第97話 不死なる呪いの制し方
苦々しくはき出されたヤルミルの言葉に、アレシュは静かに息を吐いた。
そのとき、不意に目の前が暗くなる。
なんだろうと思って目を凝らすと、すぐそばにサーシャがいるのがわかった。
サーシャはアレシュの目を手でふさぐようにして、至極冷淡な目でヤルミルを見ている。
「サーシャ」
ほとんど声にならない声で呼ぶと、サーシャはこちらを見た。
彼の目はやっぱり冷淡で、ばかじゃないの、とでも言いそうな笑いを浮かべていた。
そこに憎しみや怒りはない。
特筆すべきほどの、愛もない。
彼はいつもの――生きていても、死んでいても、変わらないサーシャだ。
「で、どうなんですか、アレシュさん。あんたのやってることは害毒だって、認めます?」
笑うヤルミルの言葉が急に色あせて聞こえる。
アレシュはゆるやかに顔を上げ、ヤルミルにそっと笑いかけた。
堅い赤薔薇のつぼみがゆるむように。しどけないまでの芳香を振りまくようなアレシュの笑みに、思わずヤルミルは息を詰めて顎を引いた。
香りはマスクで防げても、アレシュの美は暴力的に瞳から入りこむ。
アレシュは繊細そのものの指を伸べてヤルミルの肩をつかむと、その顔をのぞきこんで囁いた。
「ヤルミル。君は間違ってる。
いいかい、百塔街の人間は、いつだって絶望から始めてるんだ。絶望の闇の中を歩いて、歩いて、やっと今にたどりついたんだ。彼らは、何度、どんな泥にまみれても、絶望のトンネルを抜けて行くことを選んだ。そんな彼らが手を伸ばすなら、僕らは対価と引き替えに彼らの手を取る。僕らもまた、絶望の先に行くからだ。
正義なんてものは関係ない。僕らはただ、諦めが悪いだけ」
アレシュの声に、ヤルミルはどうにか抵抗しようと歯を食いしばり、軋む声をあげる。
「あんたらは、本当の人間のクズだ! 反省もしない、後悔もしない。どうにかして、あたしが排除しなくちゃならない……!」
「僕らを排除? いいの? そんなことして。そんなことをしたら、君の呪いを解ける可能性のある百塔街の実力者が、ごっそり消えるけど」
さらりと言うと、ヤルミルの動きが止まった。
いつだってぎらぎらしていたその瞳が色を失い、表情がやけにしらけたものになる。まったく虚を突かれた、といった様子で、彼は言う。
「……あんた、今、なんて言いました?」
虚ろな問い返しに、アレシュは笑みを慈悲深いものにした。
そうしてヤルミルの肩に置いた手に集中する。
自分の心臓が音を立てるのを聞く。
できるはずだ。久しぶりに使うあの力。
生まれつき知っていて、普段は自然に押さえているその力を、そっと解放する。
固い結び目を解くような想像をしながら、アレシュは告げた。
「君は僕らを排除しようとするべきじゃなかった。絶望の中で遊んでいるべきじゃなかった。もっと早く、素直に言えばよかったんだよ。――『助けて』って」
「な――」
ばかな、とヤルミルが叫ぼうとする。
その瞬間、彼の姿は緩やかに《《伸びた》》。
まるで粘土でできた人形の頭をつまんで、上へ引き延ばしたかのように。
「おい、アレシュ!」
何が起こったのかを察し、ミランが鋭い声をかけてくる。
アレシュは振り向かず、集中したまま答える。
「大丈夫だ! さあ、ヤルミル。ちょっとの間、静かにしてろよ。僕のこの力、まだ自分でもうまく使えてないんだから。魔界と人間界を単に混ぜるんじゃなくて、うまいこと境界あたりに君を載せてあげるから、そこでおとなしくしてなさい」
「や……やめろやめろやめろ、化け物! あたしに何するつもりだ!!」
ヤルミルは身も世もなく叫び、身もだえる。その間にも彼の姿はどんどん細くなり、ほとんど糸のようになっていく。
「大丈夫だって。だって君、死なないんだろ? どこにいたって生きてはいけるさ。だから魔界でも人間界でもない、究極の孤独の中で色々考えるといいよ。いつかちゃんと『助けて』って叫べたら、僕だけはその声を聞けるはず。迎えに行ってあげるよ。だからできれば、僕が生きている間に改心してくれよ?」
頼むよ、と心から囁いたとき、アレシュたちの視界からヤルミルの姿はしゅるりと消え去ってしまった。
周囲の人間たちは呆然とその様を見つめていたが、やがて、ひとりの大男が叫んだ。
「貴様……アレシュ、やっぱり化け物じゃねえか……!!」
「何を言っているのだ、阿呆! 百塔街に、化け物以外がいると思うか!」
すかさずミランが怒鳴り返し、アレシュの前に出る。
続いて、カルラとルドヴィークもアレシュを守るように並んだ。
「しょうがないわねえ。これでめげない子たちには、私もかるーく撫でる程度にお仕置きしちゃうわよ?」
「敵は元々多いほうですしな。多少増えても構いません。さて、どうします?」
「ああ……いけません、いけませんよ、みなさん! せっかくアレシュが平和解決を図っていたから黙っていたのに、ここまで来て本性をダダ漏れにするなんて! ここは是非、最後まで平和に持っていかなくては!」
最後に主張したのはクレメンテだが、彼は彼でその気になればここに居るような人間くらい簡単に片づけられる戦闘能力の持ち主である。
いざ、百塔街の中でも名の知れた魔人たちがずらりとが居並んだとなると、住人たちも我に返り始める。ヤルミルが消えた今、六使徒と真っ向から戦って何か得はあるのだろうか?
しばらく緊張と決まり悪さの入り交じった沈黙が続いた後、不意に上空から乾いた音が響き始めた。規則的にゆっくり響く――これは、拍手の音だ。




