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廃王国の六使徒  作者: 栗原ちひろ
第2部 禁書庫の六使徒
99/112

第99話 きみは本当の花嫁

 子猫が泣いている。

 一匹ではない。山ほどいる。

 そしてどれもが、身も世もなく泣いている。

 心臓に幼い爪を立てられているような気分だ。

 酷く痛むわけではないが、どうにも無視することができない。無視したらひどく後悔するはめになるような、ぼんやりとした恐怖。

 そんな漠然とした不安の中で、アレシュは緩やかに何度か瞬いて視界が鮮明になるのを待っていた。


 やがて見えて来たのは、さっきと同じ部屋だ。

 円い部屋からは一本の通路が先へと伸びている。室内には誰もいないようなので、アレシュは自然とその通路へと向かった。


「ハナ、ここかい? ハナ」


 自分の声がやけに辺りに反響する。

 通路はさっきの部屋と同じく、すべて乳白色に糖蜜みたいな色が混じった大理石で作られていた。

 左右にはずらりと金色の扉が並んでいる。

 めまいがするような廊下の果てに視線を投げれば、そこにはひと周り大きな扉があって、扉の前にハナの後ろ姿があった。


「ハナ」


 アレシュはほっしたが、ハナはすぐに扉を開けて向こうへと消えてしまう。

 アレシュはぎょっとして足を早めた。早く、早く。焦る気持ちを抱えて歩いていくと、横手から幼い声がかかる。


「愛しています」


「……?」


 驚いて見ると、声は金色の扉のひとつから聞こえたのだった。

 扉には書架と同じ金属板が打ち付けられている。縁飾りに囲まれて刻印された文字は、『花嫁』。

 嫌な予感に眉根を寄せていると、今度は背後から声がした。


「愛してます」


 震えるような、泣くような声。

 ぞっとして振り返れば、そちらにも金の扉があって、同じように『花嫁』の金属板がある。


「なるほど――そういうことか」


 アレシュはつぶやき、自分の声に怒りらしきものが混じっているのに気づいた。

 どうやら、自分は怒っているらしい。

 ひどく唐突に、ひどく深く、怒っている。

 アレシュは頭を引きむしりたい気持ちをどうにか抑えて、歩を再開した。

 視界の左右をかすめていく金の扉は数限りなく、どれにも同じように『花嫁』の金属板が打ち付けられていて、アレシュの足音が扉の前を通るたびに声がする。


「愛してる」


「愛してる」


「愛してる」


 どれも幼い声。どれも違う声。どれも同じ感情に満ちた声。


 ――すなわち、震えるような恐怖に。


「ハナ、どこだ!」


 アレシュは怒鳴り、通路の果ての扉を押し開ける。

 途端に濃い血の匂いが鼻孔をくすぐり、ついつい足が止まった。血がひたひたに満ちた水槽に沈んだかのような、凄まじい臭気。


「ハナ」


 においに敏感なアレシュはひどい目眩に額を押さえて、どうにかその名を呼ぶ。


 ハナは奇妙な部屋の入り口近くにたたずんでいた。

 そして、もうひとりの――ほんの少しだけ幼く見える、過去のハナは部屋の真ん中にいる。

 部屋はやたらと広く、端から端まで幅広の階段で埋まっていた。天井近くから階段が始まり、扉のすぐ近くで終わる。

 そんな階段の中程で、幼いハナはグリフィスと抱き合っている。


「愛しています」


 震えるハナの声。


「わたしもだよ。花嫁」


 揺るぎないグリフィスの声。

 彼のなんの特徴もない美貌は、すっかり血に汚れている。

 血は階段の天辺から思い切りぶちまけられたようだ。まだ、段を徐々に伝って滴っている。

 血を流したのが誰なのかは、すぐにわかった。

 階段の天辺には血まみれの華麗な衣装が血に浸っていたし、階段のあちらこちらにも、グリフィスは少しずつ前の花嫁を食べ残していたので。


「……ハナ」

 

 アレシュは静かに彼女の名を呼んで、昔の自分を見ているハナの背後に近づいた。

 横に立って横顔をのぞきこんでみるが、彼女の瞳にはアレシュのことは写らない。

 ハナはじっと過去を見ている。

 そして、過去のハナは囁く。


「愛しています、あなたを」


 それを聞いたグリフィスは、本当に愛しそうにハナを抱きしめ直して、耳元で囁く。


「……他の花嫁との婚礼を見ても、そうやって揺るがず愛を囁いてくれたのは、君が初めてだ。ハナ。君は、本当にわたしを愛しているのだね」


「はい、愛してる」


 ハナは自動人形みたいに答える。

 グリフィスは畳みかける。


「わたしを?」


「あなただけを、愛してる」


「すごい、奇跡だ――君は、わたしの本当の花嫁だ」


 ほとんどゼンマイ仕掛けのからくりのようなやりとりだった。 

 嫌な目眩ままだアレシュから去らない。

 アレシュは傍らのハナの薄い肩に手を置いてみる。しかしその肩もまた、生き物のそれとは思えないほどに冷たい。


「あいしている」


 傍らのハナが小さくつぶやく。ぎこちない言葉がアレシュの呼吸の邪魔をする。

 何かを言おう。

 迷っている暇はない、とにかく言葉を口にしよう。

 アレシュが口を開いたとき、不意に嫌な振動が全身に伝わってきた。波間に漂うときに感じるのような、得体の知れないうねりに翻弄される感覚。

 図書宮殿が柔らかな何かに変わったかのようにぶるりと揺れて、グリフィスが顔を上げた。 


「――なんだ、この揺れは」


「怖い」


 過去のハナが小さな悲鳴をあげて、グリフィスにしがみつく。

 グリフィスはすぐに彼女を抱き留めると、力強く告げた。


「大丈夫、わたしが君を守ってあげる。どんなことになっても、守ってあげる。君はわたしの本当の花嫁なのだから。もし誰かに攫われたとしても、必ず取り戻してあげる」


 まぎれもない、愛の言葉だった。

 どこからどう聞いても、言葉も言いようも、完璧に愛に満ちていた。

 自分はこんなことを、誰かに言えたことがあっただろうか、と思って、アレシュはぎょっとする。

 ……ひょっとしたら、なかったのか。

 愛している、綺麗だね、とはやたらと言ったものだけれど、ちゃんと、ずっと一生守ってあげる、誰の手からも取り戻してあげる、そう言ったことはなかったのかもしれない。

 いつだって、別れるときは女性側からふられた。

 ふられるたびに落ちこんで、でも、落ちこんだからといって、自分から相手を取り戻しに行ったりはしなかった。

 そんなのは紳士的じゃないから、柄じゃないからと思っていた。


 でも、本当にそんな理由で、彼女たちを忘れてよかったんだろうか。


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