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廃王国の六使徒  作者: 栗原ちひろ
第2部 禁書庫の六使徒
73/112

第73話 魔界の紳士のうるわしき香り

 ところは戻って、アレシュの館である。


 カルラたちが穴の調査をしている間、アレシュたちはサルーン中に広げられた棺桶の中身をひっくり返していた。

 元からごちゃついたサルーンをがらくただらけにしたあげく、最初に値を上げたのは、案の定アレシュだ。


「……気持ち悪い……」


 うめくように言って床にしゃがみこむアレシュを尻目に、ミランはせっせと棺桶の中身をひっくり返し続ける。


「なんだこのくらい。一体何が気持ち悪いという! やぶけた衣類に、砕けた道具類、家具類、その他もろもろ。がらくたではあるが、下町のゴミあさりであれば数百倍はおぞましいものを引っかき回すのが日常だぞ。百塔街の住人がこれくらいで根を上げるな、情けない!」


 ミランが言うのはもっともだが、アレシュは古い絨毯を黒く塗った爪で引っ掻きながらつぶやいた。


「そうじゃない……そうじゃないんだよ、下僕。僕は久しぶりに労働にいそしんだせいで、頭も身体も調香師になっていたんだ。まあ、つまり、嗅覚が鋭くなってしまっていてね……。そのがらくたの匂いをかぎ続けるのが、耐え難い……」


「匂い、だと? そんな派手に匂うか? まあ、多少硫黄臭がするような気はするが……」


 ミランはアレシュの言い分がちっともわからない様子で、床に置いた棺桶をのぞきこむようにして鼻をひくつかせる。あまりに一般的で鈍感な意見に、アレシュはのろのろと首を振りながら答えた。


「お前はなんにもわかってない。世界の万物には匂いがあるのさ。人間の匂いだってそれぞれに違うし、花や何かだけじゃない、石や金属だって匂う、布だって、樹脂だって、蝋や魚、錆びや硝子……ううう、また気持ち悪くなってきた」


「ふむ。正しく働きだしたのはいい傾向だと思って見ていたが、調香師としてのお前は変態じみていて気持ちが悪いな」


 ミランが真剣な顔になって言ったのはよりによってそんなことで、アレシュはますます頭を抱えたくなってしまった。

 もういっそ、一度寝台へ逃げこもうか――と、そんなことを思ったとき。サルーンのどこかで、わずかに空気が動く。

 まるで近くで扉が開いたかのような、かすかな風圧。


(ハナ?)


 反射的に顔を上げてハナの姿を探すが、目の前には棺桶があるばかりだった。

 ひょっとしてハナが扉を開けてこちらをうかがって、すぐに扉を閉めたのかもしれない。そういえば地下室にこもってから、まだ一度も彼女の姿を見ていない。

 どこにいるのだろう。元気にしているのだろうか。

 そういえばあのヴァイオリンは、あの後どうなったのだろう。

 そんなことをつらつらと考えていたアレシュだったが、不意に別の衝撃が彼の感覚に叩きつけられた。


「これは……」


「どうした、アレシュ」


 怪訝そうなミランの声が、妙に遠くに聞こえる。

 さっきまで考えていたハナのことも、ほとんど遠くへ行ってしまった。

 アレシュは赤い目を見開いて顔を上げ、いきなり立ち上がって、目の前の棺桶の中身を猛然とひっくり返し始めた。

 さっき、風向きが変わったせいで自分の中に飛びこんできた、新たな香り。

 あれは確かに香水だった。

 至極落ち着いた木の香りに、黒胡椒でアクセントを加え、シナモンで甘さを付け足した完璧な残り香。どれもこれもありきたりの原料を使っているように思うのに、なぜか不思議に心が騒ぐ。甘い期待と、すべてがむちゃくちゃになってしまいそうな暗い予感が、ちょうど半分ずつ心を占める。


(父さんの作ったもの以外の香水で、こんな気分になったことって、あったっけ?)


 なかった。おそらくはなかったはずだ。

 だからこそ必死にアレシュは匂いに集中していた。

 何かを動かす度に、絡み合い、入り交じった雑多な香りが奔流となって鼻先に渦を巻く。ともすれば目眩と吐き気をもよおすような感覚ではあったが、今は目的がはっきりしているぶん、自制ができる。

 しばらく無心に手を動かしながら目的の匂いを追い、アレシュはそっとがらくたの中から目的のものをつまみだした。


「あった。――これだ」


 わずかに紅潮した顔で言うアレシュの手元を、しかめっ面のミランがのぞきこむ。彼はアレシュがつかんでいるものが埃に汚れた白手袋であることを知ると、ますます苦い顔になった。


「なんだ、それはただの手袋ではないか。そんなものなら他にもいくらでも落ちていたぞ」


「問題なのはものじゃない。匂いだよ」


 アレシュは神秘を告げる口調で囁き、そっと目を閉じて手袋の匂いを感じようとする。

 さっきよりもよほどはっきりとした香りに、アレシュはうっとりと身を任せ、想像力を解き放つ。


(この残り香は甘いまどろみを誘うもの。おそらく残り香の主題はそのまま『まどろみ』だろう。そして、残り香に変化する前の香りも、気配だけ残っている……南国の花園みたいな香りだ。素敵だな、南の花園の中の四阿でうとつくような構成――この香水全体の主題は、『幸福な休日』ってところなんじゃないか? 

 幸福な休日を始めるのは、わくわくするような朝食。果物に、華やかな飲み物。きっとこの香水の最初は、そんな香りだったはずだ)


 子供みたいに浮き立ったアレシュの心の中で香水の構成が明らかになり、その原料もまた次々に特定されていく。

 考えれば考えるほどに品よく美しく、一切無駄のないこの構成。

 想像だけで蕩けてしまいそうなこの香りの中でただ一点、唯一空白になっている原料、それは――


「あら、アレシュ。もう見つけちゃったの?」


 香りの幻想の中に急に割りこんできたカルラの声に、アレシュはわずかに息を呑んで目を開けた。

 さっきまでの興奮のせいで少しばかりぼやけた視界に、玄関広間のほうから歩み寄ってくるカルラの姿が映りこむ。


「やあ、カルラ。穴の調査は、どうだった? サーシャは大丈夫?」


 幻想から抜けきらぬまま問いを投げるアレシュに、歩み寄ってきたカルラは少し心配そうな顔になって首を傾げる。


「サーシャも元気、私も元気よ。あなた、なんだかすごい顔色してるけど大丈夫? サーシャがぐしゃぐしゃになった直後みたいな顔よ」


「そう? そのころは、鏡を見なかったからなあ。こっちは、穴の辺りにあった証拠品の中から、ちょっとすごい香りのものを見つけてね」


 アレシュは半分上の空で言い、品のいい香水のついた革手袋をカルラの目の前にかざす。

 それを見たカルラは少しばかり目を細め、傍らにわだかまるサーシャの霧と視線を合わせてから、アレシュに向き直って切り出した。


「香りの話も聞きたいけど、まずはこっちの話を聞いてくれる? 二つ目、三つ目の穴、魔界の扉の側じゃないっていう話はしたわよね。で、サーシャに三つ目の穴の周辺の過去を見てもらったら、どうも穴が空いた瞬間に、どこからともなく落っこちてきたものがあるらしいのよ」


「どこからともなく? 隕石でも落ちたのかい」


 素直に思ったままをアレシュが言うと、カルラはますます心配そうな顔になって首を横に振り、アレシュの持っている手袋を指さした。


「ううん。落ちてきたのは、それ」


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