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廃王国の六使徒  作者: 栗原ちひろ
第2部 禁書庫の六使徒
85/112

第85話 魔界の愛の話

 かち、かち、かち、と、あまりにも正確に振り子が音を立てる。

 かち、かち、かち。

 狂いようがない、機械のリズム。

 それにあわせて、手袋をした指が左右に振られる。


「さあ、それではそろそろ始めようか、わたしのハナ」


 優しく澄んだ声が処刑機械の音みたいに響いて、ハナは小さく息を呑んだ。

 肋骨の奥で心臓が躍る。胸が苦しいけれど、そんなことを言ってはいられない。彼の言うことは絶対だ。

 幼い指がたどたどしく弓を操ると、ハナの喉の代わりにヴァイオリンが悲鳴みたいな音を高い天井に投げ出した。

 グリフィスはわずかに眉根を寄せ、指を振るのをやめる。

 白手袋をした手がすかさず卓上のメトロノームを止めた。機械のリズムが止まり、辺りはしん、と静まりかえる。


 ここはだいぶん奇っ怪な場所だ。

 城の広間並みのだだっ広い空間を、白い大理石でできた階段が埋め尽くしている。階段はどこへ続くわけでもなく、上がったり、下がったり、交差したり。

 一番上の踊り場にはグリフィスが座るための、やたらと背もたれの高い無機質な椅子がひとつ。

 椅子の横に、天球儀の上に大理石の天板を置いた円卓がひとつ。

 円卓の上には、クリスタルグラスの中に美味しそうな色の宝石が一握り盛られ、傍らにメトロノーム。

 実用品らしきものはそれですべて。

 あまりにも謎な一室、ここもまたグリフィスの図書館にあるのだ。


 グリフィスは玉座から緩やかに立ち上がると、はるか下方のハナをめがけて階段を下り始めた。

 天井の真ん中に空いた四角い天窓から落ちる光が白い石に反射して、グリフィスのつるりとした美貌を浮かびあがらせる。


「ハナ、君はちっともヴァイオリンがうまくならないね。向こうではちゃんと練習していたのかね? 君のわたしへの愛を疑いたいわけではないのだ……むしろ、疑わせないでくれまいか。よりによって君を疑うだなどと、わたしも辛いのだ」


 穏やかな声と、やけに響く靴音が、ハナの心臓をぎゅうぎゅうと押しつぶす。

 ハナは階段の一番下にたたずんだまま、グリフィスが歩み寄るのを待って唇を震わせた。


「ごめんなさい。ごめんなさい」


 どうにか外に出せる言葉はそれだけ。他には何も思いつかない。

 痛々しいまでに硬直したハナの姿を見て、グリフィスは笑った。

 こつん、こつん、と、なおも足音が響く。

 ハナは精一杯身を縮める。

 この部屋にはあまりに実用品が少ないが、装飾品らしきものはやまほどあった。

 階段のところどころ、そしてハナの左右にたたずむ、等身大の金色の彫像だ。古風で美しい男女の姿をしたそれらの間をすりぬけ、グリフィスはハナの前に立って微笑む。


「勘違いしてはいけないよ、ハナ。わたしはけして君を責めているわけではない。わたしは君を愛している。誰よりも特別に、だ。だからこそ、君のために特別な婚礼を用意したのであろう。

 よいかね? 何度も言うが、これらの像は君の弾くヴァイオリンに反応して動くように作ってある。君の弾く曲が完成したときにこれらは君を引き裂いて殺し、この婚礼は完成するのだ。

 もちろん、愛が完結するのは悲しいよ、ハナ。しかし、完結した愛こそが本物だ。そうだろう?」


 屈託のない言葉。屈託のない、仮面の笑顔。

 のど元までせり上がる苦みに押されて、ハナはかすれ声で囁く。


「はい。本物の愛を頂けるなんて、ハナは本当に素晴らしくしあわせです」


「わたしもしあわせだよ、愛しいハナ」


 甘い言葉と共に、グリフィスの指がハナの顎をとらえて仰向けさせる。

 つるりとした美貌が目の前に現れ、ハナは小さくあえいだ。ハナは彼を不誠実だと責める気はない。だって彼は、嘘は吐いていないから。


 ここにつれてこられたころ、ハナはまだほんの小さな子供だった。

 それまではずっと、比較的穏やかな生活を送ってきたのだ。

 大きすぎはせず、小さすぎもしない屋敷。メイドはひとり。

 親は母親しかいなかったし、彼女の姿は物心ついたときには巨大な蜘蛛同然だったけれど、それを恐ろしいと思う感性はハナにはなかった。

 ただひたすらに、母の愛に浸って生きていた。

 母はひと月に一度、狩りに出る。

 彼女はあまり力が強くなかったから、連れ帰るものに大した栄養などありはしない。それでも、彼女は必ず獲物を丸ごとハナに渡してくれた。空腹だろうに、母が獲物に手をつけるのはいつでも最後の最後だった。

 弱い親のもとに生まれついたハナの成長は遅かったが、ハナにはなんの文句もなかった。

 温かい家庭。木製の器に盛られた、愛に満ちた食事。そんな日々がずっと続くと、信じたかったのだ。

 ハナだって、屋敷の外にとんでもない世界が広がっているのは知っていた。弱いものは殺され、奪われ、下手をしたら食われる世界なのだとは知っていた。でも、まだ自分は知らないふりをしていていいのだと思っていた。


 そんなある日、このひとが来た。

 母の留守中に、何度も、何度も玄関扉が叩かれるのに、メイドが取り次ぎに出る気配がなくて。

 不安には思ったけれど、ひょっとして母さんが帰ってきたのかとも考えた。

 だからハナは自分で玄関に出たのだ。

 いくつも、いくつも錠をかけた玄関を、鎖をかけたまま細く開けた。

 するとそこからは、今まで一度も嗅いだことのないような香りと、涼やかな声が響いてきたのだった。


 ――ごきげんよう、初めまして。お嬢さん。


 夢のような声。

 魔界では滅多に聞くことのない澄んだ声に、ハナは導かれるように鎖を外して扉を開けた。

 するとそこには、それこそ滅多に見ない、まったくの人間の形を保ったままに成人した、美しい魔界の男の姿があった。

 手はどこもごつごつしていない。

 首筋には鰓も甲羅もない。

 瞳はふたつで切れ長だ。

 髪は奇っ怪な《《桃色》》だけれども、そんなことはどうでもいい。

 大事なのは彼がハナを見た途端、軽く目を見開いて震えたこと。

 まるで電撃に打たれたかのように震え、笑って、ほとんど泣きそうになって両手を広げたこと。

 彼はハナだけを見ていた。

 初対面のはずのハナだけを見つめて、両手を開いて囁いた。


 ――やっと会えた。わたしの、運命のひと。


 一息にハナの心臓をつかんでしまう言葉だった。


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