちゃってるから、おたがいさまよね」
ふふふと少女……シーノは笑った。
男には記憶がない。
ふと気づいたのは池のそばで、着替えと携帯用の保存食を数食分持った状態で倒れていた。武器になりそうなものは携えていた剣一本だったが、自分のものだという実感が少しも湧かなかった。誰かのものを借りていると言われた方が納得するくらいだ。
ひどく空腹で、食事のにおいにつられてふらふらと歩いた先に、少女がいた。シーノと名乗った少女は、どこか見覚えのあるような顔立ちをしていて、懐かしい気分がした。
うまく声もかけられなかったが、腹の虫が鳴ったのに気付いたシーノから声をかけてくれた。食事を分けてもらい、その礼を申し出た男に、シーノが尋ねた。『泳ぎはできる?』うなずいた結果、男は一つの職を得たのだ。
「それ、なんなんだ?」
男は尋ねた。虹色をした真珠のような石である。光にかざすと不思議な色合いをする。どこかで聞いたオパールという宝石はこんな感じだろうかと思うのだが、それよりは珍しい真珠という解釈の方が近いらしい。
真珠は貝殻の内側に出来ると聞いたことがあったような気がするのだが、これは池の底に沈んでいるので、綺麗な石というだけなのかもしれない。
池の底の砂や土に紛れるようにして転がっているそれを拾う。それが今の男の仕事だ。
一度潜水して、探して拾えるのはせいぜい一つか二つ。何度も繰り返してようやく五つ。今のところ一日の最高記録は九個である。
「お願いしてからかなり経つのに、はじめて聞くのね?」
「あー、そうだったっけ。なんとなく」
ポリポリと頭をかきながら男が言うと、シーノは笑った。
「三センチ以上の大きさのやつしか拾うなって言うし。小さいのはもっと落ちてるんだぜ?」
「そうね。でも、小さいのは市場価値がないのよ」
「市場?じゃあ、やっぱり、これ売り物なのか」
「ええ。これはね、わたしの国、ロイネヴォルクでは求婚する時に男性から女性に贈る品なのよ」
「……?」
男が不思議そうに首をかしげるのを見て、シーノが説明を加えた。
虹色の真珠を一つ、男に手渡すと、空に向けてかざすようにして笑う。
「透かせて見て?」
「こう、か?」
真珠に似ているから、陽の光が透けて見えるなんてことはないだろうと思っていた。事実、透明でもない石は、光を透過したりはしない。だが、陽の光を受けて七色に艶めいて輝く石は、なんとも言えない美しさを持っていた。
小さいものは拾うなというから、男が拾ってきたのはどれも大きめの石だが、美しい球形をしていて、陽の角度によって、時折中が透けて見えるような気がした。
「え?」
気のせいかと思い、二度三度とくるくると回してみる。あちらこちらから光を透かせてみたが、内側が透けて見えたのは一度きりだった。見間違いではなかったと思う、と男は驚いた。
「本来は、竜の里にしかないものなの。それを探してくる勇気を示すっていうのが、ロイネヴォルクの伝統的な求婚で。
この方法で求婚してきた男はどんなに身分差があっても親は反対しないのよ」
ロイネヴォルク。竜の里。その響きにどこか聞き覚えがあった。男はわずかに痛む頭に手を置いて、どこで聞いたか思い出そうとして、あきらめた。
自然に思い出せるものは良いが、そうでないものはいくら思い出そうとしても出来ないのだ。
「別に難しくないだろ?確かに潜水しないといけないってのは厄介だけど」
「竜の里なのよ?近づくだけで恐怖だわ」
「そう、か……?」
竜とは、そんなにおそろしいものだっただろうか。男はなにか納得のいかない気持ちで、首をかしげる。
「特にロイネヴォルクでは竜は特別なの。王族であっても例外じゃなく、竜騎士になるため竜の里へ訪れるのよ。竜騎士になって国のために働くっていうのが、ロイネヴォルクでは一番名誉なことなの」
竜騎士。男の脳裏に、再び何かが引っかかる。
「けど、すごいな。だったらロイネヴォルクの騎士ってみんな強いだろ?最強だよな」
「最強……ではないでしょうね。国力でいけば他にもっと強い国はたくさんあるし。でも、竜騎士の数は圧倒的に多いから、他の国から特別視されてるところはあるわね。隣国のエルデンシオ王国とかとは特に親交もあって……」
ぎくりと男は震えた。
エルデンシオ。それは、今まで聞いたどの言葉よりもずっと聞き覚えがあるような気がする。
シーノは男の様子に気付かなかった。
「虹色真珠はね。エルデンシオ王国でも人気の品なのよ。さすがに、求婚の時の定番というわけじゃないでしょうけど」
「……シーノは、どうしてこの仕事に就いたんだ?竜の里に採りにくるのは危険なんだろ?竜騎士ってわけじゃないよな?」
「そうね、わたしは違うわ。それにここは、竜の里じゃないのよ」
「え?」
「わたしの父はね。貧乏だったから本当は結婚なんてできなかったの。でもどうしても母と結婚したくて、竜の里に虹色真珠を採りにいった。一か月かけてようやく手に入れて帰ってきて、求婚して結婚したの。祖父母もさすがに反対できなかったみたい」
シーノは照れくさそうに笑った。
「父は、この喜びをもっと他に人にも分けられないかと思って。虹色真珠の養殖をはじめたのよ。
天然ものほどの値段はつかないけど、虹色真珠での求婚、というのに憧れのある若い世代には受け入れられて。それをわたしが継いだの」
「養殖……?」
「ええ。さすがに製法は秘密ね。あなたを信用してないってわけじゃないのよ?でも、父が生涯をかけて見つけた方法だから。
わたしの育てた虹色真珠が、誰かの幸せになる。それがね、嬉しいの」
生涯をかけてという言葉に、男は思わず顔を上げた。
それはつまり、もはや父親はいないのだろうと思われたからだ。
シーノはにこりと笑っていた。晴れやかな微笑みには、彼女が仕事に誇りを感じているのだろうということが分かる。
女って強いなと男は思った。
「シーノを幸せにしたいってやつは、たいへんだな。それ以上を探して来なきゃ親父さんが許してくれないだろうし」
「え?」
「竜の里か。そこに行きゃ、転がってんのかな?」
「どうかしらね。父に聞いた時は、竜の湖って場所だって言ってたけど。……探してくれるの?」
からかうようにシーノが笑う。
穏やかな時間が流れる。ホッとしながらも男は危機感を感じていた。ここで油断はできない。何かがはじまる。それは避けられず、だが今度こそ避けたい何かが。
ピリピリと周囲を警戒する男に、シーノが首をかしげた。
「いつもそうやって気にしてるわね?」
「……そうか?」
「ふふ、警戒してる猫みたいよ。毛を逆立ててフーッて言うの」
思わず憮然としたが、刃物を持って警戒しているような男に、シーノが怖がらずにいてくれるだけでも救われると男は思った。怖いだろう、目の前の男が、今にも切り付けそうな顔をしていたら。それが、普通だ。
……だが。
オオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!
森の中に響き渡る獣の声に、ああ、はじまったと男は思った。




