35.ミツイ、剣闘士になる(その5)
開始早々の一撃は、盾によるものだった。高さを生かし、頭上から振り下ろされた盾の球面がミツイの頭をシェイクする。
ずしゃあああ、と地面に沈んだミツイへ、追撃は来なかった。そのまま蹴りでも来れば避けることはできなかったが、相手はそれでは気が済まなかったらしい。
「さあ、立て。俺を楽しませろ」
その美声は、観客席までは届かないらしい。楽しげに見下ろすロイネヴォルクの王子は、声音を裏切らない顔をしていた。心底楽しそうにしながら、クルクルと片手剣を振り回している。長さ1メートル近い刃物を回すなど、ミツイには正気の沙汰ではない。
「立てるだろう?俺は血を見るのも好きなんだ。なます切りにして赤いラインで扇情的に彩ってやってもいいんだぜ?けどさ、それじゃあつまらない。俺は戦いが好きなんだ。できるだけ長引かせていこうぜ、ミツイ」
これは誰だ。ミツイはそこに昨夜の姿を欠片一つ見出せない。
じゃり、と土が口の中に入ったことに気づいて、ミツイは顔をしかめた。ぐっと拳を握り、立ち上がるタイミングを計る。立て、と言うのは嘘ではないらしく、ミツイが立つまで追撃はしないのだろう。……ならば。
ミツイは飛び上がるなり、拳で握りこんだ砂を投げた。狙いとはズレて目潰しにはならなかったが、怯ませることはできたらしい。その瞬間に体勢を整え、地面に落としていた片手剣と盾を握る。手枷がジャランと音を立て、それからようやく口の中の土をぺっと吐き出した。
「その性格が本性かよ、アルガート」
「俺はいつだって本性だぜ。とびっきり戦闘好きな、『赤き竜』とも呼ばれる王子様さ」
「だったら魔物相手に最後まで戦うなりすりゃいいじゃねえか」
「残念ながら、竜を殺されちまうと空中戦は無理でねえ」
軽く応酬しながら、ミツイは構えた剣を繰り出した。初撃こそ攻勢に出られたが、アルガートは剣をさらりと受け流してカウンターを返してくる。切っ先の煌きが足りないことに気づいたのは僥倖だった……どうやらアルガートの剣は、剣先をつぶしてあるらしい。それは、突き刺せないということでは『無い』。片手剣の長さを短くしてあるのだ。おそらくは、ミツイと間合いを近づかせるために。
「……趣味悪ぃぜ、まったく!」
キンキンと金属音が爆ぜる。
楽しげに剣先を繰り出してくるアルガートに対し、ミツイは防戦一方だ。剣と盾、両方を使ってひたすら逃げる。払い、払い、受け流す。剣先をつぶした効果はもう一つあったらしく、アルガートの所作は速い。得物が軽い分、振り回しにかかる力が少ないのだ。ミツイの速度を見極めているらしく、段々速くなるスピードに、ミツイは目が回る。
「さあ、さあ、さあ!!どんどん速くなるぜぇ!付いて来いよッ!」
くそう。楽しそうにしやがって。
ジリジリとミツイは後退していた。押し出し一方のアルガートに対し、ひたすら避け、下がることしかできない。
なんとか体勢を変えたいのだが、気づけば舞台の中央からはずいぶん移動していた。
「どうしたっ!逃げるだけかっ!?」
アルガートの一撃に、ミツイの姿勢が傾いだ。左に避けたミツイの右肩が大きく裂ける。プシュッと赤いものがしぶきのように噴出した。すくい上げるように、ミツイの剣先が翻る。アルガートの手首を狙ったが、剣先が弾いたのは刃だった。アルガートが背をそらせた。半歩、下がったのだろう。アルガートの胴が空いたのが見えた。
ヅィン!鈍い金属音が響くより先に、ミツイは屈んだ。そのまま勢いよくタックルする。頭を押し付けてアルガートの足を両手で掴み、突進しながらアルガートを倒そうとする。
そのまま後頭部から落ちてくれないかという期待は叶わなかった。足を取られたアルガートは、たたらを踏むようにこらえながら、ミツイの腕から逃れた片足で地面を踏みしめる。片手剣を取り落とし、その腕でミツイの首を掴んだ。
「ぐがっ……」
ミツイは右肘を上げ、拳を振り上げる。ガツンと手枷がアルガートの顎を強打した。
拘束が緩んだ隙を狙い、とにもかくにも、逃げ出す。
「げっうげっ……がはっ……」
逃げたのは失敗だった。だが首を掴まれたままでは息が詰まって死にかねない。
不意を打ったつもりだったが、タックルがかわされたのは右肩を裂かれたせいだ。ダラダラと血が滴り落ちる右腕に力が入らない。とはいえ、肘が出せたということは腕は落ちてはいまい……それを確認する余裕はミツイにはなかった。
握力が落ちている。片手剣を握り続けるのがやっとだ。剣先が我知らず下がる。
ゆらっと剣先を上げて、ミツイはアルガートを見据えた。アルガートは片手剣を拾っていた。咳き込んでいる間に完全に体勢を戻してしまったらしい。戦いというのは途中でやめると立て直しが困難だ。
アルガートは喜んでいた。目が爛々と輝いているのだから間違いない。こいつは戦闘民族に違いない、とミツイは思った。
「いくぜぇえっ!」
剣先が再び交差する。盾で受け流しながら、状況がますます悪くなっているのを理解した。右肩負傷で左右のバランスが崩れたミツイに対し、アルガートにはまったくダメージが入っていないのだ。
さらに速度は増した。どうにか剣先を盾で流したミツイは、アルガートの右脇を回り込もうとして蹴りを受けた。
「ぐがっ……」
よろめいたところを、盾で頭を払われる。追撃とばかりに剣先が降ってくるのを見て……、盾を投げる。咄嗟に剣で盾を払おうとするのが見えた。切っ先をくぐりぬけて背後をとると、ミツイはアルガートの首筋に刃を立てた。
「何!?」
アルガートの背側から首を囲むように、右手の片手剣の切っ先を、左手で支える。立てた刃は、少しでも力を込めれば首が落ちるぞと脅すように。このまま剣を引けば、首筋を切り裂いて死ぬと分かるように。
起死回生の策だったが、アルガートは冷静だった。ミツイの両手首を素早く掴み上げると、そのまま強引に拘束を破った。片手剣も盾も取り落としたが、それはミツイも同様だ。手首を握りつぶす勢いで掴み上げられ、ミツイの手から片手剣が落ちる。もともと右手には力が入らない。それを、左手で支えているだけだった。
両手首を掴み上げられたまま、ミツイはアルガートの背に抱え上げられた。
「げっ……!?」
足が浮いた。
こんな強引な一本背負いがあってたまるものか。抗議する気持ちをよそに、ミツイは見事に宙を舞った。
ミツイは柔道の経験がない。そのため受身がとれない。学校によっては中高の体育で習うらしいし、近年は必修項目になりつつあるそうだが、たまたまそのカリキュラムのない学校にいたのだ。仕方がない。
だがこの場合は受身がとれたところで役には立たなかっただろう。
ミツイは、ハッと気づけば投げられていたし、驚くことに地面に落下した際、少しも痛くなかった。
「ッッッ…………」
アルガートはよほど上手く投げたのだろう。そう思いながらミツイは空を見上げた。
地面の感触が背中にある。土がクッションになったのだろうか。痛いのは痛いが、それは右肩だ。強引に投げられたせいで脱臼してたらどうしてくれよう。
覗き込んでくるアルガートは、実に楽しそうに笑っており、「さあ、立て。続きをしよう」とばかりにゆっくりと片手剣を拾おうとする。
『アブナイよ!』
再び甲高い声が脳裏に響いた。
「……え」
空を見上げるミツイの視界に、奇妙な影が走った。
それはみるみるうちに巨大化していく。それが『何か』は分からなかったが、近づいてきているのだとはすぐに分かった。
「っ……避けろ、アルガート!」
地面に仰向けになったまま、ミツイは叫んだ。
驚いたアルガートが空を仰ぐ。影はますます大きくなっており、その姿がはっきりと分かるようになっていた。
「な……!?」
アルガートの表情に焦りが浮かんだ。片手剣と盾を装備し、構えをとる。
円形劇場に集まっていた観客の中にもそれに気づいた者が出始めた。慌てた誰かが叫び、誰かが立ち上がり逃げ出そうとする。人々の動きが急激にはじまったことで、場は騒然とする。
VIP待遇で見学していた貴族たちは、我先にと逃げ出す者と民の脱出誘導に加わる者とに分かれた。
「なぜ、魔物がエルデンシオに!」
アルガートの声が、すべてを説明していた。




