36.ミツイ、剣闘士になる(その6)
それは奇妙な姿だった。
獅子の頭と前腕、雄山羊の胴、大蛇の尾を持った生き物。体長は5メートルはあるだろう。小麦色の毛をしているようだが、薄らぼんやりとした紫のオーラをまとっているせいで、生き物そのものが紫色に見えた。顔だけ見ればライオンそのものだが、胴の形が違うため、ミツイにはどうにも形容できない。
普通の生き物ではないのは、一目で分かる。何しろこの生き物は翼もないのに空を飛んできたのだ。空を飛ぶ速力は鳥ほどはないようで、ミツイには土面への着陸を見守る余裕があった。もっともこの巨体で隼のように飛ばれては、世界中の鳥類が涙するだろう。
「なんだ、こいつ……!?」
よろめきながら立ち上がろうとして、ミツイは右肩を押さえてふらついた。痛い上に、痺れている気がする。
アルガートは土面へ降り立とうとする生き物に備えていた。着地する瞬間を狙い、じりじりと距離を詰めていく。
「キマイラだ。火を吐く。尾に毒もある」
「キマ……?キメラってことか?って、こんな姿だったっけか?」
「通常の魔獣とは違うさ。こいつは、魔物だ」
「……いや、そういう意味じゃねえんだけど。……つーと、魔獣と魔物って違うのかよ?」
「全然違う。魔獣は召還された生き物全般のこと、魔物は、その中でも邪悪な意思に染められている生き物だ。
強さの方は天と地ほど変わる。それに、どれも空を飛び、海を泳ぐ。毒への耐性も強くなる。知性は無くなるらしい」
「違いって見て分かるもん?」
「色が紫」
「そりゃ、分かりやすい」
ミツイは剣を握れない右手を諦めて、左手をゆらゆらさせた。盾を拾いたかったが、ミツイが立ち上がった場所からは若干距離があった。
とにかくこの場からは逃げるが吉だろう。体長5メートルの獣など、相手をするだけ愚かしい。見かけよりも弱いとしたところで、獣の身体能力というのは人間の比ではない。鈍重な生き物だと仮定しても、そのパワーは捨て置けないものであろうし、素早かったとすれば人間が追いすがれるスピードではないだろう。
『カルシュエル公爵家名代より、両剣闘士諸君へ告ぐ。即刻試合を取りやめよ。闘場へ現れた魔物を対戦相手へ変更する』
円形劇場内にVIPの声が響き渡ったのはその時である。
チラリと見やれば、VIP席には数名の人間が残っているようだった。顔形の詳細は分からないが、代表格で喋っている人物はシルエットだけでも判別できた。ヘルムントだ。ミツイは舌打ちしたくなった。
「冗談じゃねえよ。こいつと戦えって……」
同意を求めようとしたミツイは、自分の失敗を知った。ミツイに背を向けるようにキマイラへと顔を向けているアルガートは、心底楽しそうに笑っていたのだ。
「そうだ、降りてこい、降りてこい……!相手してやるぜ……っ!」
体長5メートルの獣を相手にするには、片手剣と盾というのはいかにも貧弱な装備である。戦いというものは、リーチに左右されるところが大きい。自分よりも大きな相手と戦うのであれば、武器を長くして射程範囲を広くとるくらいのことはしたい。しかも、アルガートの片手剣はミツイのそれよりも先をつぶしてある分短いのだ。
(付き合ってられるか!おれは死にたがりでも、バトルマニアでもないっ!!)
「っつーか、忘れてねえか、おまえ!その剣じゃ……」
そうだ、先端をつぶしてあるのだ。刃の部分で切り裂けば、ミツイの右肩のように斬ることはできるが、それはさらに近づいて攻撃しないといけないはずだ。
ミツイは、自分が取り落とした片手剣を目で探した。盾と同じ場所に落ちている。
もう一度ミツイは空を駆け降りてくる紫色のキマイラを見やった。残り距離は10メートルほどだ。まだこちらの攻撃は届かない。胴体が長いので真下から投げればナイフの一本も突き刺さりそうだが、皮膚を貫いてダメージが通るかどうかは不明である。ミツイは試してみようという気にならなかった。
(降りてくるまでにあれを……)
片手剣を拾ってアルガートに渡す。自分は盾を手に下がるのが最善だ。右肩の負傷で役に立てない上、自分よりも遥かに大きな獣相手など、足の一撃で殺されてしまう。
アルガートが戦いたがるのは良しとしよう。止めても無駄な気がするし、もしかしたら勝負ができるのかもしれない。たとえ、それがただの幻想であり、アルガートが一撃で落とされたとしても、悪いが囮になってもらって逃げる時間を稼がせてもらうのだ。
頭の中で酷く冷静に考え、ミツイは非道な選択肢と思いながらもそれを否定しなかった。
自分の命が惜しい。ミツイにとって、それはとても重要な事項である。
ミツイはキマイラの位置を確認しながら走り出した。徒手空拳の使い手でもないのに素手で立ち向かうような暴挙はできない。
だがミツイの目論見は破られた。
キマイラは降りて来なかったのだ。
高さ10メートルほどの距離で空中停止したキマイラは、その獅子の口を開いた。牙が覗く口の中に、炎の核が点る。身にまとった紫色のオーラが赤色を増した。
ミツイが背を向け、走り出そうとした瞬間である。動きを見せた生き物に対し、キマイラは炎を吐き出した。
グオオオオオオオオ……!!
轟音と共に、炎の塊が吐き出された。炎は直径1メートルほどの球体をしていた。赤黒く燃え盛る塊がキマイラの口から放たれ、土に触れるなり燃え上がり焦がす。
ミツイに直撃しなかったのは、アルガートが盾を投げたからだった。命中したそれに軌道を反らされ、ミツイからほんのわずかに外れたところに落ちた。だがこれで、アルガートは盾も失った。燃え盛る炎によって黒焦げになった盾は、手にすることも叶わないほど焦げ落ちている。
キマイラはさらに炎の核を吐き出した。逃げ出すように剣と盾を拾い上げたミツイは、引きつった顔でそれを見上げた。
(当たる!!)
とっさに顔を庇おうとしたのは本能だろうか。手に持った剣と盾を掲げ、目をそむけかけた。それを、耳元で打ち破る声がした。
『チャント見て!』
何度か脳裏に響いた甲高い声だ。ミツイはハッとなって目を開けた。できれば見たくなかったのだが、迫ってくる炎の核が、見える。ミツイは魅入られないよう目をそむけつつ、炎の核から逃れた。
ミツイの足元で炎が弾けた。空気が焦げるような熱風に、ミツイは悲鳴を上げてのけぞったが、目や顔に損傷はなかった。多少火傷はしたかもしれないが、手も足も動くようだ。
「アルガート、これを!」
武具を渡そうとしたミツイは、キマイラが舞い降りるのを見て顔を引きつらせた。
着地した瞬間、キマイラは跳びかかった。それまでの空中での緩慢な動きとは一転、目にも止まらぬ速さで上腕を振り上げ、アルガートを抑えつける。そのままアルガートの首に牙を突きたてた。
速い。そして一切無駄がなかった。
対するアルガートもさるもの、短い剣を使って牙をガードすると、体を捻ってキマイラの下から抜け出した。
キマイラが体勢を整えて反転する、アルガートもまた数歩後ろに距離をとると剣を構えた。
ミツイが息を飲む。二者は再び交錯した。どうやらキマイラの攻撃は跳びかかって抑えつけ、噛み付くという流れをくむらしい。アルガートにも分かっているのだろう、跳びかかる瞬間に移動し、剣で受け流し、あるいは斬りつける。交錯するのは一瞬だけで、それ以外は距離をとる。完全に組み合ってしまえばキマイラの力を凌げないのだ。
さっきまでのはなんだったんだ!ミツイは思わず叫びたくなった。まるっきり別人じゃねえか。
ミツイがあの攻防の中にいたら、とっくの昔に噛み付かれている。離れた場所から見ていても動きが分からないのだ、当事者だったらなおのことだろう。
だがミツイの目にもアルガートの方が不利だった。先をつぶしてある剣ではキマイラの肉を裂けない。速度でも力でも、キマイラの方が勝っているのも分かる。
なんとか剣と盾を渡したいが、近づくのが嫌だ。
キマイラは業を煮やしたらしい。また距離をとると、今度は口を開いた。炎の核が吐き出される。
アルガートはそれを横っ飛びに避けると、懐に潜り込もうとし……。がくん、と膝をついた。
何が起きたか分からなかった。
だが、アルガートが膝をついたことで、キマイラは勝機と見たらしい。そのまま首筋に牙を立てようとするのを、ミツイは無我夢中で割り込んだ。キマイラの口の中に盾を放り込んで、鼻先に短剣の先を突き立てる。
ギャッッと悲鳴を上げたキマイラがのけぞる隙に、アルガートの容態を見た。
アルガートの首筋に蛇の頭が噛み付いていた。手に持っていた剣で蛇の胴を切り裂くと、蛇頭ごとアルガートを引きずり出す。キマイラから距離をとった場所で改めて見やる。蛇頭の力はすでに弛緩していたが、無理に引きちぎることができるかどうか、ミツイは躊躇した。
「おい、生きてるか」
「……蛇の毒が、回りきるまではな」
「解毒……」
「無理だな、この状況じゃ」
にやりと笑いながらアルガートは立ち上がった。
円形劇場の中央にいる自分たちとキマイラ。解毒の手段があろうとなかろうと、少なくてもこいつがいる間はどうしようもない。キマイラの口に放り込んだ盾は、ぺっと吐き出されて地面に転がった。惜しいことをした、とミツイは思った。
「動くと、回りが速いんじゃ」
「動かなきゃ、あの世が近いさ」
この期に及んで、アルガートは楽しげだった。5メートルの獣相手に通常よりも短い片手剣一本という状況で、逆に楽しそうなのである。実は大丈夫なのかと思いかけたミツイは、アルガートの首筋からどす黒い色が広がっているのを見て、考えを改めた。どの程度強い毒なのかは知らないが、放置していて良い毒ではないだろう。
「なあ、あの炎って、魔法?」
「さぁ、知らん」
「魔法だよな。発現の時に、赤くなってたし。うん、たぶん。で、だ。炎なしなら、あいつ倒せるか?」
「できなくはないだろう」
「よし。……剣を預けるから、やっちゃってくれ」
ミツイはアルガートに片手剣を渡すと、手枷をカチンと打ちつける。両手首に一つずつ嵌められたそれは、鎖がジャラリと伸びている。
ギリシャ神話のキマイラ退治を知っているだろうか。キマイラを倒せと言われた英雄は、鉛の穂先のついた槍を用意した。そいつを口に突っ込んで、わざと炎を吐かせる。口の中で鉛が溶け出して、キマイラは窒息するのだ。
その真似事がミツイに出来るか?否だ。まず、槍もなければ鉛もない。与えられていた片手剣と盾は金属製だが、おそらくは鉄。解けた鉄でも同じことができなくはないだろうが、そもそも熔けるかどうかが分からない。
代わりに、ミツイには手枷があった。




