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廃王国の六使徒  作者: 栗原ちひろ
第2部 禁書庫の六使徒
77/112

第77話 ご主人さま、私のこと、好きですか

 それからの三日は、アレシュにとっては夢の中で過ぎたようなものだ。

 しかも甘い夢ではなく、高熱時にみる類いの神経を引っ掻く悪夢である。


「アレシュ。アレシュ、聞こえる?」


 甘く引きずるようなかすれ声で名を呼ばれて顔を上げれば、目の前でひらひらと赤が躍っている。

 見慣れた髪の色だ、と思って、アレシュはうっすら微笑んだ。


「サーシャ。どうしたの? 今日はちゃんと喋れるんだね。姿も、見えるし」


 喋ってみてから、自分の声もひどく嗄れていることに気づく。

 最近声を出していなかったからか、と、アレシュはぼんやり地下室の隅の闇に目をこらした。

 サーシャ。自分の屋敷に、死んではいるが本物のサーシャがいる。

 子供みたいに微笑むアレシュに、サーシャは赤い髪を揺らして目を細めた。痩せた白い顔の中で、薄い唇が蠢いて言葉を吐き出す。


「そりゃそうだろう。お前、三日もこの地下室から出ていないし、ろくに食事もしてないね? ハナの様子も見に行っていないし」


「食べないほうが嗅覚が鋭くなるんだ。ハナは――いくら言っても部屋から出てこないから仕方がないよ。大丈夫、彼女のことはミランが気にしてる。それより、見て、サーシャ。香水、できたんだ。魔界の紳士が残してった香水とよく似たやつ。手に入らない材料は代用品を使ったけど、かえって調和は高まったはずだ」


 アレシュが少年のころそのままの気持ちで幼く言うと、サーシャは虚ろな灰色の瞳で、ちらと彼の持っている試験管を見やる。視線にはそれなりに慈愛がにじんでいるようだったが、彼の語る言葉は素っ気なかった。


「魔界の香水の模倣品? それを作るのが、お前の仕事だっけ」


「ちがう……僕の仕事は魔界の紳士の香水を分析することだよ。でもね、そのために香水の再現が必要なんだ。それに、あの魔界の紳士の香水を超えられたら、父さんの香水にも勝てるかもしれない。そんな気がするんだよ」


 アレシュはうっとりと語りながらサーシャの袖をつかむ。

 すると、意外なほどはっきり堅い革の感触をが指に触れた。アレシュは軽く目を瞠る。


「――あれ、君、ほんとに今日ははっきり触れるね」


「それってどういう意味か、とか、考えないの」


 サーシャの声はどことなくあざ笑うような響きを含んでいた。

 アレシュが戸惑いを隠せずに彼を見上げると、サーシャはいきなりアレシュの襟をつかんで思いっきり引っ張った。

 三日の徹夜ですっかり力の入らなくなった足は大いによろける。

 一歩、二歩。

 よろけて歩いた先には、置きっぱなしにされたハナの扉があった。アレシュの鼻先を古い本の匂いがかすめたかと思うと、次の瞬間には薄明るい場所へと放り出されている。


「あ、れ……?」


 天窓から降り注ぐ淡い光。埃っぽい絨毯。

 ここはヴェツェラ邸のサルーンだ。

 アレシュが朦朧とよろめいていると、周りにわっとひとの気配が集まってくる。


「アレシュ! やっと出てきたの? なんだかひっどい有様だけど……ねえ、聞いて。私のところから、魔界の紳士録が盗まれてたのよ!」


 女の声。これって誰だっけなあ、知りあいよな、などと考えながら、アレシュは適当な椅子にずるりと座りこんでうなずいた。


「そう」


「そう……って、酷いと思わない!? ちゃんと使い魔ちゃんも居たのに、罠もいっぱいかけといたのに! ぜーんぶなかったみたいに無視して本一冊だけ盗るとか、難易度高すぎよ! ……これも魔界の紳士がやったのかなあ。あれから穴は空いてないけど、このまま静かに過ぎ去ると思う?」


「うん、そうだね」


「わたしのほうは、六使徒の活動に圧力をかけていた人間をあらかた突き止めました。案の定と言いましょうか、最近の百塔街新聞社には街の外の暴力組織から手が入っていたようでして、外に売れる情報を仕入れるだけにとどまらず、暴走したヤルミルが――ああ、聞いておられませんな。

 ミラン殿、これはいったん寝かせないと話になりませんな」


「寝かせようとしても寝なかったのだから仕方なかろう! アレシュ、貴様、三日も一体何をしていたのだ? 捜査もいいが、ハナさんのことも少しは気にかけたらどうなのだ!」


 にぎやかな声に頭痛を覚えながら、もうこいつらはここに住めばいいんじゃないか、なんて考える。なにせこの屋敷には山ほど空室があって、放っておくとすぐに廃屋の様相を呈し始めるのだ。

 ハナがもう少しだけ掃除好きだったら現実的な話だったな、と思ってから、彼女の気配がどこにもないことに気づいた。


「そういえば、ハナはどこへ行ったんだい?」


 アレシュの問いに、カルラたち三人はきょとんとした。

 しばらくじっとアレシュの顔を眺めた後、ミランが妙に厳かな顔で言う。


「――やはり、こいつを、しまおう」


「そうね。今日は少なくとも、無理だわ」


「ちょっと失礼しますよ、アレシュ」


 ルドヴィークの台詞の直後にぱっと黒い色が広がって、アレシュは浮遊感に包まれた。そのまましばらく運ばれてから、ルドヴィークに姫君みたいに抱えられているのだな、と理解した。

 ルドヴィークはアレシュをごちゃついた寝室の寝台へ降ろすと、宝石のはまった靴を丁寧に脱がし、


「なんと申しましょうか、思った以上に軽かったですな」


 と、そんな感想を残して去っていく。


「……姫君、というよりは、人形扱い、か……?」


 アレシュはつぶやいたが、疲弊しきった身体は寝台に触れた途端におそろしく重くなり、彼の精神はすぐさま泥のような眠りに落ちていった。



□■□



 久しぶりの寝台で、アレシュは暗い夢をみる。

 昔よくみていたのとと同じ夢。


 見慣れた地下室でこぽこぽいうフラスコ。

 作業台に向かう紳士の後ろ姿。

 夢でまで作業室に戻ってくるなんてどうかしているな、とアレシュは心で笑う。

 調香の術を思い出してからこちら、自分はずぶずぶと調香の世界へ沈みこんでいる。まるで何かに取り憑かれてでもいるかのよう。


 ――わたしの香水は、支配者ではない。指揮者だ。

 ――音楽を奏でれば、ひとは踊る。


 そう囁いていたのはきっと生前の父だろう。

 アレシュは夢の中の作業室で、父の背中を懐かしく見つめる。

 シャツとベストの上からでもわかる、痩せた背中。ぴんと伸びた美しい姿勢。

 洒落たベストの上にこぼれる、目の醒めるような青い髪……。


 青い、髪?


 そこで、アレシュはひどい違和感に気づいた。

 いつもの夢と、ここだけが決定的に違う。

 母はともかく、父はれっきとした人間だった。こんな突飛な髪色はしてない。

 じゃあ、こいつは誰だ?

 改めて見れば、青髪の紳士は香水を調合しているわけではなかった。彼はただただ、指を振っている。ただひたすらに美しく、気まぐれに、まるで楽団を指揮するかのように指を動かしている。

 ……楽団といえば、ハナのヴァイオリンだ。

 あれはなんだったんだろう。あれ以降、彼女は一度もヴァイオリンを弾かない。


 アレシュがそんなことを思い出したとき、夢の外から鋭い少女の声が響く。


「ご主人様!」


 久しぶりのハナの声に、アレシュの意識は急激に覚醒した。

 あまりに急だったせいで、乗り物酔いのような不快感すら覚えながら目を開ける。暗い。もう夜になったのだ。

 闇の中、すぐ近くで、ハナの瞳が一対の宝石みたいに暗く光っている。


「ハナ……どうしたんだ、一体?」


 言ってから、ハナが寝間着姿で自分の上に乗っかっているのに気づいてぎょっとした。こんなふうに女性の重みで目覚めることはアレシュにとっては珍しいことではないが、相手がハナだというのが問題なのだ。


(待て、落ち着け、僕。いや、落ち着いてるけど。これってもちろん、《《そういう意味》》じゃないよな?)


 いくらアレシュが博愛主義の遊び人だからと言って、十歳の少女相手に恋はしない。とはいえ、彼女は本当に十歳なのか? 以前、カルラが魔法で見せてくれたハナの姿は年頃のお嬢さんだった。

 いや、でも、どっちにしろ今のしかかってきているのは十歳の体のハナだ。

 そもそも自分はハナをどうしたいんだ。

 ハナは自分をどうしたいんだ。


 混乱するアレシュの顔をのぞきこみ、ハナはやけに真剣な目で囁いた。


「ご主人様。私のこと、好きですか」


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