第93話 「愛」の書架を抜けて
あっという間に共食いで獣どもが駆逐され始め、アレシュたちの視界は広がる。
仕込み杖を下ろしたルドヴィークが、珍しく屈託のない笑顔になって声を上げた。
「お見事! このような技、お父上の時代にも見たことがありませんぞ」
「すごいわ……え、何、どういうこと? その香水、魔界でも全然関係ないじゃない!」
カルラも言い、傷ついた彼女の『子猫』を呼び戻してなでさする。
アレシュはまだ湧いてきた力に酔ったようになりながら、妖艶な顔で幼く笑った。
「どうやら、そうみたいだ。やってみるまで自信がなかったのだけれど……あの穴の事件のとき、グリフィスは僕の香水の香りに惹かれてやってきた。彼は魔界と人間界の狭間に居て、人間界では実体化していなかったのに、僕の香水を嗅いだんだ。
つまり、僕の作った香水は世界の境界を越える。魔界にあっても変質しない。これは、魔界と人間界の間に生まれた、僕の香水にしかない力だ」
かつては友達を助けるために使おうとして失敗した、調香の力。一度忘れて思い出したこの力が、新たな扉を開けようとしている。
アレシュが心地よく感じ、生み出す香水は、彼自身と同じように魔界と人間界の境界に小さな破壊の嵐を巻き起こすのだ。
使徒たちの中でも一番そのことを正確に理解したであろうカルラは、そっと子猫をおしのけた。どこか苦味をまぜた顔で腕を伸べ、綺麗に色をつけた爪でアレシュの胸にすがる。
「……アレシュ、私、なんだかちょっと怖くなってきちゃった。ついでにうっとりもしてきたし。やばいなあ……こんなに育っちゃった子相手にこうなるなんて。あなたの香水、効いてるかも」
見上げてきたカルラの瞳が情熱に潤んでいるのを見下ろし、アレシュは自分の心がふっと冷えるのを感じた。
(このひと、こんなつまらない顔をするんだな)
思ってしまってからぎょっとする。
なんだ、この残酷な侮蔑と無関心は。
まるで魔界の紳士そっくりじゃないか!
こんな感情で他人を見つめ始めたら人生は荒野だ。
アレシュは迫り上がってくる冷笑い を押しとどめ、カルラの顎を人さし指で持ち上げて優しく言う。
「僕にほんとに惚れるのは駄目だよ、カルラ。僕はいい主人じゃないし、君は自由でいるから綺麗なんだから」
「あらあら、やっぱりあなたって残酷だわあ」
ため息をつくカルラが元の調子に戻っていくのを、アレシュはほっとして見守った。
そんな彼の視界の端に、サーシャの赤がちらちらとひらめく。死んでいる彼はアレシュの香水に惑わされまい。
彼がいてよかったな、と心底思いながらそちらを見ると、サーシャはつまらさそうに笑っていた。
「アレシュ、踏みとどまったね」
「うん。君がいるからね」
「そういう物言いはやめたほうがいい。……あっち」
素っ気なく言い、サーシャは押し合いへし合いしている獣たちの向こうを指差した。
「貴族服の男が、あっちへ行ったのが見える。今じゃないかもしれない。俺には全部の時間が見えるから。でも、何度も、何度もあっちへ行った」
彼の指す先を見れば、そこには天井までとどきそうな巨大な書架が視界を遮ってそびえ立っていた。
「わかった。あの書架の辺りに、グリフィスの居場所があるってことだな。行くよ、みんな!」
アレシュが声を張り上げると、サーシャは前に立って巨大な書架へ向かった。他の使徒たちも、共食いする獣たちをかき分け、切り伏せながらあとへと続く。
図書宮殿はすさまじく広大だったが、足早に書庫の間を進んで行くと、必ずしも無限の空間ではないのがわかった。
書庫の影には様々な階段や段差があり、両側が本棚になった細い通路もある。
やがて、アレシュたちを先導していたサーシャは、『愛』という金属板のついた書架を指さす。
「ここかい?」
アレシュが問いながら見上げてみると、その書架に収められた本は実に雑多だった。人間界の安っぽい恋愛小説から始まって、得体の知れない思想書、人や動物、虫、魚の解剖図録、さらには愛と恋に関わる呪術や魔法の本がぎっしりと詰まっている。
「どれもこれも『愛』の本、か。すごい量だ」
アレシュはつぶやき、何の気なしに書架に触れようと手を伸ばす。が、その指には何の感触も伝わってこなかった。
本も、書架も触れない。
試しに手を振ってみても、空をかき回す感覚しかない。
わずかに首を傾げ、そのまま歩を進めてみると、アレシュの身体はあっさり書架を通り抜けてしまった。




