第92話 パルファン・ヴェツェラ103番、皇帝の鎖
「ミラン!」
抵抗虚しく獣のほうへ引き寄せられながらも、アレシュは叫んだ。
ミランは骨が軋むような力で獣に握りしめられたまま、苦しげな息で叫ぶ。
「アレシュ! 手を離せ! お前は先へ行くのだ!」
「そんなこと……いや……それもありか」
言われてみて、アレシュはある可能性に気づいた。
「よし、わかった。離すよ」
「えっ?」
ミランがさも意外そうな顔をしたひょうしに、アレシュは相手から手を離して後ろへ下がる。
同時に犀の顔がぱっくりとふたつに裂け、あり得ないほどに巨大な口がミランの身体を呑みこんだ。皺だらけの喉がうごめき、大きな獲物を嚥下しようとしているのがわかる。
その様子を見て叫んだのは、まだ最初の獅子にかかずらっているクレメンテだ。
「アレシュさん! 何をなさってるんです! 親友を犠牲にするなんて、後で巨大な後悔があなたを押し潰しますよ! あなたは心の底まで悪人ではないのだから!」
善意で投げかけられる言葉を受け流し、アレシュはじっと犀を睨んで答える。
「犠牲になんかしていない。最初っから、こうしておけばよかったんだ」
「アレシュ……なんてかわいそうなひとだ!」
クレメンテが同情のあまり涙目になっているうちに、犀の動きがぴたりと止まった。
醜く皺の寄った巨体をそらせ、猛禽のごとき前足で空を引っ掻いた後、その不安定な姿で動かなくなる。
かと思うと、灰色だった身体が端から完璧な白に変わった。
真っ白になった犀の全身には瞬く間にひび割れが走り、硬質な音と共に砕け散る。
白い粉と共に辺りにまき散らされた冷気に、カルラが敵を屠る手を止めて瞬いた。
「あー、なるほど。そっか、下僕ちゃんの冷気の呪いで凍らせたのか。乱暴だけど、そっちのほうが早いわ」
「まあ、僕は下僕の扱いには馴れてるからね」
アレシュが言って胸ポケットから飾り編みのハンカチを取り出していると、犀の中から現れたミランがものすごい形相でこちらへ歩いてきた。
外套の前を乱したミランからはおそろしい冷気が放出されており、辺りの大気を白く染める。
「アレシュ……貴様、俺を一体なんだと思っている!」
ミランは今度ばかりは本気の怒りをこめてアレシュのタイを掴んだが、アレシュは敵のほうをにらんだままだ。
「下僕、ちょっと試してみたいことがある。僕にひざまずきたくなかったら、呼吸を止めろ」
「試す? 香水か? そんなものはさっぱり効かないと、さっきカルラ姉さんが言っていただろう!」
「うん。父さんの香水は、効かなかったね」
アレシュは囁き、手の中の小瓶からほんの一滴の香水を飾り編みに落とす。
そして、そのハンカチをふわりとミランの頭越しに投げつけた。
白い飾り編みは、ミランの背後にそっと忍び寄っていた大蜥蜴の眉間に当たる。
途端に、辺りには快と不快の境目をいくような、刺激的な香りが漂った。
冷えた冬の朝に、針葉樹の下での野宿から目覚めたような香り。頭を冴えさせる木の実と緑と雪の香り。覚醒と同時に心細さを感じさせるようなその香りは、すぐにどっしりとした甘みのある芯を感じさせるそれに変わっていく。
異常を感じ取ったのだろう、ミランは口元を押さえて顔をゆがめ、息を潜めている様子だ。
飾り編みを投げつけられた蜥蜴はというと、大粒の宝石みたいな琥珀色の目を細め、鬱陶しそうに何度か首を振った。
そして不意に大きく目を見開くと、今度はぐうっとアレシュたちのほうへ顔を近づけてくる。
ぎょっとしたミランはとっさにアレシュの前に出るが、蜥蜴は彼の肩にどっしりと顎を載せ、アレシュのほうへちろちろと舌を伸ばした。
ミランは蜥蜴の重みで大いによろけたが、アレシュは微笑んで腕を伸べる。
「……いい子だね。おいで」
アレシュが甘く囁くと蜥蜴の瞳はとろんと潤み、絹のような肌触りの舌がくるりとアレシュの腕にからまった。
アレシュが顔をのぞきこんでやると、蜥蜴はどこかうっとりとした瞳でアレシュから舌を離す。
相手から種を超えた猛烈な好意と依存心を感じ取ると、アレシュは赤い目を光らせて囁いた。
「さあ、では、今このときから、お前たちの敵はかつての仲間たちだよ。――すべて、殺せ」
静かに投げ出された言葉に、蜥蜴は素早く身を翻した。
一息でルドヴィークと戦っていた魔物に飛びかかると、研ぎ澄まされた爪を相手の毛皮に突きさしてよじ登り、凶悪な堅さの鱗にナイフのような牙をたてる。
噛まれた相手はまるで人間のような悲鳴を上げて転がり、いきなり敵に退場されたルドヴィークは驚きをにじませて顔を上げた。
「これは……? アレシュ、あなたですかな?」
彼の問いに、アレシュは軽く一礼する。
そうして顔を上げた彼の周りは、比喩ではなく暗く見えた。
芳醇な夜が彼を包み、彼の白い顔をなおさら蒼白く浮かび上がらせる。瞳はどこまでも冷たく光り、普段は華奢にしか見えない身体は得体の知れない力に満ちて優美に舞う。
その様に、戦っていた使徒たちも、魔物たちも、ふと視線を奪われて動きを止めた。
なんだろう、この存在は。この存在に満ちた、奇っ怪な力は。
その変化はアレシュ自身も気づいている。いつもどこかで感じている寄る辺のなさのようなものはすっかりかき消え、代わりに身の内に満ちているのは尽きずわき上がってくる熱だ。
情熱なのか、自信なのか、いわゆる魔力といわれるようなものなのかはしらない。
むしろそれらすべてが、いくらでも身体の奥からくみ出せるかのようだった。
今や魔界の空気を甘くすら感じながら、アレシュは歌うように言う。
「パルファン・ヴェツェラ一〇三番。皇帝の鎖。――僕の新作だ。嗅いだものには猛烈な被支配欲がわき上がる。這いつくばられるのは僕の趣味じゃないんだが、ここではそれくらいの無礼は必要みたいだからね」
彼の声は楽の音を含み、指がひらめけば操られた大蜥蜴が歓喜の震えを起こす。
その震えは彼が噛みついていたサソリと狼の入り交じった獣に伝播し、さらにその隣に居た巨大な蛇にも、まるで波紋が広がるように伝わっていく。
彼らは瞳を人間のように潤ませたか思うと、猛然と未だ敵対している化け物どもを食い散らし始めた。




