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廃王国の六使徒  作者: 栗原ちひろ
第2部 禁書庫の六使徒
89/112

第89話 魔界の紳士と聖職者

「なんだ、これは! 魔界どころか、どこぞの屋内ではないか。あの装置、やはり壊れていたのではあるまいな!?」


 素っ頓狂な声にアレシュが振り返ってみると、広々とした大理石の通路にミランとルドヴィーク、カルラとサーシャ、ついでにクレメンテの姿が見える。

 誰の姿も元と変わっていないことにほっとして、アレシュは皆をねぎらった。


「みんな見慣れた姿で到着して本当によかった。ここは多分魔界だと思うよ。……そうだよね、カルラ?」


 彼の問いに、カルラが熱心に周囲を観察しながら答える。


「そうね、魔界よ。魔界の観光をする前にお迎えが来ちゃったみたいだけど」


「お迎え、ですか。拝見するに、ここは図書館。――とすると?」


 仕込み杖をそれとなくつかみながら、ルドヴィークが錆びた声で言う。

 長年の修羅場で鍛え上げられた彼の感覚をもってしても、ここはあまりにも広いのだろう。大聖堂並みに高い天井、どこまでも続く大理石の床の上には、ずらりと書架の列が並び、その果てはぼんやりと霞んでいる。

 得体の知れない獣の像が身を乗り出す柱の陰に何か潜んでいないか、ルドヴィークがぎりぎりと神経を集中しているのがアレシュから見てもよくわかった。


「ここはグリフィスの図書宮殿だよ。僕が彼の竜に呑まれたときに見た光景、そのままだ。ということは、おそらく……」


「私たち、魔界に来た途端に、グリフィスの竜にぱくっと呑まれたってことね」


 アレシュの言葉を、カルラが引き継ぐ。

 すると、右前方の書架から軽やかな笑い声が響いた。笑い声は遙か高い天井まで響き渡り、楽しげな声が続く。


「そのとおり。君たち――少なくともアレシュはわたしの尊敬する紳士であるから、迎えに出るのは礼儀であろう。ここは魔界。我々の庇護なしに外を歩けば、人間にとってはいささか不愉快なものを目にすることもある場所であるからね」


「グリフィス、そこか! 俺は『深淵の六使徒』ミランだ! 礼儀を気にするくらいなら、逃げ隠れせずに出てこい!」


 ミランが叫び、足早に声が聞こえてきた書架へと歩み寄る。

 アレシュは彼を見送りながら、その書架に『挨拶』と刻印された金属板が打ち付けられているのを見つけた。

 どうも妙な分類だ。

 呪いに関わる危険で貴重な本ばかりが集まる百塔街に一般公開されている図書館はないから、アレシュの図書館知識は本で読んだ範囲のものでしかない。それにしても、『挨拶』の棚はおかしいだろう。


「ミラン、不用意に歩き回るな。ここは奴の使い魔の中だ」


 声をかけてはみたが、ミランはすでに『挨拶』の書架の向こう側にいた。


「おい、どういうことだ!? 誰もおらんぞ、ここには!」


 素っ頓狂な叫びにアレシュはため息を吐き、カルラはぶるりと震える。


「……下僕ちゃんって、どうしてあんな調子でここまで生き残ってこれたのかなあ……。あれはあれで、才能よね」


「なんだかんだで、下僕にかかっている呪いは凶悪だしね。『滅多なことでは死なない』っていう保証があると、案外人間はばかになるのかもしれない。――カルラ、それより君、ものすごく顔色が悪いけど。大丈夫かい」


 アレシュが訊くと、カルラはくるんと上を向いた睫毛を震わせて力なく笑った。


「うん、多分、大丈夫。グリフィスは私たちを歓迎してるし、悪いことは何も起こっていない。ただ……怖いのよ。すっごく無力な感じ。少しも痛くないまま四肢切断されて磔にされてるような……怖すぎて、ちょっとほっとするような気分」


 彼女がかつてないほどにおびえているのがわかり、アレシュはとっさにカルラの肩を抱き寄せた。彼女はふざけるでもなく、抵抗するでもなく、ただ震える息を吐いてアレシュにすがりついてくる。

 歴戦の魔女がこうもおびえるなんて、どう考えても尋常ではない。

 グリフィス、一体どう出る気だ。


「アレシュ、あちらには何もない。ひたすらに書架が続いているだけだ。本を一冊取り出してみたが、噛まれそうになったので戻してきた。おっ、どうした、そこはよりを戻したのか?」


 駆け足で帰ってきたミランを無視して、アレシュは周囲を注意深く見守った。

 すると、今度は『挨拶』とは通路を挟んだ反対側の書架の陰から、すうっと円い茶卓が押し出されてきた。


「なんだ? 今度は声ではなく、お茶が出たぞ」


 顔をしかめたミランが言う通り、なめらかな木の天板の上には、小じゃれたお茶の用意が一式そろっている。


「お茶でも、いかが?」


 グリフィスの声は、今度は茶卓が出てきた書架の陰から響いてくる。


「……声の位置は変われど、気配はどこにもありません。やっかいですな」


 ルドヴィークが囁くのを聞きながら、アレシュはどこへともなく声を張り上げた。


「ありがとう、グリフィス。ゆっくりいただきたいところだが、今日はその暇がないんだ。実は……」


「魔物よ! このわたし、クレメンテ・デ・ラウレンティスの名において! もうこれ以上悪事を重ねるのはおやめなさい!!」


「おい、クレメンテ、割りこむな!」


 アレシュは慌てるが、クレメンテがそんなことでひるむわけもない。

 彼は筋肉質な肩に引っかけていた綺麗な刺繍入りの袋を開いて、中から金属製の籠手を取りだし始めた。かつては彼が戦う気になるだけで勝手に出てきた籠手だが、奇跡が薄まった今は自分でつけなくてはならないらしい。

 状況を無視したクレメンテの行動に使徒たちは引きつり、グリフィスは丸天井のてっぺんから真面目な声を落としてきた。


「魔界に来て人間界の善悪について語るとは、あまりにも不躾であるね。

 ふむ――しかし、そこの彼からは、我らが魔界の父の弟、裏切りのゼクスト・ヴェルトの匂いがする。ならばその乱暴さにも納得はいくよ。ゼクスト・ヴェルトは、天の八兄弟の中でももっとも暴力的な者。論や知識を暴力として使い、世界のすべてをどん欲に求める、飢えの化身こそ奴の真の姿だ」


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