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廃王国の六使徒  作者: 栗原ちひろ
第2部 禁書庫の六使徒
78/112

第78話 愛の言葉をためらうのは罪の証

 意外すぎる問いが、頭の中でからから音を立てる。

 アレシュは無様に目を見開くと、引きつったような声を出した。


「――それは、つまり、どういう意味で?」


「私のこと、愛してますか」


 ためらいなく返ってくる言葉。

 どんな鈍感な男だって、この言葉の意味はわかる。

 でも、どうして。

 なんで今さらこんな問いが飛び出した?

 アレシュは頭が真っ白になっていくのを感じながら、呆然と言う。


「愛」


「言って下さい、本当のこと」


 彼女は苦しみをこめて囁き、深くうつむく。

 結っていない彼女の髪が緩やかに揺れ、アレシュの胸辺りでたおやかに渦を巻く。その髪からある種の鉱物に似た香りがほんのりと漂ったのを感じながら、アレシュは必死で考えた。頭を動かそうとした。

 虚ろな愛の言葉を吐くのは、呼吸をするより簡単だ。

 でも、自分はどんなつかの間の愛でも真実の愛と信じてきた男だ。

 それだけは、嘘を吐けない。そんなことをしたら、遊び人としての美が、矜持が、へし折れてしまう。

 自分の心をどうにかこうにか確認し、アレシュは深呼吸をしてから告げる。


「……ハナ。君は、うちのメイドだよ。君がそうしたい間はずっとそうだ。君が居ると、僕も色々ありがたい。でも、僕は、君を女性として見たことはない。君がどうしてここにいるのかも知らないし、無理に聞こうとも思わない。君が辞めたいというのなら、引き留めようがない。――僕らは、そういう関係なんだと思っていた」


 とことん正直に答えると、ハナが少し軽くなった気がした。


「そうですね。私も、そういうものだと思っていました」


 囁くような声。

 そこに混じっているのはかすかな喜びと、失望だろうか。

 アレシュは少しばかり眉根を寄せてハナの顔を見上げ、彼女の名を呼ぶ。


「ハナ。一体どうしたの。この間から――いや、君はずっと思わせぶりなことばっかりで、自分のことは何も言わないじゃないか。君は、どうしてここに来た? 僕に、何を望んでるんだい?」


「私は……」


 ハナは口を開いたものの、そのまま何も言えずにぶるりと震えた。

 アレシュは途方に暮れたまま、とにかく寝台に半身を起こす。どうにかしてやらなくちゃ、と思う。でも、どこまで触れていいんだろう。

 彼女はこんなにも幼くて、肩は薄くて、いかにももろい。

 アレシュがそっと手を伸べるのより早く、ハナはいきなり髪をはねのけて顔を上げた。乱暴にアレシュの襟をつかみ、くってかかる。


「私の望みは単純です!! ご主人様は家にこもってればいい! 穴がどうしたのこうしたのなんてどうでもいいでしょう? ご主人様は普段の態度を物憂げだとか優美だとか褒められてるかもしれませんけど、それって全部『根暗で眠そう』ってことですからね。みんな気を遣ってるだけなんです。そんなご主人様には、じめじめした地下室がお似合いです!!」


「ハナ……!! まさか僕のこと、ずっとそんなふうに思ってたのか!?」


「そうですよ、気づかなかったんですか!? これでも私、ご主人様の貧弱な精神強度に、ものすごく、ものすごーく遠慮してたんですからね! 打たれ弱いなら打たれ弱いなりに対策ってものを――」


 むきになって叫んでいたハナが、不意に口をつぐんだ。

 彼女はそのままさーっと青くなると、いきなりアレシュのシャツに顔を埋める。

 想像の埒外の行動に、アレシュはついに悲鳴をあげた。


「待ってくれ!! ハナ、頼む、ちょっと待てくれ! 僕に倫理観はないけど、見た目とか、現実的なところで好みはあるんだ!! 待って、助けて、誰か!!」


 情けない悲鳴をよそに、ハナはしばしそのまま静止している。

 やがて、ゆっくりと顔を上げて囁いた。


「――ご主人様。……香水、変えました?」


「……香水? 作ってた新作の匂いか? ……え、ハナ、お前、僕の匂いを嗅いでたの……?」


 おそるおそる訊きながら、アレシュはオニキスのカフリンクスをつけたままのカフスに鼻を寄せた。

 自分でつけている香りは本人には感じ取りづらくなるものだが、おそらくはあの新作香水、魔界の紳士の香水を調整した香りが緩やかに甘くなってきたころなのだろう、と見当はつく。

 そういえばこの香水の感想をまだ誰にも聞いていなかった、と気づき、アレシュは躊躇いがちにハナに訊いてみた。


「……どう思う、この香り?」


 ハナは青緑色の目を見開いて、彼の顔を見つめている。

 そこにはもはや怒りはなかった。どことなくしらけた表情。

 不評だったのだろうか。

 そんなはずはないだろう、となおも見つめていると、ハナの表情が唐突に崩れる。子どもっぽくくしゃりとゆがんだ顔に、いっぱいいっぱいに潤んだ瞳。

 直後、屋敷の天井が、みしり、と音を立てる。

 アレシュの視界の端で赤いものがひらめいた。

 サーシャ、と思うが早いか、サーシャの手だけが実体化してアレシュの襟首をつかむ。アレシュはそのまま、乱暴に寝台から引きずり下ろされた。

 どすん、と床にたたきつけられる衝撃。

 さらに、アレシュの薄い腹にハナの重みがかかる。

 痛い、と感想を言う間もなく、今度は寝室の扉が蹴り開けられた。


「アレシュ、無事か!」


「……ミラン」


 どうにか絞り出したアレシュの声はかすれている。

 こんな夜中でも完全防備の冬用軍装のミランが、懐からぞろりと厚紙の札を取り出す。勢いよく投げ出された彼の札が、アレシュの目の前で不自然に浮き上がった。急激に吸い寄せられたかのように、札はすべて天井へ貼りつく。

 赤黒い記号が描かれた札が、じじじ、と焦げ臭い匂いを発する。


「封じたか?」


 ぎらつく瞳でミランが天井を見上げる。

 そのミランを押しのけ、今度はカルラが真剣な顔を出す。


「下僕ちゃんの札、今日は一時しのぎにはなってるじゃない、珍しいわねえ。じゃ、次はこっち。おいで、私の子猫ちゃん」


 カルラがしなやかな指を伸べて呼ぶと、寝室の隅にわだかまっていた闇の中から、毛むくじゃらの甲殻類じみた足が一本、二本と勢いよく飛び出し、絨毯敷きの床に突き刺さる。

 カルラの使い魔、通称『猫』だ。以前召喚したものよりは小ぶりだが、それでも全長はこの寝室ほどの大きさがあるだろう。

 こんなところでこいつを出されたら、屋敷が破壊されてしまう。

 反射的にアレシュはハナの肩を抱き寄せる。そんなふたりの前に、いつの間にやら入りこんできたルドヴィークがするりと立った。彼はアレシュたちを守るように杖に仕込まれた刃をうっすらと抜き、笑いにゆがんだ唇を開く。


「アレシュ、ハナさんと一緒に身を低くしていらしてください」


「ルドヴィーク、これは……っ」


 一応の説明を求めようとしたとき、アレシュの鼻は何かを嗅ぎ当てる。

 これは……言うなれば、懐かしい田舎の空気の匂い。アレシュの大好きな夜の匂い。湿った夜の森、青い月光の匂い、穏やかなまどろみ――そんなものをはらんだ空気が、どっと寝室に流れこんでくる。

 一体、どこから。

 アレシュが匂いを追って頭上を見上げたとき、天井はさらにみしり、と音を立て、大きくゆがんだ。


「え? 嘘……」


 カルラの目が限界まで見開かれ、つぶやきが零れる。


 直後、天井に張りついたミランの札が、すべて一斉にはじけ飛んだ。

 カルラの使い魔が、巨大な蜘蛛に似た姿で天井に三本の足をかけ、たわむ板を支えようとする。しかしその足はぎしぎしと激しい音を立てたかと思うと、頑強すぎるはずの表面にびしりと亀裂が入った。

 亀裂は見る間に広がって、使い魔の一本目の足を覆い尽くす。

 すかさず他の足が躍り、尖った先を天井に突き立てた。

 途端に大気が震え、ひとの泣き声とも風のうなりともつかない音が全員の鼓膜に叩きつけられる。脳みそまで痙攣しそうな大音響の中、めきめきめき、ばきごきばき、という破砕音が頭上で響く。


「落ちますぞ」


 ルドヴィークの妙に冷静な声。

 続いて、どっと吹き付けてくる冷えた風。

 闇の匂いと硫黄の生臭さ。

 ばらばらと落ちてくる木片や砂から己の顔とハナをかばいつつ、天井が落ちたな、とアレシュは思った。

 父の作った美しい屋敷。その中でも一番お気に入りの自室を壊されたと思うと胸が痛むが、とにかく目を開けて状況を把握しなくては。

 その一念でどうにか目を開ける。


 そこで見たのは、《《図書館》》だった。


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