第86話 グリフィスの愛はたくさんある
美しい男の、美しい愛。
その瞬間、ハナはまるで魔法にかかったみたいに、不在の母親とメイドのことがどうでもよくなった。今までひどく心地よい場所だった家もどうでもよくなった。
目の前にいる、自分を愛しているひとがすべてだった。
ハナは何度か嗚咽みたいな息を呑みこんで、彼に駆け寄った。
すると彼はすがるみたいにハナを抱きしめて、言った。
――君と会うために、ここまで生きてきたよ。君が好きだ。たまらない。もう少しもじっとしていられない。離れたくない。一緒に来てくれるかい?
必死さのにじむ愛の言葉に、ハナは心臓が暴れ始めるのを感じた。
もう、これ以上心臓が騒いだら、自分は生きていられないかもしれない。そんなことを考えながら、必死にうなずいた。
――はい。私はあなたのものです。私も、あなたに会うために生きてきた気がする。……愛しています。愛している。愛しているから、連れて行って、ここから。
言葉を重ねるたびに相手の顔は輝き、ハナはどこか誇らしい気分になった。
この高貴そうなひとを救っているのは自分だ。この笑みを浮かべさせているのは自分だ。
昨日までは家の中でひたすらに料理に明け暮れるだけだったのに、今日はこのひとを笑顔にしている。それってなんて素敵なことだろう。
こんな気持ちが味わえるのなら、このひとの横にずっと居ても構わない。
そう幼い心が決めたとき、男はハナの手をうやうやしくとって外の世界へと引きずり出した。
強い風がハナの髪を揺らし、むせかえるような美味しい匂いを運んできた。いつもハナが家の中で嗅いでいたような血と肉の香り。
ハナの柔らかな室内履きが血溜まりに浸って、じんわりと赤黒くなっていく。
ハナは汚れた自分の足を見下ろし、ほんの少し首を傾げて周囲を見渡した。ハナの屋敷の前はそこそこ広い円形広場であったが、今は人気がなかった。
正確に言えば、立っているひとがひとりもいなかった。
黒々とした石の間を、赤い血がしっとりと湿している。ゴミがいっぱい散らばっていて汚いな、と思ったが、ふとそのゴミのひとつと目があった。
あまりに人相が変わっていたのでよくわからなかったのだけれど、それはどうやら、母親の中で唯一ひとらしい面影を残していた顔部分の半分らしかった。
ハナがぽかんとして血溜まりの中の母の顔を見つめている間にも、男はハナを抱きしめていた。まだ、熱い言葉は耳の中に注がれていた。
――愛しているよ、君。君は若く美しい。わたしは、君となら一緒になれる。君の母上や、この辺りの他の住人たちは歳を取りすぎていて、色々混ざりすぎていたからゴミにするしかなかったけれど、君となら、一緒になれるんだ。
どうかわたしと結婚して、わたしに食べられてくれまいか。
彼の声は相変わらず必死で、愛に満ちていた。
それが耳から入って、熱さと冷気を同時にハナの身体に植え付けながらどんどんと身体を冒してきて、最後に、ぎゅっと心臓を握りしめられた気がした。
食べられる、のは嫌だった。
とってもとっても、嫌だった。
それでも、このひとは、やっぱり自分のことを愛している気がした。
本当の本当に愛している気がした。
母親が傾けてくれた愛だって、こんなに真摯ではなかった。
そう思うと少しも動けなくなって、逃げるだなんて考えることもできなくなって。
――そうしてハナは、グリフィスの婚約者になったのだった。
古い思い出がまだ視界の端で躍っているのを感じながら、ハナはじっと目の前のグリフィスの顔を見上げて囁く。
「ひとつ、訊きたいことがあるのです」
「言ってごらん、わたしの愛しい花嫁」
心からの誠実をこめて、グリフィスが囁く。ハナの指は、痛いほどにヴァイオリンを握りしめる。唇はどうにか、言葉をつむぐ。
「あなたは私を愛していますか?」
言い古された言葉。
グリフィスは切実に笑うと静顔を傾け、ハナの耳に噛みつこうとしてガチガチっと激しく歯を鳴らす。
美しい唇の間からこぼれた生臭い息がハナの耳にかかり、熱い言葉が注がれる。
「愛しているよ。愛している。だってお前は、わたしの一部になるのだから。お前はわたし。わたしはお前。婚礼の際にこれらの像がお前を切り刻んだなら、わたしは全身にお前の血を浴び、お前の首に熱く口づけるであろう。他の花嫁たちにそうしてきたように……いや、もっと情熱的に、だ。そのときの私は、完璧にお前だけのものとなる。お前を噛みしめ、飲みこむときの私だけは」
何度も何度も語られた熱烈な愛の言葉に、ハナはかすかな目眩を感じた。ぐにゃり、ぐにゃりと目の前が歪む。熱すぎる愛でねじ曲がる。
立っていられなくなる前に、ハナは目を閉じて囁く。
「あなたは本当に、私を愛している?」
「愛しているよ」
「私を?」
「お前だけを、愛しているよ。お前は数多の花嫁の中でも、一番の存在だから」
メトロノームみたいな機械のリズムで返事が投げかけられる。
何年か前も、ふたりはこんな会話を繰り返した。
それはグリフィスの花嫁――ハナではない別の花嫁が死んだ日のことだった。
あの日、ハナはなぜか自分の部屋にいられず、他の花嫁の部屋を見てしまった。
その部屋には食べかけの花嫁とグリフィスが居て、白かった部屋は完全に真っ赤に染まっていて、あの、美味しい、たまらない匂いがして、ハナは少しも動けなくなってしまった。
山ほどいる花嫁が順々に消えるわけなんか、とっくにわかっていたことなのに。
なのに決定的な瞬間を見てしまったハナは、グリフィスが花嫁を食べ終わるまで全然そこから動けやしなくて、ずっとずっと震えて、しあわせそうなグリフィスを見ていた。
グリフィスは花嫁を食べ終わるとハナに気づいて、優しく抱きしめてくれた。
ハナを見下ろして、愛のこもった言葉を囁いてくれた。
ハナは、暴れなかったし、悲鳴もあげなかった。そんなハナにグリフィスは驚き、喜び、運命のひと、とハナを呼んだ。
しかしハナはただ、重く冷たい心臓をもてあましているだけだった。
どうしてなんだろう、ここには確かに愛があるのに、私の心臓はどうして冷えるの。
彼の愛を受け取れない自分は不実なの?
出会ったときのときめきはどこへ消えたの?
私の恋心は不能なの?
そんなふうに何度も何度も考えて、苦しくて、死にそうになっていた。
――でも死ななかった。だって、『彼』が来たから。
そう、アレシュが。




