第90話 交渉決裂
「なんと! あなたは、七門教の七人の神を、魔界の王と兄弟だと言うのですか!?」
クレメンテはいつもとは打って変わって険しい顔になり、丸天井を仰ぐ。
アレシュもつられてよくよく見れば、そこに描かれた天井画は七門教の宗教画に酷似していた。差は、ひとの代わりに様々な動物や、名状しがたい何かの姿が描かれていることだけだ。
グリフィスの声は、どこか神妙な色を含んで続ける。
「わたしは事実を述べたのみであるが、君たちの仲間は事実を塗り替えようとして何度もわたしたちの世界に侵入しては汚いごみになっていったね。あれは残念な出来事だった。言ってみればごみの不法投棄であるわけだから。
はてさて。アレシュ、今さらそのような宗教談義をするのが君たちの目的か? 君とは紳士的にやっていけると思っていたのに、わざわざ敵対を望むのか?」
「はい! わたしはあなたを、ただちに叩きのめ――」
アレシュはクレメンテの口をすかさず手のひらで押さえ、なるべく落ち着いた声で告げた。
「誤解なさならいでください。僕らはあなたと敵対したいわけではありません。あなたの生き方を否定するわけでもない。ただ、ハナを、返してほしいだけなんです」
「ハナを? しかし、返すも何も。彼女は元からわたしの婚約者であるよ。一時的に君を監視してもらっていただけで、彼女は君のものではないのだ」
さも当然のようにだだっ子に教え諭す口調でグリフィスは言う。
アレシュはもがくクレメンテをミランとルドヴィークに押しつけてから、深紅の瞳をいささか冷やして、どこにいるとも知れないグリフィスに向き直った。
「婚約者――それは、食べるための、婚約者ですか?」
「いかにも。愛しき、美しき相手を食べ、同化する。それがわたしの愛だよ。それとも君は、他人の愛の形に文句をつけるほど狭量であったのか?」
グリフィスの返事は揺るぎなく、どことなく高潔な響きすら含んでいるようにアレシュには聞こえた。
アレシュは高級そのものの大理石を踏んで、数歩書架の間を進む。
視界の端に、まだ緩やかに湯気を立てている茶器が映りこんだ。それが呼び覚ます穏やかなヴェツェラ邸の午後のことを思い出し、アレシュは静かに告げる。
「僕は様々な愛の形を尊びます。どれもこれも愛だ。殺し合いですら、愛として成立することはある。ですが、それとはまったく別のところで、僕にとってのハナはメイドでした。彼女がいなくなったら、僕はお茶ひとつ入れられません。紳士として、これはとても困ります」
グリフィスの返事はまた別の棚、『冷静さ』と書かれた棚の向こうから響く。
「ならば他の者を雇いたまえ、アレシュ。君のような立派な紳士に雇われたい者は山ほどいる。その中の誰かを救ってやり、ハナの代わりとして等しく愛でたまえ。それが誇り高く慈悲深い紳士のやり方であり、誠実だ」
あまりにも正しい理屈に、アレシュは中空を見つめて笑った。
紳士的にではなく、どことなく妖艶に。
見る者が居れば誰もが吸いこまれるであろう、その底なしの闇に似た微笑みに、周囲の空気がかすかに震える。
まるで空気が頬でも染めたかのよう。
グリフィスもまた、きっと自分を見ている。
そんな確信を胸に、アレシュは軽く目を伏せて胸に手をあて、貴婦人にするような礼をしてから言う。
「実にごもっともなお言葉です。ならば、僕はここからは紳士でいるのをやめましょう。ご存じ無いでしょうが、あなたが僕らのところにやってきた夜、ハナは僕に『愛しているか』と訊いてきたんです」
「なるほど?」
グリフィスの声は平淡だ。
さっきとまったく同じ調子。
それでも発音の裏にほんの少しの嫉妬の匂いをかぎ取って、アレシュは本心からの柔く甘い笑みを浮かべて続ける。
「僕はあのとき、彼女の問いの意味を取り違ってしまいました。彼女は僕に大人の男女の愛を求めていたわけじゃありません。彼女は、彼女の主人であり、彼女のもっともそばに居る大人、彼女の保護者としての僕に、助けを求めていたんです。あなたから助けてくれ、あなたの愛の呪縛から救ってくれ、と」
そこで一度言葉を切って、アレシュは言う。
「あなた、とっくにハナに嫌われていましたよ?」
アレシュの言葉が響くと、空間全体が死んだかのような沈黙が満ちた。
柱についた無数のオイルランプが、一斉にゆらり、と揺れて光を落とす。装飾過多の図書館は鮮やかな色を失い、お茶から上がっていた湯気はぴたりと止まる。
音らしい音と言えば、いつの間にかどこか遠くで鳴り出した、かち、かち、かち、という、時計よりは早いリズムの機械音だけ。
四方からひたひたと緊張が押し寄せ、同時に周囲の気温が下がる。
アレシュの美しい革靴から入りこんだ冷気が這い上り、やがては心臓に指をかけ、きゅっと握りしめようとする。
アレシュがひっそりと深呼吸したそのとき、不意に四方八方からグリフィスの声が落ちてきた。
「すべては君の推測だよ、アレシュ。君は我々寄りの存在だ。そして、まだ『死』を必要以上に悪と見なすほどには、子供なのだ。君もわたしほどに長く生きたときには、今とは別の考えを持つだろう。
――わたしはそうなった君と語り合いたかった。
わたしは本当に、君に才能を感じているのだよ。ひとを食えばその力と知識は手に入るが、才能のもっとも深いところだけは、いくら長生きしようと、食べようと、完全には己のものにはならぬ。……しかし」
妙に優しいグリフィスの言葉が途切れると、図書館全体がわずかに揺らぐ。
(――揺らぐ?)
アレシュは自分の感覚に疑念を覚え、視線だけで辺りを探る。
すると、その揺らぎと見えたものの正体はすぐにわかった。
図書館の高い天井を支える大理石の柱、そして漆喰の天井。
それらがすべて液体と化したかのように、ふるふると波打っていたのだ。
変化はそれだけではない。天井から乗り出した様々な漆喰細工に、柱の獣たち。それぞれが物憂げに首を振り、壁に爪を立てて己の身体を壁から引きずり出そうとしている。すっかり固まったはずの漆喰が、白い水滴と化してぼとぼとと床に落ちる音が立った。
「ばかな……! ここの彫像、すべてが使い魔か? 使い魔を壁に塗り固めて飾るとは、一体どんな変態趣味だ!」
ミランが叫び、クレメンテが悲しげに目を細める。
そんな中、グリフィスはかすかに笑って言った。
「君がそこまで人間風に生きようとするのなら、やはり、我々が友となるのは無理かもしれんね」
言い終えた途端、天井から有翼の獅子が抜け出した。
漆喰の翼が風をはらんで羽ばたき、双頭の獅子は軽やかに『忍耐』と書かれた書架の上へ載る。馬車一台分ほどの大きさがある獅子が載った途端、書架はとてつもなく貴重であろう本を巻きこんで一気に崩れた。
それを皮切りとして、あちらでもこちらでもぼとぼとと異形のものが書架の上へ、隙間へ、大理石の通路へと落ちてくる。
「――行きなさい」
厳かなグリフィスの命令が辺りに響くと、奇っ怪な獣たちは一斉にアレシュたちめがけて殺到した。




