第74話 山ほどの手袋を捨てるのは
「……これ?」
アレシュは改めて自分の手にした手袋を見つめ、すぐにカルラに向き直ってつぶやいた。
「じゃあ、あの穴を開けた人物は、この手袋の持ち主だな」
「手袋の持ち主? なんだその安直な発想は。しかもそんな普通サイズの手袋を使う奴が、どうやってあの規模の穴を開けたというのだ? 魔法の儀式の跡なぞはなかったのだろう?」
もっともなミランの問いに、アレシュは小さく肩をすくめて微笑む。
「魔界の紳士なら、それくらいやってのけるさ。あの穴を開けたのは、この手袋の持ち主で、魔界の紳士だ。だってこれについている香水、人間界では作れないんだよ。うちの地下室にあったいくつかの標本――父さんがどうにかして手に入れた、魔界の花の標本でしか嗅いだことのない匂いが使われていた」
アレシュの言葉に、周囲の雰囲気がふわりと温度を上げる。
カルラの顔から不安と心配の色が静かに引いていき、彼女は少女のようにわずかに頬を赤らめて笑った。
「あらら、ほんとに立派になっちゃって。私たちも、そういう結論に達したところだったのよ」
ミランも面白そうな顔になって自分の顎を撫で、アレシュのつまんだ手袋をのぞきこんだ。
「なるほど、なるほど。敵は魔界の紳士か。街が裏返るのと魔界の紳士の散歩に巻きこまれるのと、どちらがマシかはわからんが、敵が明確なのは悪いことではないな。しかし、なんだな。その魔界の紳士とやらも、こんなに上等そうな手袋を落としていくというのはよっぽど注意力散漫なのか、はたまた、こっちに決闘でも挑んでいるつもりなのか?」
「あはは、決闘だって? 下僕は本当にばかだなあ! こんなの、潔癖症に決まってるじゃないか!」
「潔癖症、だと!?」
唖然とした顔になったミランの顔に、アレシュは手にしていた手袋を無造作に放り投げて皮肉に笑う。
「よく嗅いでみろよ。香水の向こうに、石けんと消毒液の悪臭がするだろ? これ、探したら同じものがもっと出てくるよ。そういう匂いがあっちこっちからしているもの。これはね、きっと汚れたからって、いちいち手袋を使い捨てしてるのさ」
「わかるか、そんなもの! こんな高級品を使い捨てするなど、その時点で意味がわからん!」
「ミランは紳士じゃないからわからないかもしれないけど、この相手は紛れもなく紳士だ。自分が使うものの品質は落とせないし、潔癖症であることも譲れないっていうだけだよ。カルラ、そういう極端な潔癖症の魔界の紳士って、記憶にあるかい?」
アレシュが問いを投げると、カルラはちょっとため息混じりに首を傾げた。
「ぱっとはわからないけど、とにかく魔界の紳士録を当たってみるわ。こういうときにハナちゃんが書庫を使わせてくれたらいいんだけど。あの書庫って、魔界の書庫なのよね。長々居ると変な気配がしてきて怖いんだけど、すんごい本がいっぱいあって誘惑一杯なの。でも、姿も見せないようじゃ、無理かしらね?」
「確かに、最近さっぱり出てこないからな」
アレシュは言い、目の前で白く柔らかな革手袋をゆっくり振った。
途端に立ち上がる先ほどの香水の匂いで、すぐにまた陶然としてしまう。ハナのことを考えなくてはいけないのに、どうしても目の前の香水にとらわれてしまう。
なぜならこれは、初めての香りだったから。
どんな人間にも考えつけなかった、すなわち、アレシュの父にも考えつけなかった香り。しかもアレシュの父の香水に勝るとも劣らない。
――この香水から受けた印象をつきつめていけば、自分は父の香水を超えられるのではないか。
そう考えるとアレシュの心臓は勝手に鼓動を大きく響かせ始めた。
心が浮き立つ。むせかえる。息が苦しい。少しばかり不自然なほどのときめきだ。本当はこんなことより、魔界の紳士から街を守ることを考えなくてはならないのに、どうしても取り憑かれてしまっている。
(……この調子じゃ気が散ってしょうがないな。調査と併行して、調香ももう少し真面目にやってみるか)
いつの間にやら、アレシュは調香の創造神に取り憑かれてしまったらしい。
皆に気づかれないようため息を吐くと、アレシュは皆に向き直った。
「僕はこの手袋と香水について、もうちょっと調べてみる。カルラは魔界の紳士録を当たって報告してほしい。ミランは、そのへんで僕とハナの夕食を買ってきてくれ。念のため言っておくけど、自分で作るなよ。お前の料理は石けんとか雑草とか砂の匂いがする。サーシャは、僕のそばにいてくれればそれでいい。ルドヴィークは――」
と、そこで言葉を切ったのは、サルーンの隅に立ったルドヴィークが、さっきから入れ替わり立ち替わりやってくる葬儀屋たちと言葉を交わしているのを知っていたからである。
ルドヴィークはアレシュの視線を感じると、仮面の笑いを浮かべて顔を上げた。
「わたしは、穴と魔界の扉の監視を受け持ちましょう。それと、少々今回の件で変な騒ぎ方をしている方々がいらっしゃいますので、そちらとの交渉に行かねばなりません」
「その辺りの荒事は任せたよ。信用してる」
アレシュがルドヴィークの仕込み杖をちらと見やって言うと、彼は妙になめらかに一礼した。
そしてふと身にまとった異様な雰囲気を薄めると、アレシュに優しく声をかける。
「が、その前にですな。アレシュ、これを見てくださいませんか?」




