第二戦 愛屋及烏
どうしても将護には家に帰りたくない理由があった。
不知火 八雲の家の一室。ベッドの上で将護は家に電話をかける。
「うん、うん、んー、大丈夫。分かった、はいよ。おう……」
延々と続く母親の声を将護はくらくらする頭で聞いた。半分は何を言っているか分からないが、向こうに迷惑をかけるな、帰れるなら帰って来なさい、そんなことを言っている気がする。
「代わります」
「やっくん……」
八雲が戻り、すると落ちるスマホを拾って部屋から出た。
随分畏まった口調で母とやり取りしている。そうなると長い。布団に頭を預けると八雲の匂いと神社の匂いがした。
不知火 八雲は将護の元、同級生の不知火 出雲の妹だ。今年で高校生になる。つまり後輩と言えば簡単だ。
そして忘れもしない。八雲の中学の卒業式に将護は告白された。
散る桜は舞うと表現すべきなのだろう。
荷物を運ぶ手伝いで将護は懐かしの母校に来ていた。
「あの……ありがとうございます」
「いや、いいって。あのアホは当てにならねぇ」
「……はい」
おや、とは思った。普段なら姉を馬鹿にされると激怒する八雲が妙に静かだ。
「しかし、流石。置き勉は無しで荷物はジャージぐらいだな」
「はい。少しずつ持ち帰ってはいたのですが、やはりどうしても多くなってしまって」
「良いよ。暇だし」
その時、妙な間があって将護は振り向く。
「あの……先輩は……姉さんに頼めよ、とは言わないのですね」
「何で。アイツはラクロス部があるって言ってたし無理だろ?」
「違うんです。当然のように来てくれるんですね……」
「何、姉貴呼んで来た方が良かったか?」
「いいえ」
声がやたらとハッキリと響く。
将護は顔を上げると、八雲と瞳が合った。まるで硝子のような美しい瞳。黒く、細い睫毛。桜の花さえ霞む美しい黒髪。
まさに絶世の美女だ。
高校生になって、やっと八雲の背丈を追い越す事が出来た。そんなことを考えていると、八雲はしばらく沈黙して深い色の瞳は透明感で光った。
その瞬間、おや、とは思った。
「私は貴方の事が好きです」
迷いなく八雲は言い切る。
将護はさて、どうしたものか、と頭をぼりぼり掻いた。将護が口を開こうとした瞬間。八雲は動いた。
「待ってください!」
「お?」
「このままでは私は貴方に振られてしまいます」
「……そうだな。俺は何かを同時にやるほど器用じゃねぇ」
「だから……許可が欲しいのです」
「……許可?」
「貴方を、想い続けることを許して欲しいのです」
その言葉に将護はさらに悩む。
桜の桃色。将護の艶やかな真紅は見事なコントラストで八雲は将護の頭の上に乗った花弁をそっと取った。
「そんなのに許可なんて……」
「いります。いるんです。もちろん、貴方が迷惑に思うようなことは絶対にしません」
切な瞳。
将護は姉から良く話を聞いていた。
妹の八雲は信じられないほど美人で、気立てが良くて賢いのだと。確かに姉の出雲は少し寸胴で(ロリ体型と言えば聞こえはいい)初見ではどっちが姉か分からないだろう。
出雲は出雲で良いヤツではあるのだけれど。
将護は数分考える。
「分かった」
「……え?」
「良いぜ。好きにしな。ただ、お互い苦に思ったらさっさと止めた方がいい。お互いの為にならん」
「え、……振らないのですか?」
普段からクールで無表情の八雲の顔が歪むのは珍しい。
将護は頷く。
「ぶっちゃけ、俺は恋愛したこと無いから分からないだろうし、期待すんなよ。して欲しいことは言え」
「……あの、では、ささやかですが……」
「ん?」
「名前で呼んでも良いですか?」
「好きにしな」
彼女との関係をどう表すれば良いのか、それは将護にも分からない。
将護は彼女に猶予を与える事にした。将護が高校を卒業するまでに。その想いが憧れなのか。恋愛なのか。はたまた、将護を知り幻滅するのか。
しかし、彼女はぶれなかった。
ひたすら将護の良き理解者であろうとした。彼が非とするものは必ずせず。まるで側に居るだけで幸せそうに微笑んだ。
簡単に言うと、彼女の姉、出雲とは幼馴染みと言うことになる。この家は古い神社で家も木造だ。
八雲の部屋も、女子高校生とは思えないほど装飾品は少なく、唯一ベッドと勉強机と可愛らしいピンクのちゃぶ台がある。これは姉の出雲が少しは女の子らしくしよう! と強引に設置した物だ。
ガラガラと扉が開く音がする。
「何か、口に入れますか? 雑炊とりんごがありますけど」
ひょっこり、八雲が顔を出した。
どうやら将護は眠っていたらしい。
「悪いな。残すかもしんねぇけど、貰って良いか?」
「はい!」
彼女は笑顔でちゃぶ台にお盆を置いた。土鍋の中は卵雑炊。それと小さな小鉢に入ったりんご。
将護が家に帰らずにここに来たのは理由がある。
八雲は全て将護が良しとするものと駄目だとするものが分かっている。食事中には変なことはして来ないし、極力会話もしない。お盆の上には薬と体温計、全て揃っている。
言ってしまうと、家にいるより圧倒的に楽なのだ。
家に帰宅すれば家族は心配する。
父はこの時期に風邪など情けないと怒る。母は誰が双子の夕飯を作るのかと嘆く。双子達は母のマズイ……夕飯に号泣。
まるで、休息する余裕もない。
誰かが、将護がやらなければ家はひっちゃかめっちゃかだ。
「……将護さん?」
「いや、今、家がどうなってんのかと考えたら悪寒が……」
「大丈夫です。何も考えないで」
こてん、と八雲は将護の頭を胸に引き寄せる。
温い。
「将護さんの家には私が後で向かいます」
「悪いな……」
「良いのです。私が好きでやっていることですから」
薬を飲んで彼は少し眠った。
目覚めると、彼女の胸の中だった。落ち着くし、温いし。安らぐ。
時間を見ると夕方だった。まだそんなに時は経っていない。
その時だった。
将護はむくりと起き上がる。
「将護さん?」
「嫌な予感がする。ちょっくら、学校に行ってくる」
「今、ですか!?」
「ああ」
八雲は将護の顔を見た。もう戦場に向かう戦士の顔だ。
「分かりました。お気をつけて。くれぐれも無理は」
将護はただ、頷いた。
ふらふら、心もとない動きで学校に向かうと体育館にはには明かりが点りその周囲だけ明るくなっていた。
将護は思わず顔をしかめる。
八雲が温かい格好で行け、と五月蝿いので学ランの上を羽織ってよろよろと体育館に行く。
珍しく全面コートで試合をしている。
してはいるが。
ボコボコのコート。飛び散る羽。酷い有り様だ。
コートにはカルロスと透。カルロスがラケットで球を拾うと、球は跳ね返り点にすらならず、ボーンと得点ボードに当たり凹んだ。
「ありゃありゃ」
「さっちー!!」
兼平が叫んで将護の元に駆け寄る。採点しているのは顧問の松前先生と、おそらく向こうのチャラそうな金髪は番商の監督だろう。
「世渡は分かる。けど、あのでかくて黒いのは?」
「アメリカからの留学生。もー、今日はやらないって言ってるのに大変だよ」
「日本語は?」
「片言に。スラングばっか覚えちゃえって。それで、英語出来るカルロス君に喧嘩売るわ、透君は止めようとして巻き込まれるは」
「射場は?」
「まだ病み上がりには危険すぎるから、避難させたけど」
「正解だ」
将護は学ランを脱ぎ、アップを始める。
「……え、正気!?」
「ウチが丁寧に使ってた備品、ぶっ怖しやがって」
ラケットを持つ将護を見て、兼平は止めることを止める。
また、飛んで来た羽を打ち返せなかった。
手は痙攣している。
「何だよ。ダブルスが強い、って聞いたけどこの程度?」
悔しい。悔しくて、カルロスは立つ。
「おい、もう……」
透は止めようとした。コートに落ちなければ意味がない。
これは最悪なゲームだ。後、一点でワンセット取れるのに。相手はわざとそうしない。
カルロスにぶつけて、跳ね返った球を得点ボードにぶつけていた。
名前はユクス・サウター。突然、練習中に現れて一人でダブルスの相手をしてやると抜かした男だ。
言うだけあり、恵まれた体格。恵まれた筋力から放たれる球はどれも強力だ。
「くそ、くそ……」
「Player change」
その時、やたらと発音が良い声が響く。
誰しもがその一点に集中した。
『佐武先輩!?』
透は思わず叫ぶ。
「駄目です、危険ですよ!」
「はは、今度は随分カワイコチャンガ来たな。OK、カモン」
ユクスはくいくい、と指を動かす。
そんな姿を見て、兼平は思った。
「あー、さっちーを挑発するの、やめた方が良いと思うな~」
将護はカルロスの肩を叩いて、一言。
「下がれ」
その声の深さに、カルロスは無言で下がった。
兼平の元に行くと救急箱を笑顔で取り出される。
「大丈夫ですか? あの様子じゃ、まだ……」
「さっちーなら大丈夫だよ。この一戦。良く見なさい」
兼平の部長の部長らしい言葉に、カルロスは頷いた。




