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廃王国の六使徒  作者: 栗原ちひろ
第2部 禁書庫の六使徒
98/112

第98話 時を騙して愛をたぐる

 紳士的な拍手が続くと、徐々に辺りの風景はぼやけ始める。

 赤い空は、色とりどりの建築物は、灰色の石畳は、それぞれ徐々に色を薄くして白へと変わり、人々の姿もまた白に紛れていく。

 やがて世界は白い円形の部屋に変わった。

 だだっ広い部屋の壁には作り付けの本棚があり、床は一面、青と白の石と、金で作られた天文図だ。

 もはや百塔街の面影はそこにはなく、住人たちの姿もない。

 代わりに石の柱でオイルランプがじじりと音を立て、円形の部屋の壁際に立ったふたりの姿を浮かび上がらせた。 


「まったく呆れた者たちだね。なるほどそんな考えならば、いまさら人間に絶望することもあるまい」


 静かに言うのは、相変わらず完璧な紳士装束に身を包み、硬質な美貌を見せる魔界の紳士、グリフィス。

 そして彼の傍らに添う小さな人影は、ヴァイオリンを持ったハナだった。

 茶と水色を使った上等なドレスはちょっと残酷なくらい腰を絞める類のものだったけれど、どこからどう見ても上等そのものだ。無機質な表情もあいまって、今の彼女はびっくりするほど大人っぽく見えた。

 そんな彼女を見た途端、アレシュはわけもわからずグリフィスを怒鳴りつけたくなる。

 どうしてこんなことで傷ついているのか、アレシュは戸惑いながら自分の衝動をねじ伏せて微笑んだ。


「僕らは絶望の街の住人だからね、ら人間がいかに弱いか、強い力の前にいかにあっさり矜持を捨てるかなんて物心ついたときから知っている。それでこそ人間じゃないか」


「なるほど、君は我々と近い矜持の持ち主だ。しかも図書宮殿を抜けてここまでやってきた。それもまた、わたしと心が近い証明ではある」


「心が、近い?」


 グリフィスがやけに感慨深げに言うのが不思議で、アレシュは首を傾げた。アレシュたちは力づくでここまできただけなのに、なぜ心の問題になるのか。

グリフィスは深くうなずいて続ける。


「そう。ここにたどりついたということは、君たちは今、わたしの友人といってもいいほどの心的距離にいるということだ。わたしとしても友人の望みは叶えてあげたいところだが――」


 そこでいったん言葉を切ると、グリフィスはハナのくるんと巻いた角を見下ろし、さも愛しげに言った。


「あとは、ハナがどう言うかだね。ハナ、お前は彼と行くかい?」


「私は……」


 ハナの声はかすれていた。

 久しぶりの、ハナの声。

 いつの間にかそばに居て、いつの間にか懸命に世話をしてくれていた彼女の声がアレシュの心に刺さる。

 どうしてそんなに声がかすれているんだ。泣いたのか。叫んだのか。それともずっと誰とも喋っていなかった?

 その顔に広がる美しい憂いはどこからきた? 陰鬱なだけと思っていた瞳が歴史を見つめてきた古い宝石みたいに深く光るのは、一体なんで? 

 君は今、僕を見て何を思っている?

 アレシュの声なき声に答えるようにハナの唇は震え、いったん開いて、すぐに閉じた。

 青緑色の瞳がふっとよどみ、ハナは思いきり顔を仰向けてグリフィスを見上げる。


「私は、あなたを愛しています」


 甘い囁きが、静まりかえった部屋に響き渡る。

 その響きはアレシュの心臓を貫いて、彼は思わず顔をゆがめた。手のひらで顔を覆いたかった。この場にうずくまって、子どもみたいに痛みに耐えたい。

 でも、だめだ。

 アレシュは呼吸を整える。紳士的に、あくまで静かに、言わなくては。


「――ハナ。そいつに食べられるのが本当に君のしあわせだというのなら、僕はもう邪魔はしない。でも、一度だけ。確かめさせてくれ」


 自分で言っていて口が苦くなった。

 邪魔はしない? 

 それはつまり、尾っぽを巻いて帰るということか。


 ――もちろん、そうだ。


 ハナが喰い殺されるのを見過ごすということか。


 ――もちろん、そのとおり。


「確かめ、る?」


 ハナがのろりとアレシュのほうを見る。

 その目はまだ宝石みたいだ。

 美しいが、死んでいる。

 苦しい、苦しいとわめく心を抱えたまま、アレシュは懐に手を入れる。

 一番奥にしまっていた小型の硝子瓶に触れると、ほんの少しだけ、落ち着いた。

 その落ち着きにすがって微笑み、アレシュはなめらかな動きで硝子瓶を取り出す。


「そう。君がどうしてそんなふうにそいつに愛を囁くようになったのか。君の心に一番引っかかっている思い出を、僕に見せてくれないか? それを見て納得がいったら、僕は帰るよ」


 鈍い灯りに反射する硝子瓶を見つめ、ハナは沈黙している。

 その横で、グリフィスのほうが興味深げな声を出した。


「思い出をのぞく、か。君の香水は万能であるね。しかし、香水で操って思い通りのことを言わせたのでは、相手の本心などわからない。それはわたしの美意識に反するな」


「操ったりはしません。僕がだますのは、時の流れです」


 アレシュは言い、内ポケットから予備の飾り編みを取り出す。

 硝子瓶の中身は、以前クレメンテにも使った、過去へ行く香水。

 残り少ないそれを、飾り編みの上にほんの一滴だけ垂らす。

 そうしてハナのほうを祈るように見つめ、アレシュは囁く。


「見せて、ハナ。君の『愛』の深淵を」


 ハナは答えない。


 アレシュは彼女の虚ろな瞳を見つめたまま、ゆっくりとハンカチを彼女のほうへと投げて、自分もその香りを吸いこんだ。


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