第84話 からくり少女は踊る
「これは……」
うすうす予想はしていたものの、実際目にすると衝撃的な光景に、アレシュは目を瞠って囁く。その横からカルラとルドヴィークが顔を出して中をのぞいた。
「やっぱり、ハナちゃんが内側から封印してたのねえ、この扉」
「そのようですな。これは、ハナさんが隠れるための呪法、ですかな? 彼女はあのグリフィスに見つかるのを恐れていた、と?」
ふたりの言葉をどことなく遠くに聞きながら、アレシュは夜目のきく瞳で室内を見渡す。寝台ひとつでほとんど一杯になる部屋には、壁にも床にも一面に、白墨と灰で絵と文字が描かれていた。
原初の文明を思わせる力強い筆致の獣や自然の絵と、読めそうで読めない文字。アレシュにとって妙に懐かしく思えるそれらは、おそらく魔法の術式による隠形の術なのだろう。
彼女は隠れたがっていた。
そのことを誰にも言えず、アレシュにももちろんすがれず、たったひとりこの暗闇で隠形の術を施し、あとは膝を抱えて震えていたのか。
想像すると心臓がねじれるような心地で息がつまる。
アレシュが何も言えずに歯を食いしばっていると、目の前の闇にふらりとサーシャの姿が現れた。
「サーシャ……」
すがるような声でアレシュが呼ぶと、サーシャは痩せた横顔を見せたまま、部屋の一角を指さした。
導かれるままに指の先を見ると、そこには見慣れたものがある。
「おお!『彼女』ではないですか」
ルドヴィークが嬉しそうな声を出したのは、それが例の穴の中で発見された、猫を抱いた少女のオルゴールだったからだろう。
オルゴールは粗悪な新聞紙で半ば包まれて放置されており、新聞の上には壁や床にあるのと同じような術式が描かれている。
アレシュは慎重に室内に歩み入った。
「これも、封印をしてあるんだね?」
アレシュは誰に訊くともなくつぶやいて、手にしていた上着を適当に肩へ引っかけ、からくりを包んでいた新聞紙ごと持ち上げる。
すると、からくりの下に一冊の古い本があったのがわかった。
なんの題名もついていない今にも分解しそうな革表紙の端には、小さくカルラの紋章が押してある。
「あっ、それ! 私の魔界の紳士録! あー……そうか、それもハナちゃんに盗られてたのかあ……まあ、あの子はどこにでも扉を出せるんだから、可能よね。そっか、やっぱりそうなのか……。予想、つくはずなのになあ。私、可愛い子には甘いの、どうにかしたほうがいいわ……」
カルラの途方に暮れた声を背後に聞きつつ、アレシュはオルゴールを新聞紙から取り出した。中身はルドヴィークが持ってきたとき同様にきれいなままだ。
ひっくり返してみると裏にネジがあったので、アレシュはそれを巻いてみた。
彼の手がねじから離れると、不意に懐かしい音楽が始まる。
雨だれのように、つぶやきのように、きらめきのように続くオルゴールの音楽にあわせて、からくりの少女は猫を抱えてゆっくりと首を振る。ゆら、ゆら、ゆら。
青い空が描かれた背景が徐々に回り、濃紺の夜空が現れる。夜空には巨大な猫のからくりがくっついており、それは少女の首にぱっくりと食らいついた。
ゆら、ゆら、ゆら。
少女の首を口にくわえて、猫が首を振る。
少女の体も、ゆら、ゆら、ゆら。
楽しげに音楽は続き、今度は背景の上部から巨大な手のからくりが下りてきた。
白手袋をした、紳士の手だった。
手は、少女ごと猫をぺしゃりと押しつぶしてしまう。
ゆら、ゆら、ゆら。
大きな手の下で、猫のしっぽが揺れる、揺れる、揺れる。
そして唐突に音楽は止まり、すべての仕掛けが止まった。
虚ろな静寂の中、アレシュはかすかに息をついた。
抑えようもなく眼球が震えるのを感じ、アレシュは強く目をつむる。
得体の知れないうずきが喉辺りに宿っていたが、これが一体なんなのか、アレシュにはよくわからない。
わからないままに、わかったことだけを口に出す。
「――これも、グリフィスの落とし物だったんだろう。この曲、ハナがヴァイオリンで弾いていた曲だもの。だとしたらハナがこのオルゴールに対して過剰反応していたのもわかる。捨てた手袋はともかく、落とし物ならグリフィスが探しにくるかもしれない。だから隠した。カルラの本を盗んで隠したのも、僕らをグリフィスから遠ざけるためだと思うとつじつまがあう」
アレシュはどうにか静かに言い切り、目を開けた。
「彼女はグリフィスにおびえ、そして、僕らを彼から守ろうとしていたんじゃないのか?」
口に出してみると、徐々に視界がはっきりしてくる。
耳の奥で、あの夜彼女の言っていた言葉が響く。
――私のこと、愛してますか。
唐突な問いの裏にあったのは、悲鳴だったのだ。
助けて、と言いたくても言えない彼女の悲鳴。
彼女は最初にグリフィスの竜の足音を聞いたときに、彼の来訪を予感したに違いない。だが、アレシュに助けてとは言えなかった。
そんな言い方をしたら、アレシュは六使徒を巻きこんですぐにグリフィスと敵対しただろうから。
それは彼女の望みではなく、それでも恐怖に負けそうで、助けを求めたくて、ぎりぎりのところで零れてしまったのがあの問いだった。
自分は、あの手をとらなくてはいけなかったのだ。
愛していると言えなくても、とにかくとらなくてはいけなかった。
彼女にここにいて欲しいと望むなら、そうするべきだった。
誠実な言葉なんか必要なかったのだ。
必要だったのは、この手ひとつだったのだ。
アレシュは手の中のオルゴールを見下ろし、ねじ回しをつまむと、力をこめて引き抜いた。
そしてそれを白い手の中に握りこみ、他の面々と向き合う。
小さな部屋の戸口に集まった使徒たちは、少し興味深そうな顔でこちらを見ている。
(本当は、ひとりで黙って、勝手に動くほうが格好いいんだけどな)
アレシュは諦めまじりに、小さく深呼吸してから告げた。
「さて。僕はこれからハナを迎えに行こうと思うけど、君たちはどうする?」
彼の言葉に、ほんのかすかな笑いが起こる。
使徒たちは顔を見合わせ、結局ミランが苦い顔で告げた。
「貴様はいちいち言い方がなっとらん! もっとしゃっきりせんか! やり直しだ」
「……やれやれ。下僕に言われてちゃ、世話ないね」
予想通りの返答に、アレシュもまた小さく笑った。アレシュは決まり悪く髪を整えると、あとはせいぜい、自分の顔が一番美しく見えるように微笑む。
使徒たちに優美に手をのべ、アレシュは囁いた。
「それでは、性悪な魔界の紳士に喧嘩を売る準備はいいかな?」




