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廃王国の六使徒  作者: 栗原ちひろ
第2部 禁書庫の六使徒
79/112

第79話 竜の中の図書館

「……なん、だ? ここ」


 目か頭がおかしくなったのかと思った。

 アレシュはのろのろと瞬き、床に座りこんだまま視線だけで周囲を見渡す。


 どこまでも続く、磨き抜かれた石の床。

 広さはアレシュの館のサルーンどころではない。街に空いた例の穴よりもなお大きい。むしろ果てが見えない。

 左右にずらりと並ぶ書架は堅く黒い木で作られていて、表面にはびっしりと花や人物の木彫り細工が施され、読めるような読めないような文字を刻印した金属板が貼り付けられている。

 天井を仰いでみれば、丸みを帯びた天井はすべて鮮やかな天井画に覆われていた。いかにも柔らかそうな雲間から無数の月星が輝き、羽根のある使徒が飛び交う画からは彼らの喜びの声がこぼれてきそうだ。

 ここは図書館だ。

 一度も見たことのないような、途方もなく広大で美しい図書館。


 そんな図書館にいるのは、アレシュともうひとりだけ。

 もうひとりの『彼』は、十歩ほど離れたところからアレシュを眺めて笑う。


「ここは見たとおりの場所。そして君がまとっているのは、わたしの香りだ。そうであろうね?」


 きっちりと伸びた背筋。重い刺繍の入った裾長上着。

 背中で腕を組んでこちらを見つめる男は、百年ほど前の貴族の出で立ちをした人間に見える。しかし、人間には絶対にこんな登場は出来ない。

 間違いない。彼は、すべての元凶。

 魔界の紳士だ。

 警戒心に身を浸しながら、アレシュは彼を見据えて言う。


「この香水は、僕が作ったものです。百塔街に落とされた、手袋についていた香りを手本に」


 アレシュの答えに、紳士は細い眼を目一杯見開いて、驚嘆の息を吐いた。


「なんと、やはりそうか。君の香り、わたしのものとまったく同じようであるのにさらに魅力的な隙がある。まるで心臓に細い針をつきこまれたようで、さして痛くはないがどうにも気になって仕方がない……そんな香りであった。これをこの短時間で完成させたというのなら、君は希代の調香師であるな」


 華美な賞賛はアレシュの心をわずかに浮き立たせたが、さすがに今はそれを打ち消すほどに気持ちが張りつめている。

 アレシュは用心したまま、静かに問いを重ねる。


「あなたがあの手袋の主――そして、街に穴を空けた魔界の紳士なのですか?」


「穴? ああ、そうか。この図書館の足跡だな? 注意したつもりであったが、少しばかり君たちの街を壊してしまったのかもしれない。だがそれは不幸な事故だ。わたしは破壊ではなく、探しもののためにこの街に来たのだよ。百塔街の紳士」


 どちらかというと愛想よく言い、紳士はにっこり笑って首を傾げる。

 そんな彼の様子はどこか軽薄で、貴族を演じている役者のようにすら見えるのが、アレシュには少し不思議だった。

 この紳士、顔はいいのだ。

 いいのだが、アレシュのように毒のある甘さはない。ただひたすらにつるっと美しく、特徴がないまでに淡々とした目鼻立ちで、醸し出す雰囲気は甘くて軽い。

 アレシュは彼を観察しながら訊いた。


「そうまでしてあなたがこの街で探していたもの、それは、なんです?」


「愛しいひとだ」


 相手の答えは即答だった。

 そしてびっくりするほどに、真摯な声音であった。

 アレシュは思わず緩慢に瞬いた。

 なんてありきたりで真っ当な理由だろう。愛するひとを捜すために自ら人間界にまでやってきて、問い詰められればすぐに本当のことを言う。これが本当に、凄まじい実力を持つ魔界の紳士なのか。

 今ひとつ実感を持てずにいるアレシュに向かって笑みを深め、紳士はますます顔を傾けた。そのひょうしに青色のものが彼の顔に零れ、アレシュははっと目を見開く。

 てっきり何かの装飾かと思って見ていたが、これは髪だ。


 ――青い髪の男。


「僕は、君の夢をみたことがある」


 アレシュが言うと、男はゆっくりのんびりとうなずく。


「君は半分はこちら側の人間であるからね。わたしの視線を感じたのであろう。おお、そうだ。わたしの名前を知っているかね? 知らないのなら、グリフィスと呼びたまえ。本名は君たちには発音できぬゆえ。ちなみに、わたしは君たちの名前を知っているよ。あまり力ある名ではないようだから、直接呼んでも問題はあるまいね、アレシュ」


 歌うように言って首を戻し、グリフィスとやらはどことなく優しい目になって続けた。


「わたしはわたしの愛しいひとを探しにこちらの世界にやってきたのだが、こちらへ来た途端に彼女の気配を見失ってしまってね。途方に暮れていたところへ香ってきたのが、君の作った素晴らしい香水だったのだ。わたしは魔界と人間界の狭間にいたというのに、君の香りは世界の境界を越えて香った。ただごとではないとわかったよ。そうしてわたしは君を見つけ、彼女を見つけたのだ。僥倖であった」


「僕を見つけ、彼女を見つけた……?」


「そう。そのふたつはほとんど同義だ。彼女はいつでも君と一緒にいたからね」


 当然のように言われ、アレシュはもう一度周囲を見渡す。

 必死に捜してみても、書架の間にはしん、と冷えた静寂があるだけだ。

 自室に居た六使徒たちの姿は見えない。

 しかし、アレシュといつも一緒に居た女性といえば――


「アレシュ。君が数年前にあのとんでもない力を発揮したときから、我々は君に注目していたのだ。魔界と人間界の境界を破壊する力。あれは果たしていかような結果をもたらすものなのか。我々にとって不利なのか、有利なのか? 答えはすぐに出るものではなかったから、わたしが代表して君に監視者をつけることになった。

 彼女は律儀に君のことを色々と報告してくれていたのだが、最近報告が途絶えていてね。心配になってここまでやってきたところ、彼女の気配自体も途絶えてしまい――途方に暮れたところを、君の香水が導いてくれたのであるよ」


 魔界の紳士はそう言って少し行儀悪く片眼をつむったかと思うと、すっと背を正してアレシュの背後へ声をかける。


「愛しきひと。君の無事な姿を見ることができ、これ以上の幸せはないよ」


 グリフィスの台詞に、アレシュはすぐさま振り返る。


「……ハナ?」


 壮麗な図書館の大理石の床の上。

 さっきまで無人だったはずのそこに、寝間着姿のハナが、たったひとりでたたずんでいる。片手にはいつの間にやらヴァイオリンケースを持ち、いつもの陰鬱な瞳で沈黙している。


「ハナ、君は」


 そこまで言ったところで、その先の言葉を失った。

 何をどう問うていいのかわからなかった。

 そもそも、視線があわない。ハナはどこまでも暗い瞳で、アレシュの後ろにいるグリフィスのほうを見ていた。

 彼女はやがて、静かに片足を後ろへ引いて、寝間着の裾をつまんで一礼する。


「ごきげんよう、私の婚約者さま」


 婚約者、という言葉が、アレシュの頭の中でからから音を立てる。

 視界が書き割りみたいに薄っぺらくなる。そんなアレシュの傍らに歩み寄ってきたグリフィスが、仮面みたいに笑って言う。


「笑いたまえ、私の愛しいハナ」


「はい」


 言われた通り、ハナがにっこり笑う。

 アレシュが一度も見たことのない、仮面みたいな顔で。


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