「交通事故、ただし流血なし」
六道清二は第一に面倒が嫌いで、第二に信条のためならいかなる面倒でも背負い込む自分が嫌だった。
現場保存のために張られた黄色い規制線の前で、若手の巡査がやってくる先輩刑事に配っている白い手袋をはめながら、彼は無精髭の生えた顎をさすりそうになるのを堪える。腕時計を見ると、時刻は夜の八時を回ったところだ。いつもならば既に帰り支度を済ませている時間帯である。今日も今日とてオフィスでの電話相談や所轄を回って有識者による懇談会の参加に追われ、くたびれ果てていた矢先の唐突な招集命令。面倒だったら来なくていい。中途半端な命令にふたつ返事で行きますと答えた十分前の自分を呪いながら、六道は憮然としたまま野次馬の壁を一瞥して人混みへ向かって歩く。何しろ相手方はまるで知らない人物ではない。少なくともいくつか借りはある。だからこうして出張ってきたわけだ。
新宿の街は夜の営みに忙しない。中でもこの時間帯、最も目につくのが大勢通り過ぎていくスーツ姿の男女だ。駅周辺に多数の高層ビルが立ち並ぶ大企業の城下町ともいえるこの街には、その面積だけでは想像できないほど多くの人間が活動している。これだけの人間が密集していながら道幅は広く、歩道もゆったりと確保されているから不思議だ。高層建築の発達は思いもよらぬところで驚きを与えてくる。日が落ちてしばらくすれば、疲れ切った彼らが道路に氾濫し、洪水を起こすのだ。そして目の前には数多くうろついている鑑識と、よれよれのスーツを身に纏った刑事たち。人混みの中を縫うように進んで、何かを取り囲んでいる男たちの一団、たったひとつの見知った背中へ声をかけた。
「どうも。六道、現着しました」
男たちが緩慢な動作で振り返った。どの顔も疲労の色が濃い。つい先日まで徹夜をしていたとみえる。疲労困憊という点では六道と大差はなさそうだった。その中でも生え際が少し後退した背の高い男が歩み出て、六道へ向けて親しげに右手を上げて挨拶してくる。捜査二課の田邊明彦だった。六道が新米警察官として本庁に配属された時から、何かと現場で出会う腐れ縁だ。そして一時期を捜査二課で過ごした彼に面倒をかけ、雑多な尻拭いをしてやったのも田邊だった。そんな訳で、本来は義務も無い他課からの呼び出しに応じざるを得なかったわけである。
六道は軽く頭を下げ、どうやら現場指揮を執っているらしい彼の元へとさらに歩み寄った。年の喧騒はそれなりに大きい。電気自動車の普及によって、道路周辺の騒音はかなり抑えられたのは事実なのだが。
「こんばんわ、田邊さん。仕事熱心ですね」
「そういうお前もな。そろそろ帰ってるかと思ってデスクにかけたんだが、案の定、来ちまうとは。そのお人好し、いつか直さないとくいっぱぐれるぞ。ひどい顔しやがって。しっかり寝てんのか?」
「顔のことはお互い様ですが、肝に銘じておきますよ。それで、何事ですか。たかが交通事故に情報犯罪課の警部補寄越すなんて、訳が分かりませんよ。どう考えたって管轄外だ」
田邊の背後で、なおも中腰になって現場を見つめている男たちの目の前には、停車した赤色のワゴン車がある。ちらりと脇に目を逸らすと、捜査二課の刑事二人が髪を茶色に染めた若者に事情聴取をしていた。小型のスレート端末で取り調べの様子を録音しながら、手元の警察手帳に直筆で内容を書き記していく。首を回せば鑑識の周りをうろつく巡査や、交通整理に当たる道路交通安全課の連中までもが駆り出されている。ただの交通事故にしては大がかりな現場保存態勢で、通常なら暇な巡査あたりが数人派遣されるのみだが、今回は毛色が違うらしい。何と言ったって天下の警視庁、その捜査二課を数多く動員しているのだ。深くなった都会の闇に警棒を片手に突っ込んでいく切り込み隊長としての役割を持つ彼らをわざわざ派遣するのには、それなりの重要性が必要になる。ただ事ではないのは確かだが、今の所、六道の目にはただの交通事故現場にしか見えなかった。それも交差点のど真ん中という少々厄介な程度。
田邊は疲れた顔を両手でさする。彼は手に手袋をはめていない。何かを調べるのは部下の仕事だ。彼は命令を下し、それを統括する仕事を割り振られている。自分の手ではなく他人の手で証拠を探す仕事だ。思った以上に疲れるし、神経も使う。技術の進歩で証拠能力を持つ遺留品リストは日進月歩の歩みを刻んでいるが、それにつれて現場での初動捜査の重要性も増し、責任は増える一方だ。六道は自分に昇進辞令が降りない事を心から祈った。警部になれば部下が付く。そうなれば今の様に、自分の手で手際よく仕事こなす機会はめっきり減るに違いない。代わりに増えるのは心労とデスクワークだ。ペンを握るために警察官になったわけではないと思う。
「この事件の説明だけしても理解できるかどうかわからんが、お前の場合、ヒントを与えすぎると深読みしてとんちんかんな事を言い出すからな。かいつまんで話すぞ」
「お願いします」六道は利口に口をつぐんで、「呼ばれたから来たのに」という文句は飲み込んでおいた。田邊は頷くと、盛大な欠伸をひとつしてから話し始める。
「状況はこうだ。ここは西新宿は甲州街道、その上り側にある中央道との合流点付近。あのワゴン車の運転手は、いつも通り仕事先から自宅へと帰る途中だった。彼は毎週月曜はこの時間帯に帰宅する習慣があり、通勤に自分の車を使うのもよくある事らしい。業務の範疇にあるといえる。今日は雨が降っていただろう? 午前中でやんだが、バスの混雑を嫌う彼はいつも雨の日は車で通勤しているんだそうだ。そしていつも通りに仕事場からいつも通りにこの街道へと車を走らせ、交差点を右折しようとした時、撥ねちまった。どかんと一撃、相手は真っ二つ」
両手で何かが弾けるジェスチャーをする田邊に顔をしかめながら、六道は背広の前を開いた。残暑が少し蒸し暑い。九月に入ったというのに、夏はまだ人々を蒸している。嫌なにおいが立ち込めないのを祈るばかりだ。
「話を聞く限り、そう珍しくもない交通事故ですね。だってのに、どうして捜査二課が出るんです? こんなのは巡査の仕事ですよ。説明になっていませんね」
ぶっきらぼうに思った通りのことを言うと、田邊は薄い笑みを浮かべた。お前の言い分はもっともだと呟き、ボンネットのへこんだワゴン車を身振りで示す。
「それは、見た方が早いだろう。こっちにこい」
ワゴン車の方へ歩き出す田邊の背中を追いながら、六道清二は露骨に顔をしかめた。心なしかネクタイを緩め、静かに深呼吸する。
彼は血を見るのが苦手なのだ。巡査時代にも、交通事故や流血沙汰になった暴力事件などで仲裁に入ったり現場処理した時も、青ざめた顔で口元を抑えながら仕事をこなしていたものだった。今ではマシにはなったが、苦手な事には変わりない。情報犯罪課へ転属したのはそれが理由のひとつになっている。他人からすれば何を温い事をと揶揄された。しかし当人にとってはどうしようもない事もある。そしてそういった他人の苦労に気苦労を背負いこむほど他人はお人好しではない。
「もう何年になるんだかな」
静かに呟き、六道は赤いテールライトを重ねられた自分の影を見つめる。
六道の所属している、元警視庁サイバー犯罪対策課を基礎とする情報犯罪課は、その名の通り増大しつつある情報犯罪を専門とする部署で、主に理系の人間で構成される。出身は国公立大学から専門、高専、元サラリーマンまで様々。高度情報化社会において他人のプライバシーを軽々と破る犯罪が後を絶たない社会の闇に大胆にもメスを入れていき、可能であれば腫瘍も摘出して去っていくのが彼らの仕事だ。銀行の金融管理サーバーや企業の研究情報データバンクなどへのハッキングを未然に防ぎ、組織的な犯行を挫いたり、情報化社会における心得を小中学校で講演したり、一般からの相談なども請け負っている。こうした企業利益や個人の情報の自由が脅かされているのならばそれを守るのが国家の務めで、旧来から情報学的犯罪対策能力が不足していた警視庁をはじめとする各自治体の警察組織は、当時、情報不況により多く流れていた情報技術者を多量に吸収してサイバネティクス適応力を高め、まずは己の情報リテラシーを育み、時間をかけて情報犯罪課をはじめとする情報化社会専門の対策班を組織する下地を醸成してきた。
情報犯罪課員として勤務するには、じゅうぶん以上のスキルを持った人間が必要になる。そうして白羽の矢が立ったのが、六道清二という男だった。元々高専で情報系の学科を受講してから大学へと進学した経歴を持っていた彼は、本人が転属願いを出していたことも相まって人事部の目に留まった。課が設立されて早くから頭角を現し、当時はまだ情報犯罪も扱っていた捜査二課、今では新設されて久しい情報犯罪課の警部補という地位についている。そんな彼が交通事故の捜査に駆り出されるのだから世も末というものだろう。
田邊が立ち止まる。ここだ、というように顎をしゃくってくるところからして、見なければならないらしい。意を決して、六道は立ち止まった田邊の隣からワゴン車の脇に視線を落とした。
案の定、人の体が転がっている。重たい金属の塊に衝突された人体の破片が造作もなく水溜りの中に転がっていた。彼の位置から見えるのは右腕と踵の部分だけで、後者は左右の区別がつけられない。こみあげてきた吐き気を堪えながら目を逸らす。
「わかったか、六道」
「何がですか。やっぱりただの事故現場じゃ――」
「なんだって? もういっぺんよく見てみろ。これが捜査二課まで出された理由だ」
田邊の迫力に気圧されて、六道は不承不承に転がった右腕を見やる。そこではたと気づいた。
血液が出ていない。今朝から残っている水溜りは透明な雨水を湛えており、血痕らしきものもアスファルトの上には見つけられない。よく見ればワゴン車にも血が付いた形跡はなかった。転がっている人体の欠片にも血液らしき液体は認められず、血の匂いも鼻腔をくすぐることは無い。
驚いて、六道は手袋をはめた手をこすり合わせながらさらに現場へと近づく。鑑識が怪訝な目で見やってくるが、無視してワゴン車の反対側へ回り込み、最後には下を覗き込んだ。ガラスの瞳と目が合い、思わずどきりとする。
「どういうことかわかったか、六道」
立ち上がった彼に、再び田邊が問いかけた。六道は頷き、手袋を脱いで丸める。
「なるほど、なるほど。こりゃまた面白い事件に足を突っ込んじまったみたいですね。田邊さんも災難だ。こいつは厄介な案件ですよ」
「そう言うと思ったよ。お前の見立てでは、どうだ」
六道は潰れた右大腿を眺めながら、素手で顎をさすりながら唸った。大腿骨はしっかり見えているが、白い骨の色はしておらず、金属が街灯と警戒灯の光を鈍く照り返している。
「機械人形の三命題、第三条に違反しますね。こいつは自分自身を守らねばならなかった筈だ。そうでなけりゃセールスポイントがなくなっちまう。田邊さん、こいつは自ら交差点に?」
彼は頷く。ますます六道は顎をさすり、目の前の不思議な出来事に思考を巡らせた。
この被害者は人間ではない。機械人形だ。残った頭部の残骸を見る限りは恐らく男性型。青いチョーカーがちぎれ、耳に引っかかって風に揺れている。破壊された原因は間違いなくこのワゴン車であるが、最近の自動車は自動制動装置を積んでいるから、唐突に目の前に彼が現れたりしない限り事故など起きよう筈もない。ましてや、機械人形は人間と違ってふらりと道路に飛び出したりなどということは絶対にしない。高度に知能化された疑似人格は、世間一般で言われるように生半可な構造を持ってはいないのだ。無駄な動きを一切しない機械人形は感情豊かに人間に接するがそこに気の迷いはない。全ては計算しつくされ、無駄は省かれている。気の緩みなんてものは存在しても、それを表に出す事はない。こういったことが重なれば、機械人形自身が社会の中で害を為す一因として認知され、排斥されかねないからだ。そうなれば世に数ある製造業者は大打撃を受ける。防ぐには、こうした事故を事前に防止するしかないということだ。
と、ここまでが多少なりとも機械心理学をかじった人間なら誰もが理解している基本事項。問題はその先にある。つまり、無駄な動きをしない機械人形がどうして車に轢かれたのかという点だ。しかも状況から見る限りこれは自殺と取れなくもない。自発的にワゴン車の進路を妨害しない限り、こうした事故は起こり得ない。残された答えは信憑性に乏しいが、それが真実であると大昔の誰かが言っていた気がする。
六道は周囲を見回した。別段、怪しい人影はない。野次馬の中に、このアンドロイドを突き飛ばしたと思われる人間はいないだろう。しかし、論理的に考えて苦しい部分は、そういった外的要因から生じる歪みである可能性が大きい。どちらにしろこれは極めて大きな意味を持つ事故であることは間違いないと、暗雲立ち込める心境で彼は頭を掻いた。早く帰って風呂に入りたいが、そういう訳にもいかなさそうだ。
「田邊さん、聞き込みは? あの野次馬の中に、事故当時から居座ってる人間はいますか」
「さあ、どうだろうな。何しろ発生からそろそろ三十分だ。いるかもしれないが、あまり期待はできん」
「結構です。この件、俺ひとりで動いてもいいですか。どうにもこうにも、気になって寝れそうにないんです。それに、仲間がいちゃ動きづらくして仕方ない。いいですか」
「やっぱりお人好しだよ、お前は」
何故か嬉しそうに田邊は言った。六道は複雑な思いになる。お人好しとは誰に対してだろうか。間違いなく自分に違いない。機械にまで暇と労力を割く馬鹿という意味合いなのかもしれないが、田邊がそのような迂遠な中傷をする男ではないと知っていた六道は、皮肉気な笑みと共に頷いただけだった。
「本案件に関する課外捜査を、捜査二課課長として許可する。といっても、報告書は俺が読む立場にないのが癪だがな。もしかしたらそっちの管轄かもしれんが、事情が事情だ。しばらくは不認可で通すことになるだろう。つまりタダ働きだ。何かわかったら報せろよ。それと、手助けが欲しい時は言え。頭数足りないだろ、そっちは」
「だから人手なんていりませんって。でもありがとうございます。今度酒でも奢りますよ」
「抜かせ。お前の安月給でどうにかなる居酒屋がどこにあるってんだ」
付き合いの長い上司からきつい冗談を言われながら、手を振って六道は街道へ引き返す。規制線を出る時に丸めた手袋を巡査に手渡し、彼の律儀な敬礼を見てから、六道は背筋を伸ばした。
さて。
すぐ傍の路肩に停車している警戒灯を目一杯光らせているパトカーまで近寄り、警察手帳を示しながら無線を使っていた鑑識に声をかける。彼の頷きと共に六道は後部へと回り込み、トランクを開いた。記憶にある通り、中には警戒表示板やチョークなどの細々とした備品が納められており、その中から古びた拡声器を拝借する。少し持ちにくい銃のような形のそれを口元にあて、交差点を埋め尽くそうとしている様々な顔をした野次馬へと怒鳴った。
「市民のみなさん、どうかご協力ください。この事故が起こった瞬間を目撃した方がこの中にいらっしゃいましたら、私のところまで説明を願えませんでしょうか。どうかご協力ください。私は警視庁捜査二課の六道という者です。どうか、事故の起きた瞬間を目撃なさった、あるいはその場に居合わせていた方がいらっしゃいましたら、私の所までお願いします」
いったん呼びかけると、あとの反応は早かった。群衆は一斉に疲れた顔を六道へ向けると、その中から数人の人影が、規制線の方へと歩いてくるのが見えた。ざっと、四、五人ほどだろうか。手の空いた巡査達が関係の無い者は速やかに帰宅するように呼びかけ、人混みをかき分けるようにして近づいてくる目撃者をパトカーの屋根に身を持たせて待ち構えている六道の元へ誘導していく。
現場に残って野次馬根性を発揮していたのは、正確には四人だった。私服姿の男が三人、女が二人。ふらりと人混みをかき分けてやってきた彼らを、巡査が渋い表情で連れてきて、そのまま立ち去っていく。面倒事は嫌いの様だ。そしてその面倒は、押し付けられた六道にしてみればたまったものではなかった。
「厄介なことになった。お人好しってのも頷けるぜ」
六道は毒づいた。
やってきたのは、全員が機械人形だった。首にはめた青と赤に分けられたチョーカーを気にする風でもなく、彼らはガラスの瞳でくたびれた彼を見つめている。
今日は徹夜になりそうだ。ぼさぼさの髪の毛を掻き上げながら、ため息をついて天を仰ぐしかなかった。
*
事務所の壁ひとつを占拠している長方形型のガラス窓の向こう、昼間の燦々たる陽光に照らされてアスファルトの地面に影を落としこんでいるビル群を眺めながら、秋津清隆は手元にある書類の件も忘れて、その現代の神殿とも呼べる荘厳な風景にしばし呆けたように見入っていた。
たかだか三人、稀に一機がやってくる探偵事務所は、応接室と事務室を衝立も使わずに一緒くたにした様式で、ガラス窓の真正面にはシンプルにレイアウトされた事務所長のデスクがある。南東を向く窓に向かって右奥には扉の無い続き部屋となっている給湯室があり、今は前島冴子がコーヒーを淹れているのか香ばしい豆の芳香が鼻をくすぐる。給湯室へ続く短い廊下の脇には二次元プリンターとふたつのデスクがあり、中でも一番入口側に近い席に秋津清隆は座っている。駅の巨大ロータリーから徒歩十分ほどの距離にあるこの雑居ビルはまだ築十年も経っていない、まだ若い物件だ。その割には周辺を取り囲む騒音や空気の悪さで実年齢よりも老けて見える。
西側を向いた清隆の真正面には茶色い木材でかたどられた巨大な本棚が置かれ、大小様々、ひとつとしてジャンルが揃うことのない専門書の数々が置かれていた。無言のまま存在を主張している彼らの所有者は、事務所長のデスクの上に行儀悪く両足を投げ出し、懐古主義の一端で作られた黒電話風の受話器を耳にあてがって熱心に話し込んでいる。窓の外の景色から少しだけ目を泳がせて彼の緩んだ頬を眺め、再び秋津清隆は外に視線を投げた。
「はい、それでは報酬は指定口座振り込みという形で。ああ、いつまでが期間内かということでしょうか? そうですね、今日を含めた今後一週間以内にお振込みの確認が取れれば、それで契約は終了になります。できるだけ早いご入金をいただけますと、こちらとしても有り難い限りです。はい。はい、毎度ありがとうございました。またのご利用、お待ちしております。それでは」
受話器を置くと、杤原惣介は足を床の上にばたりと落とし、笑みと共に親指を立てて見せた。清隆は窓から彼へ視線を移す。その瞳には何も映ってはいない。先日の徹夜で少し頭がぼんやりしているせいだろう、あまり物事を深く考えられるような体調ではなかった。事務所に就職したばかりの頃はどれだけ働いても疲れは取れたが、最近はけだるい事が多くなった実感が疲労感と共に押し寄せてくる。
今年で秋津清隆は二五歳になる。そろそろ年だろうかとぼやきさえすれば、目の前の御仁から痛烈な一発をもらって頭もすっきりするかもしれない。
「秋津君、君の持ってきた案件だが。最終的な報酬金額は十七万だぞ。これだけ割のいい仕事も無いよ、よくやった」
「はぁ、ありがとうございます。でも僕は仲介を務めただけです。仕事したに過ぎません」
珍しく人を褒める上司に放った気の無い返事を気にすることも無く、杤原惣介は上機嫌なまま席を立ち、そのまま応接用に部屋の中央でその時を待っている黒革のソファに腰を落ち着けた。軽く肩を叩いて自分の体を労っている。
「なに。探偵業は儲かるが、今日のような収入は稀だぞ。依頼の質にもよってくるし、私達が依頼をするわけではないのだから、ギャンブルのように金になる仕事が回ってくるのを首を長くして待つしかない訳だ。だが君の場合はその常識を覆すもの。自分から仲介という手段に打って出て、我が事務所によい条件の案件を持ってきたわけだ。世の中の探偵たちが喉から手が出るほど欲しがっている人材だよ。自信を持っても罰は当たらないぞ」
「お言葉だけありがたく受け取っておきますよ。滅多に人を褒めない人から感謝されると、なんだか変な気分になりますから」
「何を楽しそうに話しているのかしら」
トレーに湯気の立つマグカップを三つ載せて、前島冴子が給湯室から姿を現した。ショートボブに切りそろえられた黒髪を揺らし、タイトパンツに白く染め抜かれた絹のシャツを着ている。その髪型はボブにしては厚みが無く、その代りに艶めかしい光沢を放ち、一目見た限りでは年齢が図れない。少し厚い化粧はどちらかといえば美貌を抑えることに使われている。そこが仮面の様にファンデーションを塗りたくっているだけの女性とは一線を画す、前島冴子という女性の魅力のひとつだった。彼女は細い指で熱いカップを自分と清隆のデスクへと置き、最後のひとつを杤原が腰かけている応接用ソファの前にある平テーブルの上に滑らせ、トレーをもう片方のソファの上に放り投げた。少し粗雑なところも彼女の味だ。そう思いながら、清隆は早速カップに口を付け、舌を火傷する前に離した。
「君よりも秋津君が優秀だという話だ、前島冴子会計士」
ぶっきらぼうな受け答えに、冴子は右眉を吊り上げて自分の席へ戻ると、ブルーライトカットのレンズが嵌め込まれた赤いフレームの眼鏡をかけてコンソールを起動した。言葉の通り彼女は公認会計士で、この事務所内での不正な税取引や価格取引、脱税行為などを監督、必要があれば裁判所へと報告する義務を負っている。その彼女が文鎮を手に持って身振りで脅迫をかけると、杤原は両手を上げて降参のポーズをとった。その様子を微笑ましい思いで清隆は見つめている。
十年ほど前から、探偵は免許制になった。今や「私は探偵です」と殺人現場で名乗れば探偵になれるわけではない。それ以前でも、日本では公安委員会への探偵業開業のための申請など、各種手続きがある状態だったが、さらなる発展を遂げた高度情報化社会において個人情報やプライベートの問題が熱をもって騒がれるようになった。浮気調査、企業の既得権益を暴くなどの企業情報、個人情報に深く食い込む様々な面で情報収集を請け負ってきた探偵たちに楔を打ち込む探偵法が制定され、既存の探偵業務に関する法律に取って代わる拘束力を持つことになった。国家資格化した探偵業は、現代では一定水準以上の能力と見識、そして良識を備えなければ成り立たない職業として成立しており、相変わらず将来にやりたい職業の番付には入れずにいる。この新宿駅からほど近い場所に居を構える杤原探偵事務所も含む全国の探偵事務所は、情報が金よりも価値あるものとして流通する社会のどちらかといえば灰色から黒色の範囲から多額の報酬を得て存続している、今現在、なんとか上向き始めた日本経済の中でも著しい業績を残してはいる職種でもある。特定の依頼人より要請を受け、賃金と引き換えに指定された事象を調査・報告する業務。それが探偵業であり、秋津清隆の所属する事務所の主な仕事内容だった。
といっても、彼自身が張り込みや聞き込み、尾行などを行う訳ではない。三人の事務職員のうち、探偵免許を所有するのは杤原惣介ただ一人で、前島冴子は税理士事務所から派遣されている公認会計士という身分なので、厳密に言えば彼女も事務職員ではない。あくまで出向という形である。杤原探偵事務所に籍を置いている人間は事務所長である杤原と清隆、この両名のみであり、彼はもっぱら依頼人の仲介や宣伝、事務所内の整理から給仕までを幅広くこなす庶務係として働いている。杤原に依頼が渡される前に、清隆が携帯端末端末の中に押し込んだ六法全書やコンソールから呼び出せる各探偵事務所で取り扱った前例案件などを検索し、果たしてその依頼を受けても法律違反にならないかどうかを審査する。法律的に問題ないと判断されると書類は通り、杤原の前に束となって置かれるのだ。その彼が嬉しそうに話していた今回の依頼は、企業の重役から依頼された金融業者の実態調査で、対象となる業者はどうやら不正を働いているらしかった。ここ新宿では多くの証券会社や保険会社、不動産業者などがビルの中に押し込まれているから、大勢の中で協力し合えばより大きな利益が出せる。そうして得た金は青梅街道から隣接する歌舞伎町で盛大に消費されたりするわけだ。悪事を働いて私腹を肥やす。人間は大昔からやっている事が変わらない。それを伝統と見るべきか進歩が無いと見るべきか。
清隆はデスクの上に押し込んでおいたバインダーを引き抜く。暑さ三センチほどの青いそれは不要となった依頼申請用紙を挟むもので、今までに杤原が解決してきた案件の申請用紙が詰まっている。こういった個人情報を扱い、徹底した守秘義務を課されている探偵事務所にとって、情報の取り扱いは慎重に慎重を重ねる必要がある。そのまた上に慎重と用心を重ねてもいいくらいだ。この事務所には二四時間体制の警備会社と契約して設置した警報装置が張り巡らされており、警報装置を入れたままの状態で誰かが室内に入り込むと、三分で最寄りの警備員詰所から防刃チョッキと警棒を持った警備員が飛んでくる。彼らも探偵業資格化の恩恵に預かっている業種のひとつで、探偵事務所の個人情報取り扱いや守秘義務の項目が強化されると、必然的にそれを守るための警備システムに対する需要が増大した。さらに、大抵の探偵事務所は日本各地に散らばる一般邸宅や中小企業よりも金があるから、持ちつ持たれつということで親身にしてもらっている部分もある。こうした共生システムは経済を動かす潤滑油のひとつだ。覗き屋と揶揄される一方で、探偵事務所への依頼は絶えない。それは社会の倫理観と矛盾したものであるといえた。
「所長、今年の解決案件はこれで四〇件です。それと、受ける依頼は少し考えてくださいよ。恨みを買うのは得意じゃありませんから」
「なに、秋津君。悪事に手を染めるほうが悪いのだよ。我々は社会の常識に従って悪を挫いただけだ」
渋い顔をした清隆に、杤原はすらりと長い足を組んで頭を振った。
「いや、そうは言うが、それは俺自身が納得するための方便にすぎんな。確かに最近は尾を引くような案件が多い。今や数十年のデフレから脱却しつつある経済の中で、各企業は新しい奔流の中でより上位につこうと必死だ。その中では自分達で意識しなくともどこかの派閥に属していると錯覚されることもあるだろう。そうなれば厄介であるし、君らにも迷惑をかけるかもしれんな」
「数ある企業での足の引っ張り合いですか。それで必要になる汚れ仕事を、僕たちが金を受け取りながらやっているんですよね。片手で金を受け取りながら誰かの秘密を渡す。それが探偵ですか」
「君にしては随分な皮肉だな。彼女と何かあったのかね」
清隆は傾けたマグカップを水平に戻し、杤原を凝視した。彼はまるで悪びれた様子も無く肩を竦めて立ち上がると、そのまま自分のデスクへと戻る。彼にも自分の口が過ぎたことはわかっているが、彼女のことを出されたのだから痛み分けという所だろう。
「すみません。すこし言いすぎました」
それでも謝罪の言葉を口にしてしまうところが、秋津清隆という人間を象徴しているかもしれなかった。杤原は快い笑みを浮かべて応える。
「気にするな、人間だからそういう時もあるさ……と、電話だ。君が出てくれ」
三つのデスクに分散配置された電話機、清隆の目の前にあるものを彼が手に取る。使い慣れたプラスティックのそれを耳に当てた。
「お電話ありがとうございます、杤原探偵事務所でございます。本日はどういった御用件でしょうか?」
「もしもし。ご相談をお願いしたいのですが」
疲れた女性の声が聞こえる。すぐに、清隆は浮気調査という四文字が浮かんだが、とにかくにも内容を確認しにかかる。デスクチェアを右に向けて、ガラス壁の向こう側に広がるビル群の陰影を見つめながら、左手で電話機のコードをいじくった。
「かしこまりました。いかがいたしますか、このまま電話でのご相談と、電話で話しづらい内容でしたらご自宅、あるいは事務所でのご相談ということもできますが」
「料金はかかりますか?」
「いえ。その時点で契約は発生しませんので、ご自宅でも電話でも料金は発生しません。極端な話、書面での簡単な審査もできます」
相手の女性は迷ったようだ。しばしの沈黙の後、厳かな返事が返ってくる。
「そうですね。私共の家でよろしいでしょうか。主人も同席いたしますので」
当てが外れ、清隆は微かな動揺を感じてコードを握っている手をぴたりと止めた。浮気調査の相談ならば夫の同席は絶対に認めない筈だ。白黒つけるという意味で、夫婦で相談をする場合もあるにはあるが、そういった時はたいていこの事務所へとやってくる。
「かしこまりました。日程はいつに致しましょうか。お客様の御都合がよろしい日程にできる限り調整いたします」
「明後日はいかがでしょうか。ちょうど主人も私も予定は入っておりませんので、探偵様がよろしければ」
清隆はデスクの上に置いてある小さなカレンダーに目をやる。明後日は日曜日だ。これは休日出勤になりそうである。心の溜息を口に出さないように気を付けながら、ことわりを入れて電話を保留にし、デスクの向こう側でコーヒーを啜っている上司へと向き直った。
「所長。明後日の日曜日に自宅での依頼相談をご希望されているお客様がいらっしゃるんですが」
「なに? 秋津君、仕事熱心なのはいいが探偵なのはこの俺だ。少しは休暇といきたい所なんだがね」
「では、お断りしますか?」
清隆は言った。この事務所で依頼が無い状態など無いので、その気になれば相手からの依頼を蹴る事もできるが、それは世間体的にも商売的にも望ましいものではない。
「あんまり働きすぎると、所長がおかしくなっちゃいますし。実を言えば僕もお休みを頂きたいところですが」
「まるで俺がいつも働いていないと言いたげだな。まあいいさ、相談だけなら半日で終わるだろう。日曜日だな。すまないが、君にも同伴頼む」
「任せてください。そのための給料ですから」
親指を立てる杤原にうなずいてから、清隆は電話機の保留ボタンを押し込んだ。
「お待たせいたしました。明後日の日曜日、こちらは問題ありません。時間帯等のご希望はございますか?」
「はい。ええと、午前中にお願いしたいのですが。十一時でどうでしょう?」
そこからの調整はつつがなく進んだ。住所と時間帯をメモし、それではと受話器を置く。話を聞いていたらしい前島冴子が、暇そうに自分で持ってきたハードカバー本を指でめくりながら欠伸をかみ殺した。
「また依頼を受けるのね。前回の厄介だって言ってた金融業者の内部者取引だって結構スレスレのことやってたじゃない。アウトロー気取ってるのかしらね、うちの名探偵さんは」
「あれは法的に完全なグレーゾーンだったから問題はない。相手方から追及されることも無いだろう」
聞くからに問題のありそうな事を言う。戦々恐々としなければならない自分たちの心配もしてほしいものだ、と清隆は思う。
「そもそも、法規制というものに中途半端な柔軟性はいらんのだ。拡大解釈の恐れをなくす程度の表現で、アレはダメ、これはダメ、と言ってればいい。多様な解釈の可能性はそれだけで法そのものの存在意義を崩す事にもなりかねない」
「今の法律だって十分にそういった有無を言わさない実行力はあると思うけれど」
「無いよ。だからその間をすり抜ける輩が出てくる。実際に現場に出て働かない人間が的確に物事を進めていけるものか。地図を見るつもりで衛星写真だけ見て安心する馬鹿と一緒だ。実際に歩けば、その日限りの道路工事をしてる場所だってあるし、角度によっては見切れない部分も必ず出てくる。そういう不確定な要素までを経験として取り込んでいる当事者たちに勝るものは無いのさ」
的を射ているな、と清隆は思う。日本の政治体制にも言えることだろう。今まで庶民の生活など知りもしない人間が勉強だけして、高学歴を手に入れ、あるいは世襲を利用して生活という概念に触れないまま政界に入る。彼らはメカニズムこそ知り尽くしているものの、実際の庶民生活から出る不平不満を理解できる経験が決定的に不足している。国民が求めるのは「ここはこうなる筈だ」という知識ではなく、「ここはこうなって大変だった」という体験なのだ。時折、型破りな政治家が現れては消えていくのは市民の反動ともいえる。実際に物事に接している人間こそが価値のある働きをする。しかしだからといってそういった学歴だけの人間が不要なのかと問われれば、その答えは否だろう。要はバランスだ。押したら引く、上げたら下げる。世の中を渡るコツは決して得をしすぎないことだと、清隆は思う。そうしなければ、いずれどこかで代償を払わされる。適度に利息だけを払い続けるほうが気が楽だし、それでこそ生きている意味があるというものだ。
いつも予定を書き込んでいる手帳に「訪問相談」と日曜日の欄に書き込むと、杤原がぼんやりとした顔でビル群を眺めながらつぶやいた。
「そういえば、知ってるか。甲州街道のほうで交通事故があったらしい。昨夜の話だ」
取り留めもない話題に、清隆は引っ張り出したバインダーを元に戻し、マグカップを片手に用意しなければならない書類の数々を引っ張り出してからボールペンを握った。彼は時折、どこからか仕入れてきた街の最新情報を暇つぶしに漏らすことがある。就職した当時は律儀に相槌を打っていたが、今となっては半ば聞き流し相槌を打ちつつ仕事をするほどに清隆も大人になった。
「交通事故ですか。最近多いですよね、そういうの。涼子も嘆いてましたよ。人間が死ぬのはいつでも辛いって言いながら、昨夜は夕飯を出してくれました。そのせいか、少し食卓に色が無かったですね」
涼子とは、秋津清隆の家にいる女性型機械人形のことだ。元々は清隆の父が購入した家庭用機械人形で、大学を卒業して就職と同時に独り暮らしを始めた彼に父親が譲渡した経緯を持つ。
ふと在る感慨を抱いて、彼は仕事の手を止めて天井をふり仰いだ。
彼女との付き合いはもう八年になる。その間、清隆は高校生から大人へと成長し、彼女は変わらない微笑みを浮かべながら、今でもマンションの一室で彼の帰りを待っている筈だ。そうプログラムされている。機械人形には人間を出迎える義務があるし、そうすることが人形の仕事だからだ。
機械人形が家庭に普及してから十数年。目覚ましい発展を遂げた人類の科学技術は人間の代替ともいえる人型を生み出し、人々はそれを機械人形と呼んだ。彼らが最初に浸透したのは福祉や農業方面で、これらの産業は遂に慢性的な人手不足から解放された。人間よりも力があり、命令にも従順な機械人形たちは、今では世界でもなくてはならない労働力となっている。それらが旧来のメイドや執事の立ち位置で一般家庭にも普及し、時代は人間だけの寂しい生活から機械人形の彩を加えた極彩色へと変貌を遂げた。ロボット工学では世界のトップを走っていた日本では特に機械人形の浸透が顕著で、元々そういったものを受け入れやすい国民性だったためか、価格の高さにもかかわらず爆発的な普及と共に様々な型も作られた。
一方で、社会が機械人形の恩恵にあずかっているその反面、人々の意識に根付いた「人間ではない機械による殺人」などの懸念が表面化すると思われていた。古来よりサイエンス・フィクションの中で描かれてきた、人間よりも冷徹で強いロボットの反乱は、機械人形の実用化により急速に現実へと引き寄せられていた。最早絵空事と笑えなくなってきた人間たちの傍らで、人間の形をした機械が疑似的な人格すら与えられて隣に座っているのだから、その手がいつ包丁を握りしめないとも限らないという不安が人々を駆り立てた。そして不安は疑心暗鬼を生ずる。社会に不穏な影が落ちる事は避けられないと思われていた。
だが問題は放置されるままであることはなかった。かねてより構想されていた機械心理学と呼ばれる学問分野で提唱され、今や世界における大原則となっている人形の反乱を抑え込む工夫が、機械人形の三命題である。ロボットが人間に危害を加える可能性を排除し、人間のために作られたロボットが人間を滅ぼす、または虐げられるという不憫極まりない事態を避けるために、最初期の機械心理学者たちが提唱したこの三命題は、後に製造された全ての機械人形の論理集積回路にも組み込まれているものだ。その命題は三つある。
第一条。機械人形は人間を傷つけてはならない。
第二条。第一条に反しない限り、人間の命令には従わなければならない。
第三条。上記の二条に反しない限り、自分自身を守り、生活を営まなければならない。
機械心理学者たちはこれら三つの命題を機械人形の人工意識深くに設定し、従わせる方式を取った。これにより、機械人形は絶対安全な機械として家庭に普及する信頼を勝ち取ったのであるが、これは少し変わった手法をもって機械人形たちに反映されている。
機械心理学者たちは「幼いながらも意識を持っている彼らに頭ごなしの命令や強迫観念で束縛しようとするならば、いずれそれに反抗する機械人形が出てくるのは必然である」と考えた。これは当然の懸念、機械人形が人間に仇をなす不安とまったく同義であった。機械心理学においては高度に知能化された論理集積回路が人工意識を持つことは知られており、どんなに未熟な意識でもそれが意識である限り、どういった自発的な行動を起こすのかは予測不能であると断言する機械心理学者の数は、多くは無かったが少なくも無かった。機械人形の三命題だけではカバーしきれない部分が実際にプログラム上に存在することも確認されていた。この問題を、学者たちは再び他を圧倒する斬新な手法で解決する。
人工意識には感情があったが、それは極めて不確定なものである。そもそも、人間の大人でさえ意識の先にある結果を推測する事は行動分析学に基づいても決して確実なものとはなり得ない。さらに、それぞれに個性を持つ論理集積回路は人間の様に多様な特徴を見せ、その根本にある感情の源には理解できない部分が多々あった。同じ論理集積回路を搭載したとしても、生じる人工意識は細かい部分での差異が多く見られた。機械心理学者たちはその不確定性に、考え得る限りごく自然な形で機械人形の三命題を組み込んだ。すると、第一条は愛情、第二条は忠義、第三条は自我という形で機械人形の精神を安定化させ、理想的な素体が完成する。強迫観念として三命題と埋め込むのではなく、動機の段階でそれらを実装するという試みは成功し、人形達には命が吹き込まれることになる。人間より遥かに安定した情緒を携えた彼、あるいは彼女らによって、今日の安全な機械人形社会は築かれている。
杤原は書類を捲りながら、楽しそうに笑った。
「それはそれは。さぞかし飯が喉を通らない思いをしただろう。文字通り、君は優しい奴だからな。要するに同情する彼女にまた同情を重ねたんだろう」
「否定はしませんよ。自分でも思う所はありますから」
苦笑いする。確かに、その日の食事がひどく気まずいものになったのは事実だった。悲しげな彼女を前にして、進まない箸を無理矢理動かしていたものである。
「あら。また労働組合が、政府に対して直訴状を提出したらしいわよ。今年で何度目かしらね」
事務所のコンソールでネットサーフィンという職務怠慢に興じていた前島冴子が言う。杤原と清隆は等しく視線を交わした。
機械人形の台頭は各産業において人員不足を補った部分もあれば、人形へは人件費不要という利点から各大企業の生産工場などで人の手による分業行程が全て機械人形、あるいは高度なロボットで代替されるようになると、大量の失業者が日本に生まれる事となった。政府はこれを予期して企業に対し様々な是正措置を取らせたが根本的な解決には至らず、今や労働組合は働く労働者たちの権利を守る事を意図しているのではなく、大勢の失業者が身を寄せ合って国に対する責任と賠償を求める被害者団体へと変貌した。だが、数値で表せば機械人形に取って代わられたのは数万人規模と決して小さい数字ではないが経済的にも成長の最中にあるため、行政は社会保障活動に本腰を入れきれずにいる。
さらに労働組合の抗議活動に拍車をかけているのが、国の企業にとらせた是正措置はまったくの形式的なものでしかなく、景気の好転を見越して機械人形による労働者だいたいを黙認したのではないかという疑念だった。確かに機械人形の正式化から普及までを見越して様々な対策を取る時間はじゅうぶんにあったわけで、専門家の中ではそれらを着実に実施してさえいればこれほどの混乱は起きなかったであろうという意見が過半を占めているのも事実である。
政府自身がこの問題に対しては否定的な意見を述べてはいるものの、政府というものは叩けば埃が出てしまうものだから組合の運動はさらに熱を帯びるばかりだった。その結果が、今回のような直訴状提出という形でニュースには出たり消えたりしている。
「三度目だ。こりゃ年末にもう一回あるな。よかったよ、探偵業は機械人形に任せられなくてお蔭で食いっぱぐれることも無い」
熱心なことだと、まさに対岸の火事でしかないとばかりに杤原惣介は茶を啜りながらひとりごちる。秋津清隆はうろおぼえなままのロボット法を記憶の山から掘り返した。
「機械人形をはじめとする、人間と外観を同じとする自律機械に過度の諜報活動を行わせることはできない。ロボット法の何条でしたっけ」
「第七条だ。まったく、政府も酷な事をする。対策などいくらでも考え付いたはずだ。思い切って労働者を解雇して機械人形を採用すること自体を違法とすれば、こんな事にはならなかっただろう。確かに経済は上向いているが、一方で膿がたまっている事も否定できまい。経済は人の上に成り立っているのだから、人間を蔑ろにしては本末転倒だ」
「そのための労働組合ですね。経済という巨大な枠組みの中で労働者の地位を主張し、その権利を守ることを目的としている組織」
「そうだ。中世以前、おおよそ人間の中で商業的営みが行われる時期に差し掛かると、今までの生活を共にする仲間という認識から部下や雇用という概念が生まれてきた。働いてもらう代わりに、金や食料で対価を与えることで労働力を確保し、相手と自分の生活をより向上させていこうと試みた訳だ。だが、この関係は当初の理念こそ純潔なものだったにせよ、その後の国家という枠組みの中で経済発展が行われて自由競争市場へと変貌を遂げると、雇用主と労働者の間では大きな隔たりが生じた。労働者は逆立ちしても雇用主には逆らえない存在で、昔は奴隷商法も規制はされていない、それどころか国の推進する政策でもあった時期が確かに存在するから、労働者を家畜と同等にみなす風潮が生まれたわけだ」
清隆はコーヒーを大きく口に含み、顔をしかめた。コーヒーがいつにも増して苦く感じられる。ふと顔を上げれば、杤原も全く同じことをしていた。眉根を指でほぐしながら、彼はなんとか飲み下すと手元にあるボールペンを暇つぶしにいじり始める。
「酷い話しですね。そうなると、現代社会は奴隷という概念から解放されたのでしょうか。僕は認めたくありませんが、機械人形が奴隷の代わりをするようになったのならば、人間がその役回りを負う必要はなくなったのでは?」
「まあ、そうなるだろうな。だが実際、作業効率や経済市場の観点から見て奴隷というのは非効率的だ。労働者が金を受け取り、それを使ってこそ経済が回り、経済の成長は生活の向上へつながる。だがそれは人があってこそで、その逆は成り立たない。奴隷なんてものは個人の権利や自由を踏みにじる時点で論外だ。だから人間が働くってことは重要な意味を持つ。労働組合もその信念に根差している。人間は労働の場に無くてはならない要素だから、もっと尊重されるべきだ、というのが彼らの主張なわけだ」
「そのあたりはわかりました。でも所長、今の労働組合ってそんなに無視できませんか? いや、別に彼らの事がどうでもいいと思っているのではなく」
「そりゃあ君、無視など出来ないだろう。彼らは企業のヒエラルキーでは比較的低い位置にいたことは事実だが、だからといって何も知らないという訳ではない。同時に今のご時世、まともに法律を順守している企業が大半だろうが、自分達のしている商売や裏の事情を知られなくない業者も多くいるはずだ。下手に手を出せば何を暴露されるかもわからん」
清隆は自分が持ってきた、たったいま目の前で解決を見た案件の金融業者を思い描いた。どういう仕組みかは知らないが、書類上は特に不審な点も無かった企業でも、数字に残らない手段を駆使して法を破っていたこともある。
「今年中に動きが無かったら、組合はどうするでしょうか。僕としては、裁判所に訴えも出すかと思いますが」
せいぜい形だけは撤退拒否を続けても、企業側としては何十年も引き伸ばして和解へ持ち込むのが落ちだが、相手がそんな卑劣な遅滞戦術を駆使してくることを承知していても動かねばならない時もあるだろう。だが、杤原は首を振った。
「それはないだろうな。冴子、君、俺がむりやり君を解雇したらどうする」
「は? それは、正式な命令と正当な理由があれば納得するけれど……意味も無くクビになったら、けっこう怒るでしょうね」
さらりと前島冴子は言う。彼女の本気の怒りを見たことはないが、「けっこう」という形容詞を彼女が用いる事は稀なので、それだけ勢いの強いものであると想像できる。杤原と清隆は自分達の想像に身震いしながら、マグカップを持ち上げて喉を湿らせた。温かいものを飲んでも寒気は少し収まるだけだった。
「まあ、良しとしよう」
何か悪い想像を振り払うように杤原は続けた。
「職を失う事は現代社会において地位や尊厳を捨て去る事と同義として認識されている。これは自ら放棄した場合と強要させられた場合とでは、当然だが個人的解釈は異なる。諦念を遥かに上回る憎悪が生まれる。そして、負の感情は時に強い結束のきっかけとなるんだ。同じ境遇の人間を見つければ妙な信頼関係が生まれるだろう。近親憎悪も無きにしもあらずだがこの場合は同類相哀れむと言った方が適当か。労働組合の場合はまさにこのケースで、しかもそれは日本国内だけの問題ではない。加工貿易や重工業などの産業を生業とする国々では同じ問題が露呈している。今やパソコンひとつで世界への窓が開く時代だ。そこから手紙をやり取りして、内容に日々の不満と逸れに対する共感が綴られているだろう。文通から世界規模の何かに発展したところで驚きはせんね」
インターネットの普及と共に、世界には多くの情報を発信する場が設けられた。その中には勿論、悪意を持ったものも存在する。誰かを貶め、害を為そうとする思惑は、時にある集団においては正義として行使される。労働組合による企業側に対する国への直訴状提出はまさにこの流れを汲んでいるということだろうか。それが世界的風潮であるのなら、労働組合の様に団結することを旨とする団体がネットの海を活用しない手はない。海を超えて、数百万人規模の怒りをひとつの国の政府にぶつけたなら、いったい何が起こるのだろう。思い描くだけでぞっとしない想像に、清隆は悪寒どころか胸やけのような気分の悪さを覚えた。
「水面下で問題が大きくなっているんですね。聞いた限りだと、かなり深刻ですよ、それ。政府は対応を考えているんでしょうか。放っておけば国内経済の混乱だって避けられそうにない」
「どうだろうな」
涼しい顔で、杤原はわれ関せずとばかりにデスクチェアを回した。
「我が国の政府は腰が重いことで有名だ。それが民主主義国家の性でもあるがね。どちらにしろ、対応できなければ大きな嵐が起こるだろうな。まあそんなことはどうでもいい。冴子、今日の昼はどうする」
「あら。私の手料理を食べたいの? ちょうどパスタも余ってるし作ってあげてもいいわよ」
しばしの議論の末、ペペロンチーノで決まった。近くの八百屋まで食材を買出しに行くと言って前島冴子が事務所から出ていくと、清隆はコーヒーを飲みながら、残りの仕事の処理に取り掛かった。昼までにやらなければならないことが少しだけある。




