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廃王国の六使徒  作者: 栗原ちひろ
第2部 禁書庫の六使徒
88/112

第88話 天文時計が繋ぐ過去

 使徒の皆はぎょっとしてアレシュを見る。いくら一度勝負はついたとはいえ、相手は百塔街を滅ぼそうとした聖職者だ。よりによって六使徒のアレシュが、彼に助けを求めるとは。

 一方のクレメンテは、文字通り淡く輝く笑顔になってうなずいた。


「はいっ!! ああ……なんて素敵なんでしょう、わたし、ずっとあなたのその言葉を待っていました。やっと悔い改めてくれる気になったんですね、アレシュさん!」


「そうなんだ、クレメンテ。聞いておくれ。実は、僕の大切な人が魔界の男に攫われてしまって……どうしても彼女を救い出したいんだ!」


 アレシュが打った見え見えの三文芝居にうんうんと頷いたのち、クレメンテは両手を組み合わせて盛大に叫ぶ。


「素晴らしいっ! それです、それが愛です! 数々の苦難の中で、あなたの愛はすくすくと育っています。あなたが気づかれたように、魔界の男は皆邪悪です!

 ……邪悪。そう。そのはずです。そう……実際はどうなのでしょう? わたしは魔界の人間とちゃんと話をしたことがないですし、魔界の倫理に生きる彼らをこちらの倫理で裁くこと自体がおかしいような気もしなくもない……ああっ、駄目だ、わたしはやっぱり間違っているのでは!?」


「間違ってるかどうかは、魔界で実際色々見てから考えればいいことだろう? さあ行こう、今すぐ行こう、一緒に行こう、カルラ、頼むよ!」


 アレシュはクレメンテの腕をつかんで叫び、カルラは小さく肩をすくめて時計塔の扉へ向かった。胸元から取り出した鍵で小さな鉄扉を開け、皆を招く。


「こっちよ。中に時計の制御機構があるわ」


 彼女の導きに従って時計塔の内部に入ってみると、そこは歯車の軋みに満ちた暗闇である。扉から差しこむ光でわずかに見える粗末な螺旋階段を慎重に上って行くと、時計塔の整備のための作業空間であろう、板張りの場所に出た。

 周囲は巨大な歯車だらけ。嫌な震えとぎりぎりいう軋みを嫌と言うほど感じる。


「いい? わかりやすく言うと、世界は震えで出来ているの。同じ震えを持ったものが、同じ世界に存在する。別の震えを持ったものは私たちには見えないまま、この世界と重なって存在している。それが、魔界」


 カルラが語りながら角灯を歯車の間にさしのべると、巨大な金属製の天球儀の姿がぼんやりと浮かび上がった。幾つも重なった可動式の金属輪には、数え切れないほどの星の模型がついている。

 複雑怪奇なそれに向き合い、カルラは静かに目を細めた。


「私はこれから、星の力を借りてあなたたちの震えの種類を変えるわ。魔界のものと同じ震えを帯びたとき、私たちは魔界のものになる。震えが変わる途中で、過去や未来や、他の世界や、色んなものが見えるかもしれないけど――狂っちゃ嫌よ?」


 どことなく甘く言い、カルラの指はそっと複雑な星の配置を組み終える。

 同時に時計塔内部の歯車が止まる。

 しん、という、不気味なほどの静寂。

 そして、次の瞬間。

 巨大な歯車たちは、いっせいに今までとは逆方向に回り出す。すさまじい軋みが古びた時計塔全体を震わせ、頭上からはぱらぱらと埃や木くずらしきものすら落ちてきた。


「これは……派手だな」


 アレシュは帽子を押さえ、ミランは焦りを隠しもせずに叫ぶ。


「おい、この塔、呪法が終わるまできちんと保つのか!?」


「大丈夫大丈夫、この間使ったときも大丈夫だったもん」


 カルラの気楽な声に、ルドヴィークはいつも通りの穏やかな声で訊いた。


「この間、というのは、百年以内のことですかな?」


「えーっと……うん。大丈夫、私が前に使ったのは、せいぜい五十年前くらい」


 カルラは無邪気に言い、ミランがぶるぶると震えて怒鳴る。


「そんなもの、大昔ではないか! っ、おい、今、どこかで何かが弾けた音がしたぞ!」


「今からでも遅くありません、皆さん、祈りましょう! 祈っていれば神が助けてくれるとも限りませんが、とりあえず心の平安は保てます!」


「クレメンテ! 祈りはただの気休めだと、貴様が認めてどうする! うおっ!」


 力一杯叫んだミランが、何かに気づいて大きく跳びすさる。

 ほんの少しの間をおいて、今まで彼が居たところにへし折れた梁らしきものが落下してきた。梁はけたたましい破砕音と共に、木製の床を串刺しにする。

 ついでばらばらと落ちてくるのは、時計塔の屋根に使われていた石瓦だ。床に置かれた角灯の灯りが狂ったように揺れる。

 一体どこが安全圏なのかもわからない。アレシュは顔だけかばって必至に足を踏ん張る。激しい揺れの中、どうにかこうにか目を凝らす。

 と、不意に目の前から色が失せた。

 埃のせいかと思って瞬くものの、辺りの様子は変わらない。ありとあらゆる色は失せ、すべてが灰色の濃淡の中に沈みこんでいく。

 灰色にぼやけた世界でも歯車はけたたましく回り、それらの向こうに、ふと、ひとりの見知らぬ紳士の姿が見えた。


(魔界の紳士でも出たか?)


 アレシュは警戒して彼を注視する。そしてすぐにぎょっとして息を呑む。

 見知らぬ紳士?

 いや、自分はこの後ろ姿を知りすぎるほどに知っている。

 骨張った背中。

 仕立てのいい紳士服。

 ひらめく指先。

 心臓が大きな音を立てる。

 その音に気がついたかのように、灰色の紳士が緩やかに振り返った。


「誰かと思えば、アレシュ、お前か。……しかし、少々育ちすぎだな。お前、本当はどこにいる?」


 父さん。

 アレシュの唇が震える。

 気づけば辺りの騒音はぴたりと止まり、カルラを始めとした他の人々の姿は消えていた。


 ――過去や未来や、他の世界が見えるかもしれないけど。


 そんなカルラの声が耳の奥で再生される。

 今目の前で起こっているのは、そういうことなのか。アレシュの波長が魔界の波長に合う前に、過去の波長に合ってしまったというのか。

 それにしても、過去の父に、自分は一体何を言えばいいのだろう。

 アレシュは口ごもった。


「僕は……ここにいます。でも……」


「ふむ、自分で説明もできん事態か。まあ、この街のこの場所だ。何が起こっても不思議ではないが……そうだな。せっかく会ったのだ。

 ――一緒に行くか? この先に行けば、母さんに会えるかもしれんぞ」


 淡々と誘われて、アレシュの心臓は跳ね上がった。

 母に? 本当に母に会えるのか? 

 父は生前、この時計塔を使って母に会おうとしていたのか?


 行きたい、と思った。


 素直に彼の手を取りたいと思った。母に会いたいのはもちろんだし、何より父の態度が嬉しかった。

 生前の父は、こんなふうにアレシュを誘ってはくれなかったから。いつも上から言い聞かせるばかりで、大人の男として扱ってくれたことはなかったから。

 もう少し、あと少しだけ父が生きていたら。

 大人同士として相対してくれたら。

 そんな叶わぬ夢が、今目の前にある。

 父の手を取りたい。本当に、取りたかった。アレシュの指はぴくりと動く。

 けれど、それだけ。

 ――立ち尽くしたままのアレシュを見て、父は、穏やかに微笑む。


「来ないのか。まあいい。他に大切な用があるのだろう。……その香水、いい香りだな。お前の癖が出ている」


 さらりと言われた台詞に、アレシュは今度こそ目を瞠った。思わず数歩前に出て、勢いこむ。


「僕の調香の癖、わかるんですか? 父さん、僕は、本格的に調香を始めたんです。あなたに……あなたに作れなかったものを、作りたくて。名誉が欲しいわけじゃない。あなたに勝ちたかったのかっていわれると、それもわからない。でも、ただ、とにかく作りたくて」


 父はアレシュの言葉には直接答えず、淡々と闇の中で指をひらめかせ、例の天球儀を操りながら言う。


「お前は、ひょっとしたら、わたしより早く母親に再会するかもしれんな」


「……父さん、それは……!」


 アレシュが叫んだのと間を置かず、天球儀が止まった。

 辺り中の歯車がいったん止まり、凄まじい音を立ててまたも動き出した。

 轟く歯車音の中、アレシュの視界が細かに縦揺れを始めたかと思うと、じんわりと世界に色が戻り始めた。それにつれて、灰色の父の姿はぼやけていく。

 やがて父が完全にアレシュの視界から消え去ったとき、ふっと辺りの空気澄んだ気がした。


「これは――」


 アレシュは我知らずつぶやき、緩やかに視線をあげる。そこに古びた時計塔の屋根はなかった。百塔街の赤い空もなかった。

 あったのは、絵に描いた空だ。

 遠く、高い丸天井はうす水色に塗られ、硝子細工みたいな羽根を震わせる巨大な羽虫の絵が描かれている。

 忘れもしない、ここはグリフィスの図書館宮殿である。

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