50.ミツイ、探偵になる(その2)
湖面に顔をつけたせいで、滴る水が服を濡らしている。
服を着替えたいと思ったが、ミツイはさほど着替えを持ち合わせていなかった。こんなことならもっと買い込んでおくべきだったのだ。このまま夜になれば、確実に冷えて風邪を引く。
戻ってきたミツイを出迎えたエレオノーラは、いつもどおり静かな声音でこう尋ねた。
「濡れておいでですが、収穫はありましたか」
「いや……、なんで分かったんだ?調べに行ったって」
「そうでなければ失望したというだけのことです。わざわざ滞在を延期したのですから、何事かなさろうとしていらっしゃるのだろうと思いまして。可能であれば協力しようと思ったまでです」
「すげえな。お見通しじゃん。そういや、探偵役ってエレオノーラさんの方が似合いそうだよな。こう、スーツ姿でパリッとした感じ」
「ご期待に添えず申し訳ありませんが、私の能力は助手が精一杯でしょう。あらかじめ所持している選択肢を取り出すことしかできませんので。なお、エルデンシオ王国には、職業としての探偵を専任で行っている者はおりませんよ。副業、兼業で行うのであれば、衛視団への協力者がそれに近いかもしれませんが」
「ハボックさんたちか。まあ、そうだよなあ。調査とかしてたもんなあ」
「失せ物探し、浮気調査、迷子猫探しなどなど、調べ物については最終的に衛視団のところに情報が集まりますからね、そこからヒントを得るという職種を探偵と呼んでいます」
「平和だな、それ」
「国内平和は、王族としての最大の仕事ですからね」
「いや、そういう意味じゃねえよっ!?」
ポリポリとミツイは頭をかき、チビスケを地面に下ろしてから尋ねた。
「ヒナージュは?」
「彼女には竜との間の仲介役という仕事がありますからね。期間を延長してしまったので、私たちの滞在環境を整えてくださっているようです」
「悪ぃことしたかな」
「相談なしに、という意味ではそうですが。……ヒナージュ王女について、私が確認した限りのことをお伝えしておきます。何かの役にたつかもしれません」
「というと?」
「ヒナージュ王女は、魔物化しているわけではありません」
「……え?」
「魔物に、憑かれているのです。おそらくは、寄生するタイプの魔物でしょうが、魔法に詳しくない私には正体が分かりません。エル・バランさんならお分かりでしょうが、連絡手段がありませんし。
ヒナージュ王女が自我を保っていられるのは、そのためでしょう」
「湖に、変なのがいた。竜はもちろんだけど、王女もあの水を使ってるんだよな?」
「禊などには用いるとおっしゃっていたように思います」
「その場所、見られるかな」
「……まあ、使用中でなければ可能ではないかと思いますが。婦女子の禊の場所を見たいとおっしゃるのは、いかさか道徳的に問題がありますよ?」
「そ、そこはエレオノーラさんが頼むことでセーフだろ!?」
ヒナージュに了解をとったミツイは、禊の場所へとやってきた。
湖から直接水を引いているようで、禊とはつまり、水浴びのことであるらしい。
冷水を使う風呂というイメージだったミツイは、夜中にあそこまで冷える山中で、毎度毎度水風呂に入るというヒナージュを心から気の毒だと思った。少なくともミツイはやりたくない。
「風呂はさあ。あったかいのが一番だよ。絶対そうだよ。プールならいいけど、それだって終わった後にはカラダが冷えるから風呂に入りたい」
「……お珍しいですよ、男性で、そこまでお風呂好きという方も」
「そうかなあ。おれの同郷なら、皆同じこと言うと思うけど」
「そうですか……」
エレオノーラの戸惑うような声に、なおも風呂の良さを上げながら……、これほどの山岳なら、掘れば温泉が出るんじゃないかと思いながら、ミツイは禊の場所を観察した。
どうやら湖の水が地下に染み込み、湧き水として湧いたところを使っているようだ。広さは直径五メートルほどの池なので、広いとも狭いとも言いがたい。湧き水が湧き出し、池に溜まり、それが細い川となって流れていく。見る限り、溜まっている水は綺麗である。特に紫色をしていたりもしない。
「底が見えるし、何も変なところはないんだけどな」
だが、ヒナージュが水の影響を受けるとしたらここだろう。ミツイは首をかしげた。
杖でツンツンと突きながら、チビスケを抱きかかえ直す。
こちらでもおかしな水球が襲ってきたりするだろうか?思い至ったミツイはチビスケを遠ざけてから、杖を握りしめながら池に顔をつけた。
透明度の高い池だ。そもそも底が見えるような池に、わざわざ顔をつける意味がない。
そう思ったミツイだが、収穫がないわけではなかった。
水が湧く周辺は水泡のせいでよく見えない。そこに、小さな空洞があるのを見つけたのである。有体に言えば、人が一人、潜りこめそうな空洞が空いている。
「うっしゃ」
ミツイは一つ気合を入れて、エレオノーラに声をかけた。
「悪いけど、チビスケ預かっててくれ。この水飲まないように注意してやっててくれるか」
「構いませんが、何をなさるおつもりで?」
「潜ってみる」
「え?……どういう意味です、泳げるんですか、ミツイさん」
「当然だろ?」
「あまり当然ではありませんよ、エルデンシオ王国で、泳ぎができるのは港周辺の住民くらいです……、おっしゃっていただけましたら、特技として別の職種をご紹介できましたのに」
「え、そこまで?」
ミツイにとって、泳げるというのはたいした特技とは言えない。だが、四方八方を海で囲まれている日本と、平地にあるエルデンシオ王国では事情が異なる。泳ぐ必要のない国で、泳げるというのは立派な特技だ。
だが、ひとまずそれを持ち出すのは後回しだな、とミツイは思った。
軽く準備体操をした後、ミツイは上着を脱いだ。水浴びの後のタオルがないというのが少々嫌だが、なんの、男は度胸だ、やってみようと思ったわけである。
続いてズボンを脱ごうとしたミツイに、エレオノーラがわずかに顔を引きつらせて距離をとる。水着姿と考えれば何もおかしくないのに、そうやって距離をとられるとショックだなあとミツイは思った。
「よっし」
すう、はあと大きく深呼吸をしてから、ミツイは禊の池へと足をつけた。
「ちめてっ!」
悲鳴を上げたのは、一回だけだ。ここは思い切るべき、とミツイはそのまま池へと潜っていった。
池の底にあったのは小さな空洞だった。
あまり深入りして、息が切れた意味がないと考えたミツイは、最初はただ様子を伺うことを目的に据えた。
水が湧く周辺にあるせいで、地上からは気づかない場所である。そこに、紫色の珠が一つ、設置されているのが見えた。
見る限り、珠が紫色をしているだけで、周囲には影響がないが、紫という色が引っかかって、ミツイは仔細に観察することにした。
台座がついている珠だ。元からあったにしては、コケ一つついておらず、綺麗な状態というのがおかしい。ずっと水の中にあったら、腐食していくのが普通ではないだろうか。大きさは、ミツイが片手で抱えることのできる程度。チビスケが間違えて食べてしまいそうな、そんな小さな代物である。
どうする、とミツイは思った。今ここで手を出して、大丈夫なものかどうかは判断つかない。
ミツイはいったん地上に戻ることにした。
ぜえ、はあ、と息を切らしながら、ミツイは髪の毛から滴り落ちる水を必死に振り払った。
風が吹くととんでもなく寒い。せめて着替えを用意しておくべきだったのに、脱ぎ捨てた服しか手元にはない。タオルはないのかと思いながら、そんなものはエルデンシオに来てから一度も見ていないことを思い出した。この国で水気を拭こうと思えば、ごわごわした布でなんとか水分を吸い取るしかないのだ。
「……キャシー!キャシー!聞こえるか!」
ミツイは、虚空に向けて声を張り上げた。
先ほどエレオノーラは、エル・バランとの連絡手段はないと言った。ミツイだってその事情は変わらないのだが、一つだけ、ミツイには方法がある。
剣闘士だった時に行った連絡手段。キャシーとの間の念話である。
「キャシー!なあ、おい!」
さすがに居場所が遠すぎるか。ミツイはそう思いながらも叫んだ。
心の中で声をかけるだけならいいのだが、ミツイにはそんな手段はとれない。やり方がわからないからだ。前回とて、キャシーの方から声をかけてくれたから出来ただけで、会話はミツイは声を出し、向こうは頭の中に返してくると言った代物だった。
「……ミツイさん、何をしておいでです?」
エレオノーラの声に、ミツイはため息をついた。
「前に、キャシーと会話が出来たんだよ。それ、やれないかと思ったんだけどさ。こっちから声かけたことはなかったし、そもそも無理だとは思うっつってたからな……、ダメ元だったけど」
「なるほど、キャサリアテルマは魔獣ですから……」
エレオノーラはそう言って、腕に抱えたチビスケを見下ろした。
「今のミツイさんは、竜族とのつながりが大きすぎて、連絡をとれないのでは?」
「そういうこともありえるのか?」
「キャサリアテルマとは、契約を結んだわけではないでしょう?チビスケ様やリールディエル様とは契約しているのですから、そちらが優先されるのは当然です」
「……そっか。だとすると……」
ミツイは考え、上半身裸のまま、エレオノーラに近づいた。
「……あ、あの。出来ましたら服を着ていただけませんか?」
「あ?いや、だって着替えがねえんだけど。これ、このまま着ろって?」
「そ、そういうわけではないのですが。その、ですね」
エレオノーラは困ったように目を伏せた。
「申し訳ありません。男性の肌を見慣れておりませんので、その……」
頬に朱色が走るエレオノーラが、年よりも幼く見えて、ミツイは思わず目を疑った。
「……なんか、嬉しいような悲しいような。んな、見せられるようなハダカじゃねえのに、照れてもらえるって」
思わず笑ってしまった。
これが幼馴染をはじめとする学校の知り合いだったらどうだろう。貧相な身体など見せるなと、むしろそんな怒られ方をしそうだ。
鍛錬をしているせいで、今のミツイはさほど貧弱ではなかったのだが、毎日の変化なので本人は気づいていない。
仕方なしに濡れた身体の上に直接服を着込むと、チビスケを受け取る。
「よし、チビスケ。ちょーっと手を貸してくれよ」
『イイヨ!何スルの』
「よしよし、それじゃあな。犬のおねーちゃんに連絡がとりたいんだ。分かるか?おれが、ちょっとだけ魔力を分けてもらったおねーちゃんなんだけどな。リールディエルとも、チビスケとも違う魔力のつながりって、分かるか?」
「……ミ、ミツイさん、なにを?」
エレオノーラの戸惑いに、ミツイはちょっと迷いを浮かべた。
「いやあ、おれって魔法使えねえじゃん?けど、魔獣って、自分たちの魔力だとか、いろいろ分かってるからさ。おれができないなら、出来るやつに頼むってのは、悪くねえ連想だと思わねえ?」
「それは、そうかもしれませんが……」
「出来ないなら、それでもいい。でも、出来るならラッキーだよな」
チビスケはわずかに首をかしげていたが、やがてこくこくとうなずいた。
『ミツケタよ!オシャベリ中だよ!』
直後、耳に響いたのは機嫌の悪そうな、それでいて聞き覚えのある声だった。
『なんやねん、ミツイ。ウチは忙しいんやで。竜の子なんか使こて、ウチになんの用や』
「キャシー!」
『しかもなんやねん、犬のねーちゃんて。竜やからってナメたらあかんで?いったんしばいたろか』
「いやいや、それはその……言葉のアヤだよ、うん。それでさ、キャシー。エルさんいるよな?」
『エル・バラン?おるけど、なんや?』
「教えて欲しいんだ。竜石になった竜を治す方法と、人間に憑く魔物の倒し方と……、ああ、そうだ。それに、紫の珠をどうすりゃいいか」
プツッと、突然会話は途切れた。
『アブナイよ!』
チビスケの警告が響き、ミツイはとっさに身を屈めた。
池から飛び出してきた水球が、ミツイの頭上を通り過ぎて、近くの木をなぎ倒していくのが見えた。
今度は破裂するのではなく、幹にめりこんだ。
「なっ……」
「エレオノーラさん、下がって!」
片手にチビスケを、もう片方の手に杖を握りしめて、ミツイは水球の出所を睨んだ。
池の広さはさほどでもないから、出没地点は断定できる。うっすらと池の水面に浮かび上がったのは、紫色の影と、ぽこぽこと湧き上がる水泡。湧き水のうち一部分が、水泡から水球へと変わっていく。
『ダ・ァ・レ?』
紫色の影が、見知らぬ女の声でそう言った。
『王女の気配。ヒナージュではない。次の、目的地』
にんまりと笑む、紫色の影。それを、ミツイは眉をひそめて見やった。
(エレオノーラさんの気配に反応したのか。えーっと、よくわかんねえけど、ヒナージュを狙ったのもそれか?
無関係だったら気まずいよなー、けど、今、攻撃受けたよな、おれ?)
よし、とミツイは笑い、杖を構える。
「そっちこそ、名前名乗ってくんねえ?竜の里を病気に落としたのって、あんたか」
ぎぎぎぎぎ、と紫色の影が視線をミツイに向けた。
『ダ・ア・レ?』
「ミツイ。竜が病気になったり、魔物になったりすんの、あんたのせいだろ」
『ソ・ウ・ヨ』
「治し方教えてくれよ。やった本人なら、分かるだろ?」
『ヤ・ァ・ヨ』
にやぁあ、と紫色の影が笑う。
『男か。なかなかの魔力の持ち主と見える。悪く、ない』
変だな、とミツイは思った。返答をする人間が二人いるかのようだ。流暢な言葉を使う者と、単語しか使わない者。そもそも実体があるかどうかもわからない影のような姿に、それ以上の謎がいくつ増えたところで驚きはしないが。
水球が飛んできた。最初は二つ、次は四つ。さらに倍になって八つだ。
打ち返したのはそのうち二つ。一つは軽々と飛んでいき、もう一つはあまりに重くて杖を支えるのが精一杯だった。二つ目の方は勢いを殺しただけで、そのままゴトンと地面に落ち、そこで水に戻った。
飛んでくる速度は一緒だ。破裂する軽い玉と、水に戻る重い玉。区別がつかないのが面倒だった。
一度に二つまでなら打ち返すことができるが、どちらか一方が重い玉だと体勢が崩れる。四つだと打ち返すことはできず、避けるのが精一杯。十を超えたところでミツイはお手上げだった。
木の幹に身を隠して、とにかく数を減らす。
『なかなかの素早さ。悪く、ない』
どうやら試されているらしいと気づき、ミツイは作戦を変えた。
水球は池から飛び出してくる。四方八方に飛び交うように見えて、ミツイしか狙っていない。エレオノーラがターゲットにならなかったのも、チビスケが狙われていないようなのも朗報だ。ミツイは一人と一匹から離れるようにして、池をぐるりと回りはじめた。
狙いに気づかれないよう、ゆっくりと、たまに水球を打ち返していたミツイは、一瞬の油断をつかれて思い切り腹に一撃を食らった。
「ぐえっ!?」
例えるならば、ボーリングの玉が思い切り命中したようなものだ。見た目は軽い水球だが、ミツイが食らったのは重い方だった。中身が詰まっているようで、腹部に受けた衝撃を殺すことのできなかったミツイは、そのまま地面に転がった。
ダメ押しを行うように、水球が二発、三発と続いた。
破裂する玉は、ミツイにぶつかったとたん痛みを伴う衝撃を与え、重い玉は、ゴウンゴウンとミツイの身体に打撃を加える。数発食らったところで、もはや杖を持つ手に力が入らなくなった。
腹部と足に食らったせいで、立ち上がる力が入らない。
「く、くそっ……」
ミツイは地面を転がると、そのまま茂みの中へと潜りこんだ。木々の間に隠れて、なんとか立ち上がろうとする。
杖を支えに片膝をついたとたん、視界が広がった。
目の前の木が、幹ごとなぎ倒され、ついでに上の方の木々が破裂する玉によって散らされたせいだ。
『見・ツ・ケ・タ』
楽しげな声に、ミツイは顔を引きつらせる。どうやらミツイは、売ってはいけない相手に喧嘩を売ったらしかった。
『ミツイ!』
チビスケがぴぃぴぃと悲鳴を上げる声が響く。
日が落ち、暗闇が周囲に立ち込めようとする中、池の表面を凪ぐような風が吹いた。
ゴウッと吹き付ける風と共に、上空に影がかかる。見上げるチビスケが嬉しそうな歓声を上げるのを聞いて、ミツイは誰が来たのかを理解した。
『ザ・ン・ネ・ン』
楽しげな声で紫の影は言って、ふっと水と化して池の中に消える。
「……た、助かったぜ、リールディエル……」
少なくとも、今のミツイには対処ができない相手だった。




