第70話 使い魔VS人形
赤黒い影が揺れて、サーシャが囁いた。
「カルラ。あのズビニェクとかいう男の持ってる本、すごい。あの本の周りに、色んなひとの死が見える。ずーっと昔の死から、未来の死まで」
「あらあら。サーシャってばそんなものも見えるの? やっぱりあなた、人間界と魔界の合間にはまりこんじゃってるのかしらねえ。それはともかく、そっか。あの本ってやっぱりそういうことか」
カルラが腰に手を当てて見つめるうちに、ズビニェクは革と宝石で飾られた巨大な本の表紙を開く。
「……最初から怪しいとは思っておったのです。ヴェツェラの若造が栄光の『深淵の六使徒』の名を持ちだした、そのときから。あの若造だけならば、まだひどい悪ふざけの可能性もありました。しかし裏にいるのが葬儀屋やあなたとなったら、これはもう……裏から百塔街を支配しようという企みと思って、間違いはあるまい」
「……これだけ大々的に六使徒として活動しているのに、裏から支配?」
サーシャがぼそりと言い、カルラは苦笑して胸元のペンダントを弄んだ。
「そうよねえ。私たちがそんな面倒なことしたいなら、アレシュなんか引っ張り出さないわ。でも、おじいちゃんはもう、聞く耳なさそうよ?」
「何をごちゃごちゃ言っておる! 今回の穴の件も、すべて貴様らが企んだことであろう! その証拠に、貴様らに疑いを持っているわしの店をつぶし、わしの本の欠片まですべて回収していきおって……おお、泣き声が聞こえるぞ。わしの、わしの、愛しい本たちよ……あの本はわしの命だ。返してもらうぞ!」
しゃがれきった声で叫んだかと思うと、老人は懐から美しい短剣を取りだし、控えていた護衛の手を切りつけた。
「ひっ!」
「わめくな、ただの餌だ。いでよ、医??ュ皮阜縺ョ迥ャ!!」
おびえる護衛の手をつかみ、老人は本の上にその血を滴らせる。
続いて何やら聞き分けられない単語が乾いた唇から発せられたかと思うと、黄ばんだ羊皮紙の上にさらさらと細かな砂のようなものが出現し、渦を巻き始める。
カルラは目を細め、どことなく妖しく微笑んだ。
「ずいぶん実戦的なのじゃない。所詮は血の数滴で動くようなやつだけど。じゃ、私も呼んじゃおうっと」
「例の猫?」
がさついたサーシャの問いに応えるよう、カルラは中空に美しい手を伸べる。指にはまっていた指輪のひとつが、赤い空から注ぐ陽光でわずかに光る。
指輪についた透明な石の中には、一粒の赤黒いものが混じっていた。
「ううん、違うわ。猫ちゃんはこの間一匹つぶされちゃったから、今は新しいの育成中。このくらいのお相手なら、お人形でもどうにかなるでしょ。おいで、お前の心臓はここよ」
「遅いわ! ゆけ、魔界の番犬よ!!」
ズビニェクが怒鳴り散らすと、砂の渦がきゅっと寄り集まる。
次の瞬間、それは爆発的に巨大化した。
ぼんっ、と路地を埋め尽くす大きさになでなったのは、つやつやした肉色の球体だ。皮を剥いた生肉みたいな質感の球体は、あちこちが不自然に膨らんでは弾け、そのたびにむせかえるような腐臭を辺りに振りまく。
そして、たまに「ワン」と甲高い声で鳴いた。
「嘘……これが犬!? やだ、絶妙に気持ち悪い……!!」
カルラが自分の猫のことは高い棚に上げて青ざめているうちにも、『犬』は膨張を続ける。しまいにはズビェニクもその護衛も六使徒ファンも皆姿が見えなくなり、いくつかの悲鳴まで響いてきた。
「うわっ、よせっ、離れっ……ぐっ、うぅ……!」
「おっ、おいおいおい、どういうこった! 仲間が食われたじゃねえか、爺!」
「ただの食事だ、黙って見ておれ!! こうでもせんと魔女には勝てん!」
癇性なズビニェクの叫びが聞こえ、『犬』は膨らみ、むりむりむりと路地を埋め、ついにはカルラたちの眼前にまでせまってきた。『犬』は真っ青なカルラの眼前でやっと膨張を止めると、むりむりっと肉の表面に横一文字の切れ目を作り、それを口代わりにしてニコっと笑う。
それを見たとき、カルラの中で何かがぶっつりと切れた。
「や……やだーーーーー!! これはやだ、こんなのは無理! 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い! 強い弱いじゃないわよこんなのもうやだ私逃げる!!」
「カルラ……」
呆れたようなサーシャの声を聞いているのかいないのか、カルラは勢いよく身を翻す。そこへ『犬』からひゅっと細くて長すぎる人間の手が生え、カルラの華奢な足首をつかんだ。
「……っ!」
声を押し殺してカルラが転倒する。
もがくように立ち上がろうとしたところへ、『犬』の巨大な口部分がぱっくり開いてのしかかった。
「やだやだやだっ、来るな! 私食べても不味いわよ、年増なんだから、あとはものすごく抵抗するわよ、痛いわよ、それとあと、アレシュたちが復讐に来て、私よりさらにひどい目に遭わせるに決まってるんだから!」
カルラが倒れたまま身をよじって叫ぶと、ぽっかり開いた口の中でくすくすと笑う声がする。『犬』は様々な言語の片言みたいな、奇っ怪な韻律をもって語った。
『大丈夫。お前を食って、すぐ帰る。ここはよくないね。《《あいつ》》がいるし』
「え? ちょっと――あいつって」
それって誰よ、と言いかけたとき、カルラの頭上がすっと暗くなる。
直後、『犬』が子どもの合唱みたいな悲鳴と共にぺしゃんこになった。
ピンク色の肉がべしゃりと足下まで広がってきて、カルラが本気の悲鳴を上げる。
一体なにがあったのか。
見れば、『犬』は突然出現した拳に頭上からねじ伏せられているのだ。
拳は石畳すらみしみしと軋ませる力で『犬』をへこませていく。
『犬』はほとんど抵抗らしい抵抗も出来ず、ぴいぴいと泣きながら融けるように小さくなってしまった。




